先日、合間をぬいまくって

京都は左京区一乗寺方面にある

 

狸谷山不動院

(通称:たぬき谷のお不動さん)

 

に行って参りました~~~!!!!

 

 

たぬき推しのワイ、「狸谷山」って語感だけで大歓喜

 

 

 

 

この時期の京都は紅葉シーズンで

どこの神社仏閣も人が多いのですが、

 

今回行った狸谷山不動院は

かなり奥まった場所にありまして

(駅から坂道をまぁまぁ歩く場所)

 

この時期でもそんなに人がいない、

穴場スポットの一つだと個人的に思ってます。

 

 

けっこうな坂道を登っていかねばならんのですわ....!

 

 

 

 

ブログのアイコンを今時

 

手書きの自作たぬき絵

 

にしてる私といえば

たぬき好きで有名ですが(※有名じゃありません)

 

 

お寺に着くと、

 

たくさんのたぬき達が出迎えてくれて

それだけで心が萌えで沸き立っておりました。笑

 

こんにちはーーーーー!!!!!!!

たぬきさん達こんにちはーーーーーーー!!!!!!!

 

 

 

可愛いぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!

萌えェェェェェェェェェ!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

ですがこの狸谷山不動院、

 

ここに着くまでも結構な坂道を

登らないといけないのですが、

 

着いてからも

急な階段が待ち受けているんだなぁ、、、!

 

 

本堂までまだまだ先だポンよ

 

 

 

 

 

最初は足取りも軽く登りながら、

 

階段途中で応援してくれる

たぬき達に癒されていたのですが、

 

69/250ね、頑張るぞー

 

 

 

 

 

でもなんかこう、、

途中からだんだん小憎たらしくなってきてですね

 

もうヒィヒィいってますのん???

まだ半分も行ってないやん超息上がってるやんけプス、クス、プスクスプスー!(って言ってるようにもはや見える)

 

 

 

 

たぬき達に叱咤激励されながら

なんとか頂上の本堂まで行って参りました~!

 

 

着いたどーーーー!!!!!(濱口の口調)

 

 

 

 

駅から近いわけでもなく、

坂道や急な階段もあるので

ちょっと行きにくい場所ではありますが、

 

その分人は少なく

山奥なので空気も澄んでて

本当に気持ちのいい場所でした。

 

 

 

今は対面のご自愛会議も多いので、

 

もし会議の後に京都の紅葉を

観に行くご予定のある方は

どうぞ参考までになさってくださいねにっこり紅葉ハート

 

 

 

その日1万歩あるいたのに

帰りに王将でラーメンとビール飲んで

同じく1万カロリーぐらい摂取した、

 

どうもこんばんはわたしです~!

 

ちなみに、最後のたぬきがこの子でした

(ちょっと微笑んでくれてるのがなんか嬉しい)

 

 

 

 

、、さてうさぎのぬいぐるみハートのバルーン

 

 

前回の記事で、

 

「好き」と「愛する」は別物なんじゃないか

 

という内容の事を書きました。

 

 

★★★

 

 

 

 

その中で、

 

 

「好き」だから、

「好きな相手」だからこそ、

 

何でも自分の気持ちを分かってもらいたいし

 

自分の感情と

相手の感情を一致させておかないと、

不安から不機嫌な態度を長引かせてしまう。

 

 

それは言うなら、

母親に対して

 

「お母さん、私眠いよ、抱っこしてよ!」

 

「お母さん、私お腹すいたよ!

早く満腹にさせてよ!」

 

「お母さん、側にいてよ!一緒にいてよ!

この私の不快な感情を何とかしてよ!」

 

と訴えるのと似ています。

 

幼かったら、この欲求は当然ですよね。

叶えてもらって然るべきな望み、です。

 

 

でも、大人になったら。

 

彼は別に、

あなたの感情のお世話をする義理はないのです。

 

 

↑このような事を書いてました。

 

 

 

今日は少し、

このへんの事を補足したいと思います。にっこり飛び出すハート

 

 

 

 

 

 

まず、

 

あなたはこの言葉を聞いて

正直どんな感じがしますか?

 

 

「自分が自分を愛する」

 

 

 

このHY(引き寄せ)業界では

よく聞くワードNo.1に

君臨してる言葉、ですよね。

 

 

別に引き寄せや自己啓発界隈に限らず、

 

「自分が自分を愛する」事の大切さは

めちゃくちゃ市民権を得ているはずです。

 

 

 

 

ですが耳馴染みのいい言葉の一方で、

 

この言葉に得体の知れない抵抗感や

拒絶反応を示す方もいると思うのです。

 

もしくは抵抗感まではいかなくとも、

なんとなく白(しら)けた気持ちになってしまう。

 

 

 

その白けた気持ちを

よくよく分析するなら、

 

私が私を愛したところで何になんの?

 

自分に愛を示されたところで何なの?

 

 

つまり、

 

「他人から与えられないと意味がない」

(=人から与えられる愛情じゃないと価値がない)

 

といった観念がある

(だから白けたり萎えるような気持ちになる)はず、なのです。

 

 

 

 

 

ここで冒頭の例に戻ってみましょう。

母親と子どもの例、です。

 

 

「お母さん、私眠いよ、抱っこしてよ!」

 

「お母さん、私お腹すいたよ!

早く満腹にさせてよ!」

 

「お母さん、側にいてよ!一緒にいてよ!

この私の不快な感情を何とかしてよ!」

 

 

これら↑を読んで、

何か気付く事はありませんか??

 

 

 

子どもの世界とは、

「与えられる」事で成り立っているのです。

 

 

 

子どもは自分で選べる範囲、

というのは実は限られています。

 

自分が食べるもの、

自分が着るもの、

自分が住む場所、、

 

そういうものは、

全て大人から与えられているもの、ですよね。

 

 

 

そして、

 

良い子でいたり

良い点数を取ったり

周りに期待される振る舞いをして

 

褒められる(供給される)事が日常化します。

 

 

 

つまり、

 

子どもの世界というのは

すごく雑に言うと

 

「与えられる事に価値や意味を見出す世界」

 

なのです。

 

 

 

 

では、

 

対して大人の世界とは

どういう事を意味するでしょう?

 

 

上記の例とは逆にすると

分かりやすいと思うのですが、

 

大人は、自分で選べます。

 

 

食べるものも、

着るものも、

仕事も、住居も、環境も、

 

全部自分で決められるのが大人、です。

 

 

もういちいち誰かのお伺いを立てなくても、

誰かに正誤をわざわざ確認しなくても、

 

与えられるものだけに頼らずに

自分で世界を拡げていける。

 

 

つまり、

 

「自分で決めた事に価値や意味を見出せる」

のが大人の世界、なのです。

 

 

 

 

....でね、

 

別に子どもの世界が悪くて

大人の世界が良いとか

そういう事を言いたいのではないのです。

(別に良い悪い、はないのですから^^)

 

 

 

ただ単純に、

 

◎大人の世界の方が圧倒的に自由だよ

 

という事はお伝えしたい、と思います。

 

 

何故なら、

「与えられる事を待たなくていい」からです。

 

 

 

 

 

誰かが愛してくれたら、

 

褒めてくれたら、

 

認めてくれたら、

 

欲しい言葉をくれたら、

 

私は愛されてるって感情を得られる。

 

自分には価値があるって感じられる。

 

 

分かるよ。

その順番が正当だって思いますよね。

 

 

 

でも、

そう思うのはもしかしたら、

 

 

自分は「人から与えられる事」に拘り過ぎてて、

「供給される事」に重きを置きすぎてる

 

 

と気付く時が、

やってきたのかもしれません。

 

 

 

 

 

「自分で自分を愛する」とか

 

「私が私を幸せにする」とか

 

「自分の機嫌は自分で取る」とか何とか、

 

そういう言い回されまくった言葉や

よく聞く表現に白けてしまうとしたら、

 

もしかしたら、

きっとあなたは。

 

 

「誰か、お願いだから」

 

という渇望にも似た言葉が、

脳裏を掠める時はないですか?

 

 

 

 

 

願いすぎて舌が渇く位に

愛されたいって思っていたり、

 

 

本当は物凄く寂しくて切なくて

今すぐ誰かに安心させて欲しかったり、

 

 

ただただ誰かの温もりが欲しくて

抱き締めてもらいたかったり、

 

 

可愛いよって

大丈夫だよって、

たったその一言を求めていたり、

 

 

誰か助けて、って今にも泣きだしたくて

何かに縋って降伏したいような気持ちが

日常的に渦巻いているとしたら。

 

 

 

そんな、

 

「誰か、お願いだから」

 

「お願いだから誰か私を愛して、

私を見て、助けて」

 

って「与えられる事」を

ずっと願っているのなら。

 

 

 

 

あなたが欲しくてたまらない

 

「愛されてる気持ち」とか

「満たされてる気持ち」とか

「自分に価値を感じる気持ち」ってものは、

 

誰かから与えらえる事に拘って

子どものように待ち焦がれたり期待しなくても、

 

「私が私に与えられる第一人者なんだ」

 

と気付いて欲しい、と思うのです。

 

 

 

 

「誰か、お願いだから」。

 

その「誰か」を「わたし」に

向ける事ができるのが、大人です。

 

 

大人はもう、自分で決められます。

誰のお伺いも承認も同意も省いていいのです。

 

 

 

 

「あなたはいい子ね」

 

「可愛いね」

 

「よく頑張ってるね」

 

「〇〇ちゃんは人気者だね」

 

「〇〇ちゃんはこれも出来て凄いね」

 

「〇〇ちゃんはすごく愛されてるね」

 

 

こういう言葉を言われて

嬉しいのは実は一瞬で、

その”嬉しい”の賞味期限は短いはずです。

 

また与えられたり供給されないと

安心できないのが子どもの特徴ですから。

 

 

 

 

だけど、

 

あなたと一番付き合いが長いのは、

もう本当に、「あなた」、です。

 

あなたの魅力とか特性とか何とか、

本当にあなた自身が決めていいのですよ。

 

 

 

あなたが一番、

あなたの事を分かっているはずなんです。

 

だから堂々と、

あなたが欲しい言葉も気持ちも対応も

全部あなたがあなたに向けていいのです。

 

 

「誰かに貰う事を待たなくても、

もう自分で自給できる事を知れる」

(=いつまでも庇護される子どもから卒業して

何でも自分で決められる大人の特権を自由自在に使える)

 

というのは、

実は物凄い恩恵なのですよニコニコ飛び出すハート

 

 

 

 

過去記事に、

こんな事を書いてました。

 

 

 

 

 

「自立とは、わたしの価値を自らが決定する事」。

 

だとしたら、

反対に「依存」とは?

 

 

「わたしの価値を他人に決めてもらう事」が

「依存」になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「誰か、神様、お願いだから。」

 

その「誰か」を、

「わたし」に向けれるあなたであってください。

 

 

今日はなんだか、

そういう事を書きたくなりました。

 

 

 

 

それでは皆さま、

 

どうぞ心地良い

11月最終日をお過ごしくださいうさぎのぬいぐるみコーヒーハート

 

 

★★★

 

参考記事を参考までにペロっと貼り付けました

 

 

花~ご案内中のメニュー~花

直接会ってあなた専用会議

ー対面型 ご自愛会議ー

 

画面越しであなた専用会議

ーご自愛会議オンラインー