古田武彦の九州王朝説 1 | 南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

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日本古代史は東アジア民族移動史の一齣で、その基本矛盾は、長江文明を背景とする南船系倭王権と黄河文明を踏まえた北馬系倭王権の興亡である。天皇制は、その南船系王権の征服後、その栄光を簒奪し、大和にそそり立ったもので、君が代、日の丸はその簒奪品のひとつである。

   古田武彦の九州王朝説 1

―皇統枠を越えてー            室伏志畔

邪馬台国については江戸時代より議論があり、明治に入りその所在地について、白鳥庫吉の九州説と内藤湖南の畿内説が東西の帝国大学の威信をかけ対立し、その二つの流れが今に引き継がれてきた。

一九六九年に親鸞の文献実証的研究で知られる古田武彦(1926~2015)が、『史学雑誌』に「邪馬壹国」を投稿した。それは『魏志倭人伝』に邪馬壹国(邪馬一国)とあるのを、九州説と大和説が共に邪馬臺国(邪馬台国)と直し、南を東に恣意的に変え、自分の思い決めた地に邪馬台国をもってきた、これまでの邪馬台国研究でいいのかと問い直した。それは、それまで邪馬壹を邪馬臺(邪馬台)に手直しするのを当たり前としてきたことにある。このアプリオリに邪馬台=大和としたのは江戸時代の松下見林以来の、歴史を大和中心の皇統一元史と見るのを当然とした国学の皇国史観の流れによる。邪馬台国研究に見られるイデオロギー的改竄に普遍性はあるのかと古田武彦は問いかけ、邪馬一国説は時の話題となった。

  一.七〇年代の古田三部作の成立

朝日新聞社の米田保がその邪馬一国説に興味を示し、その書き下ろしを頼み、これに応え古田武彦は一九七一年に『「邪馬台国」はなかった』を上梓し、ベストセラーになったそれに始まり、一九七三年に『失われた九州王朝』、一九七五年に『盗まれた神話』の三部作を古田武彦は立て続けに著した。この古田の邪馬一国説が、これまでの邪馬台国論と比べ衝撃的であったのは、邪馬一国は大和朝廷に先在する九州王朝・倭国の三世紀の倭国の盟主国で、その倭国は前二世紀から七〇一年に近畿王朝・日本国(大和朝廷)に盟主を譲るまで、委奴国→邪馬一国→倭の五王→俀国と連続し、大和朝廷に先在する九州王朝としたことにある。それは記紀成立以来千三百年、大和中心の皇統一元史観にあった我々の迷妄を突き抜ける衝撃的な提起で、古田武彦はその邪馬一国の位置を「魏志倭人伝」の陳寿の証言から博多湾岸に比定した。それは考古学の発掘現状に見合う実証的研究で、それが学会で発表することなく、一般書として朝日新聞社から市民に直接、公開を見たことも意義あることであった。

一介の定時制の講師である古田武彦の書き下ろし古代史三部作が、単なるベストセラーになっただけでなく、それが内容をもった歴史論で、しかも平易な語り口であったことも手伝い、読者が各地で次々に九州王朝説をもっと深く知りたいと「古田武彦を囲む会」が組織され、市民を中心に各地で研究冊子が発行されるに至った。それはこれまで大学教授のお説ごもっともの上からの市民運動とちがい、地方の多元的な遠い昔からの文化の展開を吸い上げるものとして九州王朝説はあったため、にわかに各地の「囲む会」は活気づき、下からの自主的な市民の歴史研究運動がここに始まった。それは戦後の上からの民主化運動とちがい、自発的な展開をもったことは大いに注目されていい。それは同時期の七〇年代に怨霊説による法隆寺論や流刑水死説による柿本人麿論で一世風靡した梅原日本学が、中曽根首相に接近し、選りすぐりの学者組織の日本文化研究所の設立に向かったのと好対照であった。

古田武彦の九州王朝説が邪馬一国説として市民に熱狂的に迎え入れられたのは、それがわかりやすい文献実証的研究で、学者にない手応えを市民に与えたことにあるが、何よりも、それが大和朝廷に先在する九州王朝説として、皇統枠を越える提起としてあったことによろう。その邪馬一国説は次に漢籍を中心として何世紀も連続する『失われた九州王朝』を九州の地から掘り出し、それに続く記紀研究である『盗まれた神話』が記紀を論じて大和中心の皇統一元の記紀史観を突き抜け、九州王朝説を揺るぎないものとしたところに古田三部作の意義があった。

  二.九州王朝説の時代環境

それは一九七一年から七五年にかけてことであったが、それは学生による大学闘争が機動隊の導入により鎮圧を見、一九七二年に浅間山荘事件によりリンチ殺人事件が露見し、市民の左翼離れが加速した時期にあった。さらにその時期は日本における大衆消費社会の開始が顕著になった、社会の変わり目の真っ只中でこの三部作は誕生を見たのである。

各地で成立した「古田武彦を囲む会」が大同団結し「市民の古代の会」が結成されたのは一九八〇年のことであった。その事務局長を務めた藤田友治は学生運動経験者で、彼は九州王朝説の普及に努める一方、「天皇陵を公開せよ」と宮内庁の迫る左翼的展開で知られる。それに結集した仲間に七〇年代のフォークソングの草分けと見られる人や国鉄の吹田闘争の経験者があったことは、行き場の失った左翼精神を九州王朝説が吸収し、急拡大したことを示し興味深い。問題は九州王朝説に左翼基幹組織がほとんど興味を示さなかった。それは左翼幹部の歴史教養が「神話から歴史へ」の戦後史学にあり、それがかつて狂信的な皇国史観に対した革新性が、今や歴史を皇統史に囲う新皇国史観に変質し、前天皇史の研究を忌避する反動に転じていることに気づかない落ち度にあった。そのため九州王朝説の提唱が王朝交替史観としてあることに気づかなかった。古田武彦に近づいた市民の方が左翼幹部より進んでいたのだ。

その市民の歴史研究運動の年刊機関誌が『市民の古代』で、その創刊号は一九七九年に「古田武彦とともに」の発刊に始まり、翌年から「市民の古代」に会誌を改め、一九九三年の15号まで「古田武彦とともに」を旗印に新泉社から年会誌として発行を見た。しかし、一九九四年から『東日流ツガル外三郡誌』を持ち上げた古田武彦を「偽書を持ち上げる大学教授」とする「偽書疑惑」を「季刊 邪馬台国」が特集したことから、会は分裂し、反古田派の会誌に変貌し、数年後に廃刊を見ている。その古田派にあった15年に及ぶ「市民の古代」を見ると、第一にそれは学会を締め出された古田武彦の論文と講演の常設発表誌で、それを古田説シンパの小論と会の案内からなる機関誌としてあったことがわかる。その寄稿者は古田説を踏まえ展開するが、論として自立できるのに約十年近くかかっている。この「市民の古代」誌や各地の冊子が貴重なのは、「偽書疑惑」騒動までは古田説の新展開が見られ、通説に左右されない各地の市民の発見や動きをたどれることにあろう。

古田武彦が漢籍に載る倭国を九州王朝とし、それを大和朝廷に先在する王朝とし、峻別したことは、卑弥呼を神功皇后に、倭の五王を歴代天皇に当て、記紀と漢籍を常に密通させてきた、それまでの戦後史学に至る歴史研究のあり方が、王権を大和中心の皇統一元する記紀史観の洗脳にあった比定で、それへの本質的な批判として九州王朝説があることを示す。それは邪馬台=大和とアプリオリにしてきたのと同じマチガイの踏襲であった。その根本に「倭国をかつての日本国の亦の名」とした記紀の造作史観があった事も、今や明らかとなった。