政治資金改革案   | nogaのブログ

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我々日本人の意識改革を目指しています。

>毎日新聞   >「小手先」「なんちゃって」野党、自民の政治資金改革案に集中砲火   >毎日新聞によるストーリー・   >6時間・   

> 参院予算委員会は24日、政治資金などに関する集中審議を実施した。   

>岸田文雄首相は、自民党がまとめた政治資金規正法改正の具体案を巡り「責任の厳格化については自民も強い問題意識を持ち、具体的な対策を講じていきたい」などと強調した。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任もない。だから政治家の責任追及は難しい。   

 

>一方、野党は「連座制」に関する自民案の甘さなどを指摘する質問を連発し、「小手先の案だ」などと攻勢を強めた。   

> 「全く連座になっていない。   

>なんちゃって改革じゃないですか」   

> 立憲民主党の蓮舫氏は、政治資金収支報告書の提出時に議員の「確認書」を添付させ、虚偽記載などがあった場合は一定の条件下で議員本人を罰するとした自民案について「2段階になっている」などと指摘。   

>議員本人の処罰につながるか疑問を呈し、今回の裏金事件を受けた自民議員の処分一覧を示して「仮に確認書を導入しても、誰も新たに処分されない。   

>どこが連座か」などと追及した。   

 

政治資金に政治家が責任を負わないのは矛盾していますね。   

 

> これに対し、首相は「一覧表は政治責任の処分の結果だ。   

>法改正の要件とは違う」とした上で、「今回、検察の判断として会計責任者のみに処罰が科せられていることにとどまっていることに対して、議員本人の責任を明確にする」と強調。   

 

こと政治に関する不正は、政治家が最終責任を負うべきです。政治家でない人が政治責任を負うのはお門違いですね。政治家の政治活動に関する監督責任は政治の要でしょう。         

 

>「物足りない」などと指摘した日本維新の会の片山大介氏に対しては、「収支報告書の不備と議員の関係をしっかりと確定した上で法律を構成する必要があることから、確認書という具体的な方策を間に挟んだ」と説明した。   

 

収支報告書は議員の報告書ですからね、議員との関係しっかり確認するなど子供じみていますね。意思の無い人間の責任とはこういったものになるのでしょう。      

 

> また、自民案が収支報告書に記載しなかった収入の相当額を国庫に納付させるなどとしたことに関し、蓮舫氏が「ヒューマンエラーの軽微なミスでも、意図的な不記載でも全額納付させるのか」とただすと、首相は自民案の項目の読み上げに終始。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間にはヒューマンエラーと、意図的な不記載は区別できませんね。これが日本人の問題ですね。      

 

>蓮舫氏は「先頭に立つと言いながら私も持っている同じ条文を読んでいるだけで、首相は中身を全く理解していないことがよく分かった」と批判した。  

 

政治改革をするには政治改革をする意思を持たなければなりませんね。日本人には意思が無い。だから、改革の意気込みも迷走する。      

 

> 共産党の小池晃氏も、自民案について「企業・団体献金の禁止もなければ、政策活動費の見直しもない。   

>ひとかけらの反省もない中身だ。   

>そもそも真相解明に背を向けていて、まともな改革案が出せるわけない」と切り捨てた。    

 

意思の無い人間には責任もない。だから、責任者を立てることも難しい。これではまともな改革案など出せるわけない。       

 

> 一方、首相は国会議員に月100万円支給される旧文書通信交通滞在費の使途公開などの課題について「この国会で結論を出せるよう、各党と議論を行っていく」と述べた。   

 

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。     

 

意思の無い人間には責任もない。責任とは自己の意思を使って義務を果たす事である。日本人には意思が無い。だから、責任もない。兎角この世は無責任しなっている。   

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

自由とは ‘意思の自由’ の事である。日本人には意思が無い。だから自由そのものにも意味がない。

だが、日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は‘自由のはき違え’となるからである。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となる。日本人は昔の姿のままでいる。   

 

英米の高等教育は子供が大人になる為の教育である。子供は現実 (事実) に関する知識のみを持っているが、大人には非現実 (考え・哲学) に関する知識もある。それを若者に持たせるのが彼らの高等教育である。

日本語には非現実を内容とする構文がない。それは日本語文法には時制 (tense) というものが無いからである。日本人には非現実に関する知識がないのでわが国では英米の高等教育がなりたたない。だから、日本人は子供らしくみえる。   

非現実の内容を現実の内容に転換する方法を見つけることができたら、人間固有の創造力を発揮したことになる。日本人はその創造力に欠けている。         

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。     

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)     

 

>【樋口淳也、池田直、川口峻】   

 

それでどうした。 我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。わが国のジャーナリストはその要請に応えることができる人達であろうか。わが国から国際的にも有力なジャーナルが多数出ることを期待しています。      

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)