上岡健司氏   | nogaのブログ

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>朝日新聞デジタル(地域)   >忘れられない敗戦の年の「修身」の授業 校長は「善」を説いた  >朝日新聞社によるストーリー   >・13時間   

> 敗戦の年の4月、足尾工業学校の「修身」は、意外な問いかけから始まった。   

>上岡健司さんは今春出版した自分史の補稿集でも敗戦間際の修身を振り返った   

>(略)   

> 「善とは何ぞや」   

> 担当の平池高志校長が、黒板に「善」と大書し、次々と全員に尋ねていった。   

>生徒たちは面くらい、ほとんどが口ごもった。    

> 古河鉱業(現古河機械金属)が創立した同校に、小学校にあたる国民学校から進んだ上岡健司さん(90=栃木県日光市足尾町=は、その授業が忘れられない。   

> その後も平池校長は「他愛説」「自愛説」「兼愛説」を説明した。   

>そして、最後に「人間はいかに生きるべきか」「人間の目標は最大多数の最大幸福である」と説いた。   

> 敗戦まで続いた修身は、教育勅語をよりどころにした教科だった。   

>死んでも突撃ラッパを離さなかった「木口小平」、3人が自爆死したとされる「肉弾三勇士」などを子どもに教え込んだ。   

 

皇民化教育は序列精神の鍛練ですね。   

 

>戦時下は、さらに「忠良なる臣民」の道徳として重視され、国家主義的な性格が強まった。   

> 上岡さんは国民学校の時、教育勅語の斉読中に笑ったことをとがめられ、在郷軍人の教員に10発以上のビンタを食らったことがある。   

>それだけに「戦争」や「忠君愛国」を一言も発しなかった平池校長の修身の授業が、強く印象に残った。   

 

平池校長の無言の抵抗ですね。   

 

> 上岡さんは思う。   

> 「『最大多数の最大幸福』は、戦争とは相いれない考え方です。  

 

そうですね。戦争は最大多数の最大不幸ですね。   

 

>当時はあっけにとられたが、今にして思えば、平池校長なりの戦争への抵抗だったのではないでしょうか」   

 

焚書坑儒の時代ですね。現在でもそれをやっている国がありますね。あまり地球規模での世の中は変わりませんね。         

 

> 上岡さんが生まれ育った足尾には、1943年から米英など連合国軍の捕虜や中国人らが連行された。   

>それ以降、憲兵20人ほどが常駐した。   

>外国人だけでなく、日本人も監視した。   

>銅山の無断欠勤をとがめ、作業場の脱衣場で書物などの持ち物まで調べた。   

> 足尾工業学校でも、戦闘帽に軍人が足に巻きつけるゲートルを身につけ、隊列による軍隊式の登校を強いられた。   

>陸軍の配属将校が目を光らせ、授業の大半は軍事教練と農作業だった。   

> 上岡さんは、戦時下の記憶や自らの体験などをつづった自分史を11年前に出版した。   

>その際、国民統制の実態を確かめようと「栃木県警察史」を調べた。   

> 警察史によると、戦局悪化に伴い、反戦・反軍的な言動が目立ち始めた。   

>4112月、対米英開戦と同時に警察部長は県内各署に徹底的な取り締まりを指示した。   

>同史には県外、県内の検挙例が挙げられていた。   

> 「戦争は陛下が勝手にやってゐるのである。   

>勝手にやったのだから債券を購入する事は出来ぬ」(県内の工場労働者男性)   

> 「子供を育てても天皇陛下から金を貰(もら)ふ訳でもないのに大きく育ててから(戦争に)持って行くなんて。   

>天皇陛下にだって罰が当(あた)るよ」(県内無職女性)   

> いずれも、戦争の責任が天皇にあると口にするなどした「不敬言動」の主な事例とされていた。   

 

当時のわが国は権威主義国そのものですね。これでは責任の所在が明らかになりませんね。国の舵取りができませんね。        

 

> 上岡さんは思い起こす。   

> 「日米開戦後、町には『ぜいたくは敵だ』の標語が張り出された。   

>統制も強まり、生活の隅々まで締め付けられました。   

>そうしたなかでも、疑問を抱く人や抵抗した人もいたということを警察史は示しています」   

 

そうですね。考えは人人により違いますからね。今は贅沢は素敵の時代ですね。      

 

 

 

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