古田武彦の九州王朝説2  ―皇統枠を越えてー | 南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

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日本古代史は東アジア民族移動史の一齣で、その基本矛盾は、長江文明を背景とする南船系倭王権と黄河文明を踏まえた北馬系倭王権の興亡である。天皇制は、その南船系王権の征服後、その栄光を簒奪し、大和にそそり立ったもので、君が代、日の丸はその簒奪品のひとつである。

古田武彦の九州王朝説2  ―皇統枠を越えてー   室伏志畔

   (古田武彦)

その九州王朝・倭国を古田武彦はニニギの天孫降臨に始まるとし、その天孫降臨地を記紀の南九州の日向ヒュウガから博多湾岸の高祖山の北麓の日向ヒナタに比定替えし、壱岐・対馬からの海士族の侵攻とする神話の歴史奪回に始めた。それは戦後史学の「神話から歴史へ」の呪縛を解き放つものであった。

 

三.九州王朝説の神話の歴史奪回

しかし、戦後史学のベース・セッター・津田左右吉は、その神々が住まう天国を天上と考え、天上と地上を行き来する神々の話を歴史にするわけにはいかぬと、「神話から歴史へ」を基軸とする戦後史学の脊梁を作ったことは記憶に新しい。しかし、それは皇統史である人代のみを歴史とし、それに先立つ前天皇史である神代を神話とし、歴史から排除する逆説をもっていた。なぜなら、天国アマクニはテンゴクではなく海士国で、壱岐・対馬を中心とする対馬海流上の島々であることを、古田武彦は『古事記』に壱岐は天比登都柱、対馬は天狭手依比売と、いずれも天を頭にもつ島であることを論証している。皇統史である人代に先立つ神代とは、前天皇史としての歴史の神話的記述であることを戦後史学は理解せず、皇統枠に歴史を囲い込む先兵と化していたのだ。その神代を古田武彦は歴史に奪回することに先鞭つけたのだ。それは列島史を出雲王朝→九州王朝→近畿王朝の三王朝交替史に開くものであった。

つまり神々は対馬海流上の島々を天国と呼び、そこから出雲や九州や新羅と交流する海士族の指導者の名で、彼らに淵源する倭国は列島に限らず、北九州沿岸と半島南部を含む海洋国家とした。古代ギリシア史をエーゲー海を行き来した海洋民族に始まるとしながら、日本の史家は列島王権が対馬海流上の島々を行き来する海士族に始まったことを見落とし、歴史でないと切り捨ててきたのだ。

しかし、その海士族の出雲への侵攻が、スサノオのヤマタノオロチ退治で、その証が加茂岩倉遺跡からの三九個の銅鐸なら、オオクニヌシの国譲りを証すのは神庭荒神谷遺跡からの三五八本の八千矛の出現と私はしてきた。また九州への侵攻はニニギの天孫降臨で、南九州ではなく北九州の博多湾岸の西の糸島の日向ヒナタへの侵攻であると古田武彦はしてきた。確かにその地から、三種の神器をもつ弥生王墓として平原遺跡、吉武高木遺跡、須久岡本遺跡等から出土している。

その三種の神器の文化を踏まえたニニギの倭国王権の傍流から神武皇統は生じたと古田武彦はし、その神武を架空とした戦後史学を批判した。つまり、その神武の畿内東征に神代に替わる人代は始まったとし、その神武を架空とした戦後史学に対立してきた。つまり、人代は皇統史で、皇統の淵源は人代に先立つ神代を歴史的に明らかにすることなく、その秘密に参内することはできないのだ。

  (上図は二中歴の九州年号から近畿年号の繋ぎ部分)

 

四.九州年号の存在

その倭国の存在を証言するものとして『二中歴』(写真3)その他に残る九州年号が持ち出されたのも画期的であった。『二中歴』によれば九州年号は五一七年の継体(517~521)建元から七〇〇年の大化(695~700)に至る31の年号群を倭国はもち、七〇一年の大宝(701~703)建元に始まり今日に至る近畿年号に先立つものとしてあった。『日本書紀』に載る大化、白雉、朱鳥のとび年号は、すべてこの九州年号から拝借したものにすぎないことも明らかとなった。その九州年号を用い、聖武天皇は治部省がお伺いを立てたのに「白鳳以来、朱雀以前年代玄遠尋問難明」(白鳳以来、朱雀以前のことは、昔のことで、お尋ねの件を明らかにすることは難しい)と答えている。白鳳は661年~683年、朱雀は684年~685年で、『日本書紀』の天智(661~671年)天武(672~686)の期間にすっぽりはまり、その間の列島のゴタゴタを暗示する。この天皇さえ使った九州年号を、戦後史学は年号として認めず、大化の改新の大化をもって日本国年号のはじめとしてきたが、それは記紀史観への知性の投棄で、それは皇統一元史観にこの国の歴史を閉じ込める走狗に堕したことを語る。

これら九州王朝説の提起は、畿内大和の大和朝廷の一元的な全国制覇による皇統一元史観を叩き込まれてきた者には、目から鱗の提起であった。しかし、その九州王朝説はその提起から半世紀近く経った現在、知る若者はほとんどいない。そこに古田武彦を学会から締め出し、「偽書疑惑」をかけ、九州王朝説を葬った九〇年代の動きと、それに躓いた古田武彦のその後を次に見なければならぬ

 

室伏志畔の大阪講演会案内

日時 2017年1月28日(土)午後1時~4時

演題 聖徳太子はいなかったか!

場所 天王寺 吉田ビル2F →下写真

天王寺駅より谷町線沿いに150m

連絡先 08053046373 吉田安男