玉木雄一郎代表   | nogaのブログ

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我々日本人の意識改革を目指しています。

>東スポWEB     国民民主党・玉木雄一郎代表 若者に向けた演説で「日本はあらゆる分野で大谷翔平〟を作れます」   >東スポWEBによるストーリー・   >41分・   

>国民民主党の玉木雄一郎代表は4日、東京・御茶ノ水駅前の街頭演説会で、自民党総裁選(12日告示、27日投開票)の後に衆院解散・総選挙の観測が持たれていることなどに言及した。    

>玉木氏は学生街として知られる御茶ノ水で、10~20代の男女に向けて同党の政策や考え方を必死に訴えた。   

>マイクを握った玉木氏は冒頭「学生さんが多いので率直に申し上げたいんですけども、賃金は上がってきたけど、それ以上に税金と保険料がとられますから、手取りが上がりません。   

>これ、日本はマジでやばいですよ」と警鐘を鳴らした。   

>「だから変えたいんですよ。   

>我々は若い人の現役世代が希望を持って働ける社会にしたい。   

>3つです。   

>給料が上がる経済を実現しよう。   

>日本の悪い癖はちょっと景気が上がると増税し金利を上げたり、ようやく出てきた芽を摘むことに長けている人が多い。   

>2つ目、自分の国は自分で守ろう。   

>エネルギーを外国に依存しないことはイコール給料が上がる経済にもつながっていく。   

>柱の3番目は、人づくりこそ国づくりです。   

>私は教育や人づくりや子育ては絶対にケチるなと。   

>だから教育国債を発行してでも、十分な支援を学生や教育に明確にやろうという方針を打ち出しています」   

 

それが良いですね。   

 

>衆院解散・総選挙に向けては「みなさん力を貸してほしい。   

>(日本は)このままいくと特に若い人はヤバい。   

>なぜこんな状態を築いたか、若い人が選挙に行かないから。   

 

そうですね。   

立憲民主党代表選に出る野田佳彦、枝野幸男は、民主党潰しの戦犯である。わが国においては、深刻な反省がないから、戦犯が真の戦犯にならない。賞味期限を過ぎた人が過去の人にならない。    

 

>日本は民主主義で、高齢者の人は選挙に行き投票率も高い。   

>選挙にちゃんと行ってくれた人の話を与党も野党も聞いている。   

>その結果、高齢者を重視の予算配分になっている。   

>若い人にいくお金を削り年金、医療、介護にまわった30年だった。   

>それを支えてきたのは既存の与党と野党の共同作品です。   

>それを変えていくのは、新しいみなさん(若者を)の声を受け止める国民民主党が勢力を大きくなっていくしかないんです」と訴えた。   

 

そうですね。若者の政治参加が大切ですね。     

日本人には世界観が無い。若者に夢と希望を与える政治家がいない。若者は政治の蚊帳の外にいる。     

北欧・スウェーデンの国会議員の平均年齢は約46歳(日本は約58歳)だそうである。閣僚の平均年齢は45歳、最年少閣僚は26歳だというから日本とは(62.4歳)かけ離れていますね。

選ばれる側が若いように、選ぶ側も若く20代の投票率が82%だという。若者の熱心な政治参加が大切ですね。彼らの政治には夢も希望もある。   

 

>最後に玉木氏は「私はもったいないと思っている。   

>大谷翔平が大活躍でしょう。   

>でも、あらゆる分野で日本は大谷翔平を作れます」と述べた上で「大谷翔平は(日本の)科学技術、文学、コンピューターサイエンス、医学の分野でいます。   

>大谷翔平も練習するグラウンドやバッドやグローブを買えなかったら今の大谷翔平になっていない。   

>大谷翔平になっていく環境があったからこそなれた。   

>でも、バッドやグローブが買えない人、練習のグラウンドが与えられていない人は各分野にいる。   

>そこを政治が見つけ、そっと後押しをすることが政治の役割だとしたら私たちはやりたい。   

>いろんな大谷翔平を作れる政策をやっていきたいです」と語った。   

 

日本人は思考を停止している。それで、自分自身の意見を持たない。マスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら情報を流しても、それが社会の木鐸 (世人を教え導く人) の役割を果すことはない。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)