実は昨日、中目黒で行われたプラユキ・ナラテボー師の、瞑想会に参加してきました。
プラユキ師に関してはWikipediaに簡潔にご経歴がまとまっているので、是非どうぞ。
瞑想会……と勢いあまって書いてしまいましたが、自主的に瞑想を行う和室が用意されており、参加者は好きな時にきて、好きなだけ瞑想をして、好きな時に帰れる、という自由度の高いもの。
一方で、プラユキ師との個人面談を事前に予約することで受けることが出来たり、合同での瞑想指導を受けること、一日の締めくくりの合同でのカウンセリング(振り返り)に参加することも出来ます。
私はえらく興味があったものですから、朝いちばんにやってきて、最後まで残ってました。
「北欧ナイフやアウトドアと瞑想ってどう関係するんだよ?」と思われるかたもいるかもしれません。
こじつけかもしれませんが、私にはそれらが不可分のものだとは思えないのです。
私は一人になりたくて山に行くことがあります。つまり自分を見つめる(見つめ直す)ために、観光地的な山は避けて、その横にある「展望が悪い為に、人気(にんき)と人気(ひとけ)のない場所」に行ったりするわけです。
瞑想は自分の心と上手くつきあっていく方法の一つですから、そうした私のアウトドアスタイルとは噛み合っているように思えるのです。
また、不必要に自然を傷つけない、自然環境を愛し守っていく、なんてアウトドアの楽しみ方は、仏教のそれと一脈通じるところもありましょう。
ナイフを自然の中で使う時だって、ひと呼吸おいて考えることだってしばしばです。
「ナイフで切らなくても、手でどかせばいいな」とか、「これはしょうがないから切るか」とか。漫然と無意識的に持っているモノ・道具を使うというのではなく、それを使うまえにちょっと考える。
それをすることで、不必要な行動がなくなりますし、「自分で自分の行動を選択できる」という楽しさもあるわけです。
なので、私がそうした瞑想の会に行くのは、少なくとも自分にとってはとても自然なことでもあります。
まぁ、もちろん、悩みや苦しみがあるから、というのがメインの動機なのではありますが。
それはともあれ、会の様子ですが、自分の記憶、あるいはメモを元にざっくり書いてみましょう。
午前9時ちょいからスタートなのですが、私が到着した時には参加者は一名もいらっしゃいませんでした。
受付の和室にて参加費(運営費)をお支払いして、自主瞑想の部屋に入ります。
和室に座布団が敷いてあり、その一つに座って瞑想をしてみるも……なかなかうまくいきません。
いつもと違う環境、場所、初めての会という緊張感があってのことなのでしょうか。
また、姿勢をよくしようとすると、肩や背中、腰に耐えがたい痛みが走ります。
これはここ数年、悩まされ続けているもので、何度も精密検査を病院で受けてきました。
医学的な所見では「異常なし」です。が、現実問題として泣きそうになるくらいに痛い。
そんな状況があって、つまりそれは心因性なんだろう、と思ってます。
なので、その後時間が経つにつれ、多くの人たちが自主瞑想の部屋に集まってきて、凄い熱心に瞑想に取り組んでいる姿をみて、私は正直、ちょっと焦っちゃいました。
「きっと、この中で一番集中できてないの、自分だぞ……」と。
そんな状況があるものですから、自主瞑想の部屋から出て、トイレにいったり、ストレッチしにいったり、そしてまた部屋に戻ったりを繰り返していました。けど、そういうせわしない感じになっていても、誰も文句もいいませんし、「なんだこいつ?」みたいな目で見る人もいません。
それどころか、廊下ですれ違えば、会釈をしてくれる温かい人が多かったです。
全体の印象になるんですが、みんな熱心に自分のやるべきことをやっている。
会場は静かで(何度も行き来してごめんなさい……)、凛とした空気感がある。けれども、「冷たい」のとは違う温かい空気がありました。
さて、そうこうする内に、プラユキ師との個人面談の時間が近づいてきました。
限られた時間の中でお話しするわけですから、私も何日も前から、「これを話そう」「あれを聞こう」と手帳にメモを作っておいたんです。
話したいこと、相談したいことは分かり切っている。
あとはこちらがどれだけ心を開いて相談出来るか、がポイントだと私は思っています。
なので、「恥ずかしいことも、自分の醜い部分も、ありのままお話しする」という一点は守ろうと思ったのでした。
時間がきて、面談が始まったのですが、プラユキ師はとても穏やかで親しみやすい雰囲気で面談してくださいました。
それは、プラユキ師のご著書に出てくる、面談の様子そのまんまだったんです。
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本というのは、相当程度編集の作業を経るわけですから、実際の「現場の録画」というより、基本「本として再構築されたもの」が私達の目に触れることになります。
けれども、上記に挙げた本に載っている、悩みを抱えた人たちとプラユキ師の面談の記録、それとそのまんま同じ雰囲気で自分の面談も進んだのです。そうした雰囲気もあってか、私も何も隠さず、飾ったりせず素直に色々お話しすることが出来ました。
こちらが話したことを、まずガッチリと受け止めてもらえる、という安心感があったというのも非常に大きい。
それはともかく、面談を通して示唆して頂いたのは、「今の自分には“集中系”の瞑想はたぶん合っていない」ということ。
瞑想、あるいは座禅なんていうと、「一心に集中していく」イメージを私たちは持っていますが、そうでない瞑想もあるんです。
私も以前、お坊さんたちと一緒に『天台小止観』という座禅の手引書の翻訳を自分たちで作ったこともあります。
もちろん、既に決定版とも言える訳本が出ているのですが、一度、自分たちの手で訳していく過程を経て、モノにしていこう、みたいなコンセプトだったかな。
いまだに覚えているのは、『天台小止観』では、あっちやこっち、過去や未来にさまよう心を喩えて「猿」(ほんとはもっと難しい字のサルだ)としていて、その猿を「繋ぎ止める」方法が書いてあった、ということ。それは、ある対象を持ち、そこに集中させていく、というようなことが書いてあったかと思います。
私の誤読でなければ、これは“集中系”なのかな、と。
確かに、集中系の瞑想(≒座禅)はイメージが湧きやすいですし、「やってる感」もあって満足しやすい。また人や状況によってはそっちのほうが向いている場合もある。
けれども、私の場合、多分「少なくとも今は」ということだと思いますが、集中系から離れてみて、“手放し系”のほうがいいんじゃないか? とのご示唆でした。本で読んだ、手動瞑想や歩行瞑想などですね。
そのやり方も、丁度、会の真ん中の辺りに位置する、合同指導でしっかりと教えてもらえます。
本で読んで実践するのもいいんですが、やはり、直にやり方を教えてもらえると、ストンと腑に落ちる感覚があります。
手動瞑想、歩行瞑想、呼吸瞑想の3つがメインなのですが、解説をし、実践をしながら指導頂けました。
そこで判明したのが、「私は呼吸瞑想をしていると思っていたけれども、実はそれはいつしかそれは“集中系”になってしまっていた」ということ。
なので、滅茶苦茶しんどい時に、“集中”が出来ず、そこに罪悪感を感じたりして、結果として2年続けていた瞑想に中断期間を設けてしまうこととなったわけです。
それはまた、よしんば瞑想が出来たとしても「辛い→集中系瞑想→集中であるが故に辛さにフォーカスが当たる→やっぱ辛い」という悪循環になっていた、といいうことではないかと。
あとこれは私の感触ですが、自分は手動瞑想よりも歩行瞑想のほうがスッと入れた気がしました。
「この感覚かな?」というのが、自分にとっては歩行瞑想が分かりやすかったということです。
変に構えず、いつも通りにいつも通りのスピードで歩く。
ただし、たとえば漫然とiPhoneで音楽聞きながら「目的地に向かうためだけ」に歩いているのではなく、「歩く」という行為そのものに気づいている感覚とでも言えばいいでしょうか。
しかも歩くという日常で不可欠な行為がそのまま瞑想になるのであれば、日常に非常に取り入れやすいじゃないですか。
ちょっと積極的に歩行瞑想は取り組んでみようかな、と思ってます。
その後、自主瞑想では手動瞑想や、歩行瞑想にシフトして、それらに時間をかけて取り組みました。
「痛い痛い」と思いながら座るのを放棄した、というわけです。
個人面談でも一日の締めくくりの合同面談でも、「心の問題を、体で解決しようとしちゃだめ」というお話しがありました。
「心の問題は心で解決、体の問題は体で解決」ということで、その二つをごっちゃにしちゃうとカテゴリエラーだよ、ということなんですが、座る瞑想をしていて体が痛いのであれば、「集中が足りないからだ! もっと没入しなきゃ!」としてしまうのではなく、単純に「楽に座れる姿勢を探したり、クッションを使ったりすればいい」とのことです。
個人面談時に、「世界は、自分の認知によって立ち現れてくるものであるならば、その認知する器官を破壊してしまえば、つまり自死を選べば苦しみは消滅するのでは?」との私の問いかけへの回答も全く同じことでした。
そんなわけで、一日、ちょっと緊張や疲れはありましたが、その分充実感のある一日が得られました。
今日は起床がかなり遅くなっちゃいましたが「それもOK」という感じで、少し“手放し系”の瞑想の実践を進めていきたいと思います。
そうそう。
歩行瞑想なんかで、今この瞬間・空間に立ち返ることが出来たなら、山の景色ももっと美しく見えてくるかも? という期待もあるんですよ。
というわけで、簡単ですが昨日のレポートということで。
それでは、また。