東洋哲学において良知は、

仁・義・礼の心と意訳できる。

 

仁・義・礼のうち、仁の心は、

「惻隠の情」と表現される。

 

 

新渡戸稲造が日本人論を記した、

「武士道」の中で

 

 

日本人とは、

「惻隠の情」であるとしている。

 

人は良知のとおりに行動したいという、

そんな欲求をもつ。

 

それを良心という。

 

この良心こそが日本人の特徴であり、

武士道そのものであるというのだ。

 

これは日本国憲法の中でも、

思想、信仰、表現の自由と並び、

 

この良心の自由を保障することが謳われている。

 

 

「良知」を東洋では、

人の中にある大自然の摂理そのものだという。

 

冬になると何万キロも離れた、

アイスランドから迷うことなく辿り着き、

またアイスランドへ渡っていく、

オオハクチョウに働いているメカニズム、

 

毎年、同じ時期になれば産卵し、

数年後に川に戻ってくる鮭に働く、

そのメカニズム、

 

それが大自然の摂理だ。

 

そして、動物は種の繁栄のために、

自らの子孫を守り育てたいという欲求が働く。

 

自らの群れの仲間を守ろうとする、

そんな欲求が働いている。

 

人間にももちろん、

そのメカニズムが働いている。

 

それが良知であり、

その良知の通り行動したいという欲求が働く。

それが良心だというのだ。

 

 

 

別の方向から考えてみる、

 

このような考え方は、

東洋独自のものというわけでない。

 

例えば、

 

良心を英語で訳すと、

【conscience】となる。

 

この語源を分解すると、

 

【con-science】

・con 共に、共通して、

・science 科学

 

誰もに共通する科学、

誰もが共通してあるメカニズム、

 

そんな意味になるだろうか?

 

 

20世紀を代表するの心理学者、

アブラハム・マズローは、人間の最高次の欲求は、

コミュニティ発展欲求と表現した。

 

晩年にこの境地に行き着いたマズローと対話した、

V・フランクルはこの説に大きくうなずき、

彼はそれを意味実現欲求と表現した。

 

またアドラー心理学ではこの欲求は、

共同体欲求と表現される。

 

 

ちなみにこの良知のことを、

神道では神の分け御魂と表現し、

仏教では仏性と表現する。

 

 

当たり前といえば、当たり前のことだ。

心理学、宗教、儒学も哲学も、

 

その対象は同じ人間だ。

 

同じものを研究しているのである、

表現は違えど、同じような結論に行き着く。

 

 

この誰の心に中にでも働く、

良知を判断のよりどころに、

一人一人が行動していく。

 

上司の判断ではなく、

マニュアルの何が書かれているかよりも、

 

顧客を前にして、何をすべきかを、

【自らの良知に照らし】、行動する。

 

目の前のトラブルに対して、

上司の指示を待つことなく、

【自らの良知に照らし】、

何をすべきかを決める。

 

この【良知に照らす】という、

行動を一人一人が、日々の行動の中で、

行いはじめると、一人一人が躍動し始める。

 

その【良知に照らす】という行動を、

いつも喚起できるような、

クレド、社訓や行動規範を掲げ、

それを日々、思い起こせるようにすること、

 

これが要諦の中、要諦だ。

 

 

 

(まとめ)

ホラクラシーという組織は、

まったく新しい組織体ではないと思う。

 

ホラクラシーは、

階層を持たない、いわば軍隊型の組織とは、

真逆の組織体だ。

 

軍隊型の組織体を前提とすれば、

新しいと感じる。

 

しかし、一人のトップ、また中心があって、

同心円状に広がっていく組織は、

 

例えば、浄土真宗が広がっていった際の

組織体などと似ているように思う。

 

イスラム教の組織も近いかもしれない。

 

それらの組織体は、古い日本語では、

平座と呼ばれる。

 

私たちにとっては、新しいけれど、

実はすごく懐かしい組織体なのかもしれない。