朝からテンションが上がります。大好きな伝。
容姿端麗にして王佐の才、曹操の背後を支えた荀令君。
「賢さには近づけてもその愚かさには近づけない」君子人にして、透徹した戦術家、荀軍師。
智謀で渡り歩く、曹操をも窮地に追い込んだ度胸の座った涼州人、賈太尉。
ああああ、ゆっくり読もう。
侍中・長水校尉の曹熾には二人の子がいました。
兄:仁、字を子孝。
弟:純、字を子和。
ふたりは同じ母より生まれ、兄弟仲は大変よかったそうです。
弟が14才のとき、熾は亡くなりました。
故あって、兄とは別に暮らしていた弟、曹純は
「父の家邸を受け継ぎ、富裕な財産を有し、召使や食客は数百人にも達していたが、
彼は、規律正しくこれらを監督し、筋道をはずさなかったので、郷里の人々はみな有能だと認めた。
学問好きで学者を敬愛したため、多数の学者が彼の元に身を寄せた。
これによって遠近の人々からこぞって賞賛された。」(裴注、「英雄記」より)
***
そのころ兄、曹仁は。
「若者を結集して、千人余を味方につけ、淮水・泗水のあたりを暴れまわった」(曹仁伝)
( ゜Д゜)
***
時は流れて、烏丸討伐の時のこと。
弟、曹純は、精鋭「虎豹騎」を率い、烏丸と戦っておりました。
そして、「曹純配下の騎兵が単于のトウ頓を生け捕りにした」(曹仁伝)のです。
烏丸突騎と呼ばれた天下一の騎兵に対して、中原の騎兵が勝利した瞬間でした。
(日露戦役の秋山好古みたい。)
***
一方、こちらは、周瑜と江陵で対陣中の兄、曹仁。
周瑜の先鋒隊千人が到着、すかさず曹仁は手をうちます。
「三百人の兵士を募り、牛金を派遣してこれを迎え撃った」(曹仁伝)
もちろん。
「多数の敵に対して牛金の兵はわずかだったから結局包囲されてしまった」(曹仁伝)
(((( ;゚Д゚)))
真っ青になる長史の陳矯ら。
反応が違うのはこの人だけ。
「曹仁は怒りの絶頂に達し、側近のものに馬ひけと命じた」(曹仁伝)
ヽ(` Д´メ)ノ
とめる陳矯に返事もせず、数十騎を率いて城を後にする曹仁。
「陳矯らは、曹仁が当然堀の側にとどまって、牛金援助の形勢を示すと考えていた」(曹仁伝)
(;一一)
「ところが、曹仁はまっすぐ堀を渡って直進し、敵の包囲網に突入した」(曹仁伝)
∑( ̄ロ ̄|||)
結局、曹仁の活躍で、牛金は助かります。
「陳矯らは、……曹仁が帰還した姿を見るに及んで、ため息をついていった。
『将軍はほんとうに天上世界のお方だ。』」(曹仁伝)
天上世界。
これは正統的な「神のごとき武勇」というような解釈のほかに、
いろいろな意味が含まれていたと思われます。
***
大将軍・曹仁の名誉のために言っておきますが、
「張遼(の武功)は彼の次に位する」
のだそうです。
蜀書終ったので、魏書へ。
蜀書に比べると・・・魏書、面白い!
本紀と諸群雄の部分は以前に読んでいたので、諸夏侯曹伝第九からです。
司馬遼太郎風に言えば『曹・夏侯家のひとびと』で、
曹操という英傑身内にいなければ、人生変わっていた人々です。
※曹も夏侯ももともと名家なので、元農民の豊臣家とは違いますが。
■夏侯惇伝
某蒼天航路では、ちっとも強くない愛すべき惇兄的な扱いで、
光栄三国志とは違った一面を見せていたわけですが、
正史。
確かに夏侯惇活躍してない…。
呂布につかまったりしとる。
信頼(というか特別視:不臣の礼とか)されてはいたようですが。
中領軍(近衛軍的な)韓浩さんのほうが光ってます。
■夏侯淵伝
妙才無双。戦歴が半端じゃない。
張[合β]・徐晃をつれまわし、各地で勝ちまくってます。
惇兄とは比べ物にならないなー。
食邑では惇兄にだいぶ大差をつけられてますが、
これは、漢から受けていた惇兄と魏から受けていた妙才さんの違いなのかなーと想像。
(よくわからない。)
夏侯淵、つおい!
しばらくぶりになってしまいました……。
しごと忙しくて、更新する暇がありませんでした。
今週末は3連休もらいましたけどね!
で、蜀書を読了いたしました。
なんか、いっぱいいたけど内容薄かったな!という印象。
蜀書の法正伝以下はこうなっておりまする。
■第八:放浪時代から付き従った客人+α
糜竺とか簡雍とか、なぜかここに許靖と秦密[山ナシ]が入る。
・許靖の交州から中原に宛てた手紙が面白い。流浪って大変だったんだと思う。
・任安・董扶→秦密→ショウ[言焦]周→陳寿みたいな蜀の学統が垣間見えたりする。
■第九:楚・蜀の名士たち
董和・董允父子、馬良、劉巴など。
■第十:終わりをよくしなかった残念な人々。
劉封・魏延・李厳など、途中で免官されたり誅殺された人々。
・李厳、廖立など、それでも諸葛亮がまた見出してくれると念願していた人は多い。
■第十一:楚・蜀の名士たち(その2)
第九との違いがわからん。霍峻・向朗・費詩など。官位なのか。
・ときどき諸葛亮が人物評をする際、その手紙が張裔に宛てられる。
■第十二:蜀の学者たち
周羣・孟光・尹黙・ゲキ[谷β]正・ショウ[言焦]周など。
・許慈あたりは苦しかったらしく、「蜀には人材がいなかったから許慈がはいった」といわれる始末。
・来敏は後漢の来キュウの子孫らしい(南陽出身)。
・蜀の学は図緯が盛んな印象。あとみんな司馬相如!楊雄!と言う。
・孟光に執慎将軍という官位が与えられているが、将軍の前につく○○って何でもいいのだろうか。
・益部耆旧伝は陳寿の作と8巻末にあるのだが(晋書が出典らしい)、ここには漢中の陳術作とある。
どっちだ。
■第十三:北に南に将軍伝
黄権・馬忠・王平など、南征・北伐に活躍した将軍ら。
・張嶷伝が面白い。妙に詳しい。蜀書には南蛮諸部族の伝が無いが、これで代えているような印象。
■第十四:諸葛亮後の大黒柱たち
蒋エン[王宛]・費イ[示韋]・姜維の3人の伝。
・安定のお三方なのでとくに言うことなし。
・前のお二人は漢中に行ったり、大将軍だったり、録尚書事だったり、早死にしそうな感じ。
・蜀は諸葛亮後も「ひとだより」なのかなぁ。
■第十五:なんのくくりかわからない…。
トウ[登β]芝・張翼・宗預・楊戯の伝。
・トウ芝はトウ禹の子孫(南陽出身)。魏のトウヨウ[風易]もトウ禹の子孫らしく、近しいのか?
・三国志には書いていないが、張翼は張良の子孫らしい。
・末に楊戯の季漢輔臣賛がついている。
ん。おわた。
最後に、蜀書を読んでみても、なぜ蜀が滅びなければならなかったかちっともわからなかった。
姜維が国内を疲弊させたからなのか、黄皓の悪政のせいなのか、
はたまたショウ[言焦]周の誤った降伏進言のせいなのか。
うーん、もっと読まなければいけないようです。