最終日は、二股口古戦場を訪ねました。
二股口の戦いは、下二股川の渓谷を挟んで約16日間にも及んだ新政府軍と旧幕府脱走軍との攻防戦。
皆さん、バスを降りて山の装備を整えます
雨も上がり、見上げると青い空
ご案内いただいたのは、北斗市教育委員会の時田学芸員
時田学芸員は、以下をはじめ新政府軍側の史料を含め、二股口の戦いを様々な史料を精査することで、時系列ごとの戦況を独自にまとめあげていらっしゃいます。
「南柯紀行」(大鳥圭介)
「蝦夷之夢」(今井信郎)
「衝鋒隊戦争略記」(今井信郎)
「説夢録」(吉田脱藩・蝦夷政府江差奉行調役 石川忠恕)
「北洲新話」(元彰義隊士 丸毛利恒)
「苟生日記」(杉浦清介)
「蝦夷錦」(仙台脱藩額兵隊 荒井信行)
「戊辰戦争見聞略記」(旧桑名藩士・箱館新選組 石井勇次郎)
「函館戦記」(彰義隊員某*大野右仲の同名著書とは別物)
「中島登覚え書」(新選組 中島登)
「島田魁日記」(新選組 島田魁)
「函館戦記」(新選組 大野右仲)
「立川主税戦争日記」(新選組 立川主税)
「まずは、ここであった激戦の地に入らせていただく前に、この戦いで命を落とした方の御霊にご挨拶しましょう」
と、新政府軍側の戦没者・佐藤安之助の墓所をお参りしました。
そして、まずは新政府軍側の陣地を訪れました
新政府軍側からの眺望。下二股側の深い谷を挟んで、正面に見える山が、歳三軍の上の台場。右が新政府軍が進軍したい旧道であ理、その右の山にも歳三軍は広範囲に分かって塹壕を築いています。
二股戦は、4月13〜14日の第1次攻防戦と、4月23〜25日の第2次攻防戦に大きく分けられます。
第1次攻防戦の前、歳三と大野右仲は、後方陣地の意冨比(おおひ)神社にて作戦会議をして、
「おそらくこの戦いを制しても、全体の流れとしては負けに向かってしまうだろう。しかし、ここを守りきることは非常に大切だから、絶対に負けてはならない」
と並々ならぬ決意を持って戦いに臨みました。
しかしながら、第1次攻防戦で、歳三軍は130人あまり、新政府軍は500〜600人。武器も新政府軍の方が最新式でした。
不利な条件でしたが、新政府軍側の本陣が天狗山と数キロ離れた後方にあり補給がうまくいか無かったこと、旧幕府軍側の覚悟を持った奮戦と陣を構えた場所の地の利により、第1次攻防戦を制します。
歳三軍の築いた胸壁への登り口にて、時田学芸員が、二股戦の一部始終を解説してくださいました。
そのお話の中には、歳三さんが、兵士同士の諍いをうまくいさめたことや、疲弊した兵士たちをねぎらってお酒を配って回ったエピソードなども。
最終的には、矢不来が落ちたために、五稜郭への退路が断たれる危険性が高まり、歳三軍は五稜郭へと撤退します。
その撤退が見事で、静かに上手に撤退したために、新政府軍が敵が撤退したことを悟るのに、丸一日を要したそうです。
生憎前週、前日まで断続的に雨が降ったため、胸壁の場所まで登山することは叶いませんでしたが、現地に立ち、時田学芸員の詳細、かつ臨場感のわく見事な解説を伺ううちに、激戦の様子が生々しく浮かんでくるようでした。
また、今回はヒグマの出没地域であることから、二股口ではハンターにご同行をお願いしました。
ここ数年北海道ではヒグマが人間の生活圏にまで出没するように変化していることなどから、北杜市教育委員会のアドバイスを受けて、よみうりカルチャーがツアー参加者の安全確保のため、万が一の危険もないよう、念には念を入れた手配をしてくださいました。
猟銃を背負ったハンターさんお二人
(右の方はこの道50年とか)
ヒグマの頻出区域、興味深いマタギ話など、気さくにお話くださり、ご参加者にモテモテのハンターさんお二人でした
現地の方、ハンターの方のお話を伺い、二股口古戦場は、冒険気分で個人で立ち入るのは本当に危険な場所だと認識を新たにしました
ここ数年ヒグマがどんどん人に慣れてきている現状から、「昔行ったことあるから大丈夫」などという気持ちは持たない方が良いです。
私たちも、地元の方々にご協力をお願いし、万全の備えをして臨みましたが、今回は本当に貴重な経験をさせていただきました。
この場をお借りして、ご尽力くださいました皆様に心から感謝したいと思います
(どんぐりコロコロ、もう秋の気配の二股口)
さて、二股口をあとにした私たちは、なかなか訪ねる機会のない、四稜郭へと
その六へ続きます