6月2日は岐阜県博物館「兼定展」にて講演をさせていただきました。
タイトルは「和泉守兼定と土方歳三」
初めてお話した内容もあるため、記事にして残しておきたいと思います。
今回、歳三の最後をずっと護ってくれた刀を鍛えてくださった会津十一代兼定さんのためにも、今伝えられるありのまま全てをお伝えしようと思い、準備をしました。
歳三佩刀の和泉守兼定に関しては、刀身の特徴、拵えは刀装具の一つ一つまで詳しく
わかっていることはお伝えしようと、今までで一番詳細に時間を掛けてお話したかと思います。
そして、十一代兼定さんの人となりについては、曽孫にあたられるご子孫の古川様より
「講演に役立てて下さいね。」
と色々な資料を送っていただきましたので、一部紹介させていただきました。心より感謝します
この資料の中に、孫の兼秀様がお祖父様(十一代兼定)のことについてまとめた手記がありました。
そちらの内容が秘話の宝庫で、本当は全てお伝えしたかったくらいなのですが、もし今後古川家の方が直接語られる機会があればそちらの方が良いかなと思い、一部戊辰戦争にまつわる部分をご紹介しました。
「祖父兼定は近世の名刀匠として称せられているが、名人気質であり、また剛毅な人だったらしく、気が向かねば容易に刀を打たず、酒の強いのでその作品も多くは酒代に変わってしまったらしい。6尺豊かな偉丈夫で、長大な刀をわし掴みにし、肩幅が広くガッチリした体躯で、中々の男前で有る。俳優の阪妻(=阪東妻三郎)によく似ているのを覚えている。」
阪東妻三郎さん、検索してみてください。とってもかっこいい方です
「戊辰戦争の際、祖父は城中で弾薬や砲丸の製造を仰せつかっていた。攻防戦な最中に、たまたま台の町の自宅の刀蔵に「官軍占領」の大きなのぼりが掲げられたのを知って、無念やるかたなく、むしろ破壊しようと城中から火玉を放ったが、外れて愛宕山の民家に命中したとの話が伝えられている。」
など。自分が会津藩のために鍛えた刀が、敵軍に使われると思ったら、刀鍛冶として会津藩士として、本当に無念な思いだったことでしょう。会津藩降伏後刀蔵へ戻ると、散々官軍によって斬れ味を試すために試し斬りされた跡とみられる刀傷が柱などにあった、本当にやるせなかったとも書いてありました。
私にとって十一代兼定さんは、10代から父の代銘をうち鍛刀し、戊辰戦争後も加茂で鍛刀し、そして最後は陸軍の軍刀を鍛刀し…生涯を通して刀鍛冶であることにこだわった一徹の人。バラエティに富んだ作風を残したその探究心や好奇心の旺盛な人間性、そしてそのまっすぐな生き方は、どこか歳三さんに通じるものがあると感じています。
今回展示されている十一代の脇指で
展示番号41
表 大日本鍛治宗匠 和泉守兼定
裏 慶応四戊辰年仲秋日
という一振りがあります。
おそらく慶応4年8月に古川家の家督を継いだことを記念して鍛えたものであろうと言われていますが、
兼定が鶴ヶ城で籠城戦に入る8月23日の直前に会津で鍛えたことになります。
「大日本鍛治宗匠」。
どんな思いを込めた銘なんだろうといつも考えてしまいます。
歳三より2歳年下の兼定。
十一代は6月に会津に戻ってきていますが、その頃歳三は東山温泉で足の怪我の療養をしたりしていました。
歳三さんと会う機会があったかもしれませんね
そして、今回初めてお話ししたのが、脇指・主水正正清についてです。
第2次世界大戦後は、連合国最高司令官マッカーサーによる刀狩りが行われました。
刀狩りというと、普通は秀吉の行った刀狩りのことを指しますが、
多摩の古老はこの戦争後の刀の供出のことも「刀狩り」と呼びます。
なんでも
「刀があると「ガーガーガー」と鳴る探知機を持って来るから逃れられないぞ」
とか色々なデマが飛んで、当時は皆恐れて、茅ふき屋根のかやに刀を刺して隠したり、木の箱にいれて田んぼに埋めたりしたそうです。
やはりその頃の日本人にとっては、まだまだ家に伝わる刀はその家の象徴、何より守りたいものだったんでしょうね。
それで、埋めたりしたものは、すぐに地熱で錆びて駄目になり、その時良い刀がずいぶん失われたとか、かやに刺したものは、囲炉裏で燻されて乾燥していたから大丈夫だったとか、色々な話が残っています。
土方家も所有していた刀は、供出しました。
その時の書類が残っています。
また先祖ゆかりの大切な刀は遺してもらえたそうです。
おそらく、供出にもある程度協力することでよしとされたのではないかと思います。
仮預り証明書
昭和21年1月5日。連合国最高司令官より武器引き渡し命令があったということで
日本刀(小刀)2本
日本刀(小刀)1本 銘 國光
を石田村隣の宮村の駐在所に預けています。
こちらの刀は結局戻ってはきませんでした。
その後、昭和26年に日本刀の登録制度が始まり、土方家からはその直後の3月31日に2本の刀が登録されました。
一本は「和泉守兼定」
もう一本は「葵葉一つ 主水正正清」です。
室町時代後期の十文字槍「助宗」は遅れて昭和31年に登録されています。
(下の登録証の写真はコピーですが、全て原本が手元にあります)
今月号の「刀剣界」の記事にも戦後の登録制度のことが載っています。
「昭和20年の終戦から数ヶ月は、日本刀は機関銃などと同様に武器と見なされ、GHQの司令に基づいて接収され、廃棄されました。その後先人たちの努力で、美術品と認められる日本刀に対しては、審査を経て所持することが許されました。
紆余曲折はありましたが、25年11月20日に「銃砲刀剣類等所持取締令」が施行になり、翌年2〜3月から都道府県ごとに「銃砲刀剣類登録証」の発行が始まり、現在に至っています。」(「刀剣界」2018.5.15 41号より)
そして、その2年後の昭和28年に発行された、地元多摩の文化財である刀の目録が掲載された冊子
「文化財 刀剣保存会 第一集」
そちらには、和泉守兼定のみで
主水正正清は掲載されていません。
その時点で主水正正清はもう手元に無かったのか、
理由があって掲載されていないのかはわかりません。
現在は主水正正清の登録証だけが手元にあります。
脇指は、誰かに譲ってしまったのか、
まだ探せばどこかにあるのか、
なんとも確証のない話で、
気になってはいましたが、
今までは中途半端な情報なので、公表することはありませんでした。
他人に譲ったとしたら、
登録証が手元にあるのはおかしいです。
必ず登録証も一緒にお譲りするものなので…。
盗難にあったのだとしたら話しが合いますが、じゃあなぜお蔵にあった刀のうち脇差だけが盗まれて、一緒の刀箱にあったであろう長刀の和泉守兼定は盗まれなかったのかと考えると不自然…。
実は、こんなこともありました。
平成NHK「新選組!」に合わせて日野市が大々的に新選組の展示を行うということで、その前年に各家の史料調査を行い、我が家も協力した時のこと。
昔の長持やら文書類やら史料をまとめてお渡しする際に、学芸員さんが一つ一つ確認していて
「あれ?これはなんですか?」と手にとったもの、
母は「それはね、多分お蔵の鍵だったと思うんですよね…」
私「お蔵に鍵なんてあったかな?しかもすごく大きな鍵。鍵にしては大きすぎない?」
学芸員さん「うーん、何だかこれ、引き抜けそうですねえ。抜いてみても良いですか?」
とカバーらしきものから引き出そうとして、
一同唖然
一文字槍だったのです。
時代は十文字槍の助宗と同じ室町後期の直槍でした。
お蔵に長い槍の拵えだけは3本ありましたから、
「この先(穂身)はどこにあるんだろうね。」なんて話してはいました。
まさかのお蔵の鍵と思っていたら、槍だったとは…
母の天然エピソードです
私も同じように、
「これなんだろうなあ、神棚にあるこの古ーい輪っかの。ナプキンリングのような?昔何かに使われていたものだろうけれど」
と思っていたら、それも槍の拵えの一部だった…という経験があり、
人のことを言えないのですが
ですから、びっくりするような意外なところに意外なものがあったりする、という経験を通して、何かの折に見つかるかもしれないな…と思いつつ過ごしていました。
ただ、今回良い機会をいただきましたので、土方家の刀剣のことについてありのまま不確かなことも含めてお話をさせていただこうと思い、講演の中でご紹介しました。
ここからは個人的な推測なのですが、ポイントを整理すると…
●大名登録(登録制度が始まった直後の昭和26年3月という時期に登録されている刀をそう呼ぶそうです)されているふた振りであり、兼定同様にその価値(というか遺していく意義)が高かった
●主水正正清(もんどのしょうまさきよ)は寛文生まれ(1670−1730年)の江戸時代新刀期の薩摩国の刀工。享保6年1月、八代将軍徳川吉宗の命により江戸浜御殿において作刀、その出来の良さを認められ葵一葉紋を茎に切ることを許されるとともに、将軍家の斡旋により7月13日に主水正を受領。他にも刀の本には、最上大業物など、かなり位の高い作刀をされた刀工さんだと書いてあるものが多いです。
●土方家は、由緒書きなどは遺されていないものの、元は後北条氏に仕えた地侍集団三沢十騎衆の土方氏がルーツと伝わっており、後北条氏八王子城落城と共に帰農したと考えられるため、室町時代後期の2槍(うち十文字槍は駿河国刀匠・助宗)が伝わるのは時代的に自然。しかし、農民になり江戸時代になってから主水正正清のような位の高い刀を手に入れるのは、不自然。
ましては江戸時代は幕末期までは平和な時代でしたから。
ですから主水正正清は土方家伝来ではなく、歳三さんが幕末期に入手したものではと考える方が自然です。
●可能性としては、歳三さんが使っていた大小として土方家には和泉守兼定、主水正正清があり、その刀だけはすぐに登録することが必要だと認められた。のちに登録制度が落ち着き、土方家に戦後生活に余裕の出てきた5年後、お家伝来の槍も登録しておこうと登録されたと考えると自然かなと思います。
もう今は、確かなことは言えないのですが、今ある情報をありのままご紹介しました。
それぞれのお家で、いろいろな事情がありながら、日本刀は守られ、伝えられてきたと思います。
その価値がどうかとかそんなことより、大切なお家やご先祖さまの歴史を、その一振りは背負っているんだと思います。
これは、昭和48年頃お仏壇の前で撮影された写真
中央には、歳三さんのお位牌。お仏壇の上には、歳三さんの人となりを詠んだ榎本武揚さんの書。
祖父・康が兼定を掲げて、2歳の私は母の膝の中で「わー」と兼定を眺めています。横に姉と祖母。
(あ、歳、バレますね^^)
そのものが今まで伝わっていることに感謝して
だからこそ、そんな背景も含めて、兼定や史料、遺品類を
また次の世代に伝えていけたら良いなと思います
もしかしたら、「葵葉一つ 主水正正清」もどこかで存在していて、
土方家のことを見守っていてくれているかもしれませんし^^
長々、講演備忘記にお付き合いくださり、最後まで読んでくださってありがとうございました
そして、兼定展、素晴らしいです。
関住兼定、会津兼定の系譜の約50振りが広い展示室一同に会するきっと唯一の機会です。
今回展示に関わる学芸員さんはじめ館の皆様が本当に誠意ある熱心な方々で、日々良い展示になるように改善改良を重ねて、どんどん展示も進化を遂げていっています。展示配置表、愛好家にも初心者にもわかるような解説パネル、展示を見にいらした方も参加できるコメント欄、より刃文や地鉄が見やすいようにと改善を重ねる照明の角度、ペンライトの貸し出し…。
限られた予算の中、きっと大変な努力とマンパワーで展示に当たられているんだなと感じられて、本当に今回良いご縁をいただいてよかったと思います。
岐阜県博物館「兼定展」会期は6月24日まで
押し型とともに立派に展示していただき、
こちらでは、360度上からも下からも、刀身と向き合っていただけます。
どうぞお見逃しなく、です