一.列島王権の興亡と住民移動
博多から車で市街を抜け西下すると、眺望は一気に開け、博多湾が眩しく光る伊勢の二見ヶ浦の海岸線に出る。一昔前、私はそこで車を降りたのは、目前の玄界灘の荒波に屹立する夫婦岩に眼を止めたことにある。それは三重県の伊勢の二見ヶ浦の今にも毀れそうな夫婦岩が辛うじてあるのとちがい、注連縄が張られてあるとはいえ、海水浴客は屈託なく、その夫婦岩に登り楽しんでいるのが好ましかったことによる。大和中心の畿内の風物は、伊勢の二見ヶ浦一つをとっても、その原風景を九州にもっている。大和の三輪山でさえその例外でない。この風物地名の空間移動は列島
王権の興亡に伴う地名を伴った住民移動にある。この空間移動をともなう歴史の重層性を記紀史観は大和一元説をもって千二百年にわたり洗脳してきた。こうして日本人とは列島各地で生起した大和朝廷前史としての、前天皇史を見る眼をもたない者の総称となり、今も公教育は子女をその犠牲としている。
戦後、この流れは戦後史学が「神話から歴史へ」と前天皇史研究を放棄するお墨付きを与えたことで、古代史学は天皇史以前を掘削することを忘れ、皇統史に皇統外の史実を取り込む体たらくにある。その典型的な徒花が卑弥呼を大和に取り込む邪馬台国畿内説で、畿内説学者は四千人を越えるまでに全国に瀰漫し、地方の遺跡・遺物を皇統史に取り込んでいる。この大和中心史観からの解放なくして、歴史の奪回ははかれない。その一つに伊勢神宮問題がある。
なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼれる
と西行(1118~1190)が記紀成立から五百年近くして伊勢神宮に詣でたとき、「なにごとのおはしますか」と歌ったのはやはり注目されてよい。それから八百年近く経った現在の我々の知見がそれを越えているかは怪しい。公教育はそれを皇祖神・天照大神を祀り、それを日神の化身とする。そう皇室が日神信仰を誇るなら、遠く皇軍は日神に帰依する蝦夷征伐に乗りだし、近くは日の丸を掲げる幕軍に錦の御旗を持ち出すほかなかったのは何故であろう。その上で、受験知にある貴方に、天照大神は伊勢神宮以外の何処に祀られてあるかお聞きしたいものだ。たいがいは絶句し、知ったかぶりは全国に散在する天照神社や天照御魂神社を挙げる、しかし、それら神社に祀られてあるのは、神武に先駆けヤマトに降臨した饒速日命(ニギハヤヒ)で、決して天照大神ではないのだ。天照大神は神明神社にあって、それは記紀に合わせ創られた新しい神社なのだ。この無知とずれに気づかぬ頭蓋に天皇制はそそり立ってきた。
たうとさに 皆押しあひぬ 御遷宮 芭蕉
ここは心のふるさとか そぞろ詣れば旅心
うたた童(わらわ)にかへるかな 吉川英治
こう芭蕉や国民作家の吉川英治が句や歌を成し、昨年、伊勢参拝に押しかけた三〇〇万人近いの日本人は、伊勢神宮の正体を知ることなく、「たうとさ」と「心のふるさと」をそこに感じた。この本質に疎外されたままに、伊勢神宮を有り難がる日本人を批判するのはたやすく見えるが難しい。なぜなら、この「たうとさ」と「心のふるさと」を皇室に直結させた手品に天皇制は基盤を置いているからだ。その大衆基盤を血を流すことなく皇室から切り離す知見に我々もある以上、伊勢神宮の本源に参内し、天皇制の解体も難しいが、左翼は神々アレルギーにあって正面から向き合う勇気をもたない。
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