立憲民主党   | nogaのブログ

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我々日本人の意識改革を目指しています。

>日刊スポーツ   >小沢一郎氏「恩讐」乗り越え野田佳彦氏に代表選支援伝達 「過去のことを言っても党まとまらぬ」   >日刊スポーツ新聞社によるストーリー・   >5時間・   

>立憲民主党のベテラン、小沢一郎衆院議員(82)は3日、同党代表選(7日告示、23日投開票)に出馬表明している野田佳彦元首相(67)の議員会館事務所を訪れ、代表選で支援する考えを直接伝えた。   

>野田氏は謝意を示して応じた。   

>2人は、野田氏が首相だった民主党政権時代の2012年7月、消費増税をめぐり「決別」。   

>小沢氏は、多くの議員を連れて民主党を離れ、新党「国民の生活が第一」を立ち上げた経緯があり、これまでは「因縁の関係」にあった。   

>野田氏との面会後、報道陣の取材に応じた小沢氏は先月末の出馬表明後、野田氏から立候補の決意あいさつと支援要請があったとした上で、自身が率いる政策グループ「一清会」のメンバーと電話で協議。   

>野田氏への支援に同意を得たとして、この日、野田氏を訪ねたことを明かした。   

>小沢氏は「大変、ありがたいというお話をいただいた」と述べた。   

>野田氏支援を決めた理由については「同じ党なので、そう違う考えを持っているのではない」とした上で「今日の野党第1党としてのわが党を国民はどう見ているのか。   

>支持率も一向に上がらないのでは、自民党の腐敗した政治状況を打破する力が出てこない。   

 

そうですね。   

 

>きちんとした体制をつくり、ほかの野党とも手を取り合い、近いであろう総選挙で勝って政権交代を実現するということで、(野田氏と)一致した。   

>私の主張でもあるので野田候補の支援を決め、みんなの同意ももらった」とも述べた。   

>民主党政権時代にたもとを分かった野田氏と、再び連携する心境を問われると「(野田氏が踏み切った解散総選挙で)私はかろうじて当選したが、多くの仲間を失った。   

>消費増税は、その前の選挙ではやらないと国民に約束しており、その思いはもちろん持っている」と、複雑な思いも口にした。   

>その上で「(今回の代表選で)野田候補は支援したくないという人の心の中には、このことが非常に大きな要素だと思うが、過去のことを言っていても、いつまでたっても、党内はまとまらない」と主張。   

 

党員に深刻な反省が無くては、過去の事を言ってもどうにもなりませんね。これを繰り言というのかな。   

 

>「それを乗り越えて、国民のための政治を実現するという大義に結集することが大事。   

 

そうですね。気合を入れるのですね。      

 

>今回それ(過去の思い)を乗り越え、支援を決めた」と述べ、過去の恩讐(おんしゅう)を乗り越えてのタッグ結成だと強調した。   

 

気分・雰囲気・感情の勢いだけではどうにもなりませんね。   

趣味には論拠が無い。There is no accounting for tastes.   

 

>代表選にはこれまで、枝野幸男前代表(60)と野田氏の2人が名乗りを上げている。   

>現職の泉健太代表(50)は、出馬に必要な20人の推薦人確保が難航しているとの見方もある。   

>【中山知子】   

 

民 (たみ) 信 (しん) 無 (な) くば 立たず。(政治は民衆の信頼無くして成り立つものではない)  論語・顔淵    

日本人には哲学がなく、政治家には政治哲学がない。 だから、わが国では政治家は信頼を得ることができない。それで政治屋になる。    

哲学のない世界では ‘つかみどころのない人間’ であることは一向に恥にならない。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

政治屋の個人的な努力目標点は三バンと呼ばれている。 三バンとは 地盤:選挙区と後援会・ 看板:知名度・ 鞄:資金力 のことである。 

政治屋の社会的な努力は派閥形成に協力することである。議員は序列社会の一員になることである。内容の無い人間には印半纏の様なものが必要になる。派閥の領袖は無哲学の議員たちを十把ひとからげにして選挙戦の数合わせに利用する。そして自分はキング・メーカーになる。

このようにして派閥の序列は崩れることなく、結果的に政界は老人の世界になっている。若い人も無哲学のままで蚊帳の外にいるから、政界の世代交代は難しい。それでわが国は衰退途上国になっている。             

 

子供には意思が無い。だから大人が子供の後見人になる。      

意思の無い人間には加害者意識がない。有るのは被害者意識だけである。これはアニマルも同じである。罪の意識も無い。だから子供に対して罪は問わない。   

罪に意識がないから過ちの対する深刻な反省に陥ることも無い。だから徹底的な原因究明にも至らない。’責任者を出してはいけない’ という。意思の無い人間に責任が有ったら大変である。そのうちに調査はうやむやになる。学習効果を残さない人間は浅はかである。       

日本語の文法には時制 (tense) というものが無く、日本人には世界観 (world view) も無い。未来時制の構文がないので、日本人には意思の表現がままならない。優柔不断・意志薄弱に見える。  

意思のある所に方法 (仕方) はある。Where there's a will, there's a way.  

求めよさらば与えられん。 (自ら積極的に求める態度が必要であるという事)  

 

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)  

マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令というものがない。彼は知日派の人であった。     

 

現在わが国は若者の投票率が低く、若者の関心は政治の外に置かれている。わが国の人口減少が問題になっている。   

政治家には時代の先取りが必要である。  

政治家は、若者を中心にした来るべき世界の内容を夢と希望を持って語るべきである。そうでなければ、我が国は退屈男と退屈女の世の中になってしまう。    

 

日本のインテリは現況報告の後に続く「それがどうした」「それでどうした」の問いに答えが出せない。   

日本人は自己の見解を問われる教育を受けてこなかったからである。 だから、国民は軽薄である。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)       

 

日本人には世界観が無い。あるべき姿の内容が無い。現実と比較する非現実が無い。批判精神 (critical thinking) がない。   

立憲民主党代表選に出る野田佳彦、枝野幸男は、民主党潰しの戦犯である。わが国においては、深刻な反省がないから、戦犯が真の戦犯にならない。賞味期限を過ぎた人が過去の人にならない。     

日本人には意思が無い。だから、加害者意識がない。罪の意識も無い。そして、失敗の後にも深刻な反省に陥る事も無い。反省も無く天真爛漫な顔をして次の過ちを繰り返す。だから見ていてうんざりする。    

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)