伊勢神宮と日本人 1 | 南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

日本古代史は東アジア民族移動史の一齣で、その基本矛盾は、長江文明を背景とする南船系倭王権と黄河文明を踏まえた北馬系倭王権の興亡である。天皇制は、その南船系王権の征服後、その栄光を簒奪し、大和にそそり立ったもので、君が代、日の丸はその簒奪品のひとつである。

 

 伊勢神宮と日本人        室伏志畔

                                  (写真はremmikkiのブログより)

 
              

 皇室の伊勢神宮参拝が繁茂である。それは昨年の式
年遷宮もあって、先日は、浩宮家の伊勢参拝が報じられたが、それは昨年の秋篠宮家に続くものである。そこに浩宮後の皇位継承を巡る両家の思惑が絡むが、伊勢参拝は皇室を筆頭に、歴代内閣を巻き込み、国民を動員するに至っている。それは明治に至るまで、持統天皇
645702を最初の最後として、皇室の伊勢参拝がなかったことを思うなら、これは近代日本に始まった異変である。しかし、識者はこぞって「皇大神宮に皇室が参拝されて当然」と、したり顔に現状の政治的動向に投棄している。 

この皇室の伊勢参拝の動きは明治維新の隠された秘事に由来する。それは一握りの維新トップの胸中深くしまわれていたが、九〇年代に至り鹿島曻が『三人の裏切られた天皇』で一石を投じ、知る人ぞ知る。長州の吉田松陰と水戸の藤田東湖の契りが、維新を南朝革命(北朝の天皇を南朝の天皇に代える)としたように、木戸孝允(桂小五郎)が「すでに我々に南朝の玉の用意がある」と西郷隆盛に打ちあけたことで、犬猿の仲にあった薩長が同盟に至り、明治維新が実現する。その薩長の掌中の玉は、長州の奇兵隊の一である力士隊にあった大室寅之祐で、南朝落胤であった。それを宮中の天皇と差し代えたと

ころに、幕末、佐幕派を押さえ尊皇派の薩長が権力を握れた秘密がある。これは秘中の秘として明治末年まで隠されたが、降って湧いた皇統正閏論争で、明治天皇が「南朝をもって正統とする」と聖断を下したことで始めて公然化した。しかし、その聖断を日本人の多くが「皇室は北朝のはずだが」と首をひねったのは、維新前夜の天皇のすり替えを隠し近代日本が胎動したことによる。

ここに明治天皇の皇后が皇太后(前天皇の皇后)と呼ばれ、写真を撮らせなかった理由があり、力士隊隊長であった伊藤博文の破格の出世も生まれた。ここに
至り、記紀が皇大神宮としながら、伊勢神宮を千年以上にわたり放擲してきた北朝の慣例を破り、南朝の天皇による伊勢神宮への参拝が明治天皇を嚆矢として公然化する理由があった。この皇統の北朝から南朝への切り替えなくして、薩長が政界を牛耳り、かつての朝敵、隼人系の小泉純一郎が首相となり、蝦夷出自の安倍晋三が内閣を組織する現在に至る百鬼夜行はありえなかった。拙論は、記紀で皇大神宮とされながら、千数百年ないがしろにされ、明治以後、皇大神宮としてそそり立つように復活した伊勢神宮と日本人の関係にまつわる物語である。