唯識論は医療の縮図☆ | いのちまるごと美しく!『ホリスティック美人塾』

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今日は朝からface to faceさん主催のレッスンで私自身も元気になり、午後はその足で帯津良一先生の統合医学の授業に参加させていただきました☆

休憩もとらずに先生が熱く語って下さったのは、「唯識論は医療の縮図」というお話。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のうち、眼・耳・鼻・舌・身の五官については西洋医学が細かく解明したが、実は人間丸ごとをみる時に大事なのは最後にある意識=直観

免疫は自己愛から離れることができないので未那識(まなしき)、自然治癒力は自他を超え虚空と一体となった場に働くので阿頼耶識(あらやしき)

というように、免疫と自然治癒力をそれぞれ未那識と阿頼耶識に例えてお話下さり、そこから自然治癒力とは何か?について医学の歴史とともに振り返りました。

※唯識論とは
唯識(ゆいしき)とは、個人にとってのあらゆる諸存在が(ただ)八種類のによって成り立っているとする大乗仏教の見解の一つで、八種類の識とは五種の感覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)、意識、2層の無意識=未那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)を指す。八種の識は総体として、個人の広範な表象・認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合う個人の無意識の領域をも内含する。
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまう。即ち諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)とする思想。(Wikipediaより抜粋)


医学の歴史における自然治癒力は、古代のヒポクラテスやガレノスの頃はvis medicatrix naturae(ラテン語。英語のnature)と呼び、自然環境なども含む場のエネルギーの概念に近いものでしたが、1628年にウィリアム・ ハーヴェーが血液の循環理論を証明すると、その見解が現代医学の基礎になっていきます。

1800年代中頃にはルイ・パスツールなどの活躍で分析医学が主流になり、そんな中、ミシェル・フーコーは「科学は“医学”に留めておくべきで、“医療”の中に科学を持ち込んだのが間違いだ」と説き、詩人・哲学者のバシュラールやベルグソンは、患者中心の医学を支えるのは直観だ、と説いていたそうです。
医療について昔は哲学者達が喧々囂々、議論しあっていたのですね。
医と哲学はもともと一つながりのものであることを確認します。

自然治癒力は、いまだに証明や定義付けがされていないものですが、帯津先生は「自然治癒力は浄土にある」と考えるそうです。
浄土とは、阿弥陀様の本願が満ち満ちているところ。
本願とは、阿弥陀様のあらゆる衆生を救おうとする願い。

阿弥陀様の本願が満ち満ちている場こそ、自然治癒力が発動する場であるということです。

一方でそれぞれの人が抱える「生きる哀しみ」にも人を癒やす力がある。

よって自然治癒力とは、

自力=それぞれの人が胸に抱く生きる哀しみ
他力=阿弥陀様の本願

という、「自力と他力の統合」である。

だからこそ患者さんには黙って寄り添い、戦友として患者さんがやりたいこと(治療法など)をサポートしていく。
誠意をもってやっていく。
そんな外の暑ささえ比べものにならないほど熱いお話でした。

唯識論と医療についてのお話もさることながら、今日も人としての優しさとは何か?ということを、観念論や理論でなく帯津先生のちょっとした言動やエピソードからハッとさせられました。

長くなりましたので、そのエピソードについてはまたの機会に(^_-)-☆

会うだけで人を感化してしまう存在。
40年後、少しでも近付けるように、一歩ずつ進ませていただきますアップ

※家庭画報2015年7月号より↓