第3部:自然界からの警告と死神からの贈り物 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

世界各国の民間では此度のコロナウィルスがもたらした人間界への大損害に対して、様々な意見が述べられている中で、余が個人的に興味深いと思った1つとして、「人類への天罰なのか?」と言うのがある。

即ち人類が19世紀のIndustrial Revolution(産業革命)以来、地球の自然を著しく破壊し、資源を汲み尽し、他の生物の生活圏を奪い取った事への天罰であると言う事である。

近年、人間は自分達の社会の衛生水準を向上させる事を目的で、極端なまでに消毒だの除菌、殺菌、滅菌、等を強化して来た。

しかし其の一方で細菌とて生存する為に自らの生態系を変化させようとするのである。

最近の数々の中で1例を挙げると、病原性大腸菌O-157がある。

本来、大腸菌とは人間の腸内に生息して、消化を助ける役割を担っている。

ところが人間の一方的な除菌、殺菌、滅菌、等の処置から生き抜く為変態したのがO-157なのである。

其れが証拠に、此のO-157の発生は先進国だけに見受けられ、発展途上国、後進国では全く見られない。

細菌、ウィルス等のミクロの世界のみならず、野生動物の世界でも似た様な現象が起きている。

例えば近年の人間による度重なる都市開発や住宅地拡大によって、山や森林が広範囲に渡って抹殺されている事である。

此れに依ってかつて人間が「里山」として生活に利用していた自然環境は大幅に失われ、そこに生息する野生動物達も生活圏を失い、生き残りを賭けて人間の生活圏に侵入して、農作物、食物を盗み食いする事を余儀なくされたのである。

其の結果、原因を作った「加害者」である人間の手によって駆除される悲惨な末路を辿っているのである。

以上の様な実例を人間の利益を度外視して他の生物の立場から考察すると、「地球上で人間の様な強欲で、身勝手で、自然環境に有害な生き物はいない!」とも言えるし、「これ等の人間の行いは大変罪深く、天罰又は自然からの『しっぺ返し』を受けて然るべき!」としか言い様が無いのである。

 

一部の細菌学者は「人間の自然破壊が新型病原体の発生を助長した。」と提唱しているし、又、多くの自然科学者は「今回の天罰とは人類が前記の様な生活体系を続けていたら、近い将来取り返しの付かない状態(例:空気や水の汚染、樹木植物の減少、異常気象、食糧危機、等)に陥ってしまう。」と警告しているのである。

其れ故に今回のコロナウィルスによる世界規模の大損害を機に、人類は自分達の生活態度について大いに反省し、改めて「自然と人間の共存」そして「地球環境の保持」を強く意識して実践しなければならないと言う事である!

1994年の公的デビュー以来、”Zusammenleben zwischen Natur und Menschen”(自然と人間の共存)を”Patriotismus”(愛国主義)と“Reminiszenz”(温故知新)と並んで我が芸術の3大主題の中の1つとして定めている余としても、此の意見に大いに共感出来る処である。

他にもコロナウィルスがもたらした経済上の大打撃に対する処置法として、「節約」とか「生活水準を下げる」とか「無駄な出費を慎む」とか言った一種の「禁欲主義」の様な思想を提唱する人も出て来ている。

 

戦争とは人間の集団の利益、ないしは恐怖、憎悪、敵愾心によって勃発し、破壊と大量殺戮と云う甚大な害しかもたらさないと考える人がいる。

ところが戦争にすら科学、工業、医学の進歩又は発明、発見等のNebenprodukt(副産物)がある。

 Deutsches Infantarieuniform 1914

例えば第一次世界大戦中(1914~18年)に普及して、現在も尚活用されている物品として、腕時計、ボールペン、ホチキス、トレンチコート、自転車、等がある。

今回のコロナウィルスの世界的な蔓延によって起きた災難、被害以外の現象として以下の事例がある。

・世界中の株の大暴落が影響して、Gold(金)の相場が更に上昇している。(1g:6513円)

・世界の交通量と其れに伴う排気ガスが激減した事によって、人工衛星の観測によると、今年1~3月のCO2(二酸化炭素)の産出量が半減している。

・世界中で「自宅待機」が奨励されている事から、自動車の外出率が著しく減少した結果、交通事故が著しく減少し、更には石油、ガソリンの価格が値下がりした。

 

4月16日に日本政府は国内のコロナ感染が急速に増加している事を理由に、「緊急事態宣言」を当初の7都道府県に加えて残りの40県全てに発令した。

更に此の宣言により日本国民全員に「自宅待機」や「外出自粛」を要請する事から、約1億2602万人の国民一律に10万円を給付する事を決定した。

これ等の政府の全国民に向けての措置は賛否両論、様々な意見が寄せられているが、大半の国民は「相手は目に見えない而も想像を絶する感染力を持った危険なウィルスだから仕方が無い。」と納得している様だし、又、国民一律10万円の給付金は「当初の所得の半減した世帯(約20%該当)にだけ30万円を給付するよりも増しなのではないか。」と思っている様である。

戦争の様に敵が人間ならば、先ず首都や主要な大都市を狙って爆撃するのが近代戦術の常道であるので、此れに対し首都や大都市を優先して防備を固めるのが正当と言える。

ところが今回の敵はコロナウィルス、詰まり国民の往来、接触によってどこでも感染が広まる危険があるのである。

故に初めから全国に向けて「緊急事態宣言」を発令し、感染被害の少ない県から順次解除して行く戦略の方が効果的であったと思われる。

今回の「給付金」を医学の分野での「輸血」に譬えるなら、此れは何よりも先ず貧血状態の人を優先して行う事である。 而も輸血が手遅れになると生命の維持が出来ない。

其れに対し血液が十分足りている人には輸血等必要無いのである。

給付金も一律金額ではなく、国民一人一人の年収や損失額を元に、其れ相応の金額を給付するのが公平なのかも知れないが、其の様な事を一々調べていてはきりが無いし、給付時期も大幅に遅れさせてしまう。

とは言え人間社会に於ける平等、公平等、詮栓「理想論」であって、実際の処、不平等、不公平がまかり通っているのである。(此の様な事を書いては身も蓋も無いのだが・・・・)

 

扨、「第1部:新型コロナウィルスの実態と世界にもたらした甚大な被害」にも書いた事だが、コロナ感染症の大流行の後、更に危険視されているのが世界規模での「食糧危機」である。

普通の場合なら此れは大規模な自然災害によって起こる事だが、以下の人為的原因によって起こる事も予測されるのである。

4月1日にUnited Nations(国際連合)のFood and Agriculture Organization(食糧農業機関)とWorld Health Organization(国際保健機関)とWorld Trade Organization(国際貿易機関)の3首脳は「現在進行中の新型コロナウィルスの危機に当局が適切に対応出来なければ、世界的な食糧不足が発生する恐れがある。」と全世界に向けて警告した。

世界の多くの政府がコロナ感染拡大への緊急対策として国や都市を封鎖する事を止むを得ず強行している。

ところが此れに依って国際貿易と食料品の供給連鎖に深刻な悪影響が出ている。

FAO, WHO, そしてWTOの3人の事務局長は「食料品の入手可能性への懸念から輸出制限のうねりが起きて、国際市場での食料品不足が起こりかねない。」と共同で声明を出している。

更に長期的な展望では、各国の封鎖により人間の移動が制限される事によって、農業従事者の活動能力が低下し、食料品の市場への出荷が困難になり、農業生産力が著しく減退する可能性がある。

此の深刻な大問題を未然に防ぐ為、速やかに何らかの打開策を世界各国で見出さなければならない。

FAO, WHO, そしてWTOの3人の事務局長は加えて「食料品の供給連鎖に直接関わる人と其れ以外の人々両方の健康を守り、食料品の供給連鎖を維持する上で、食糧の生産、加工、流通に携わる労働者を保護する必要がある。」と強調し、「新型コロナウィルス対策が併発させる食料品不足を避ける為には、国際的な協力が必要だ。」と訴えた。

 

にも拘わらず一部の国では自国の食料保護の為、輸出制限措置を取っている。

先ずロシアでは4月から6月にかけて、穀物の輸出量を700万tを上限に制限をかけた。

因みにFAOの調査によると、ロシアの小麦輸出量は世界一で2017年の輸出量は3302万tにも及ぶらしい。

又、同組織の調査によると、米の輸出量が2017年に581万tで世界第3位のベトナムは、今年の3月下旬からは新米の契約を停止している。

そして世界一の米の輸出国であるインド(1206万t)では米と小麦の輸出を制限して、国内の貧困層への配給を増やす意図がある様である。

此の様に強力な農業生産国が揃って極端な輸出制限をかけると、コロナウィルスによる二次的危機が訪れる可能性が高くなり、世界規模の食糧不足と云う大きな災難を招く事になり兼ねないのである。

実に最近の世界では20か国以上で食糧不足が原因でデモや暴動や略奪が何件も発生しているのである。

此の分野でも「自国第一主義」の思想や政策が支配的になりつつある様相である。

今から10年以上前から一部の自然科学者、農学者によって「食糧危機」は当時から約30年後には到来すると予測され危惧されていた。 (余は個人的にはより早期に到来すると予測していた。)

今回のコロナ感染症の世界的な大流行が導火線となり、食糧危機は当初の予想以上に早く到来する見込みである。

 

医学が発達していなかった昔の時代には、疫病は死神が人間界へもたらす物だと信じられていた。

かの有名なGrimm兄弟の編集した“Kinder und Hausmärchen”(子供と家庭の童話)の中に“Der Gevatter Tod”(名付け親の死神)(KHM44)と言うのがある。

此の童話の中ではある貧しい男が自分の13人目の子供の名付け親を探していた時に、死神が現れて「わしは金持ちも貧乏人も分け隔て無く平等にするぞ。」と言った事に同意して名付け親を依頼したと言う筋書きである。

コロナ感染症による死者の世界的統計を見ると、富裕層、中間層よりも貧困層の死亡率が遥かに高いのである。

其の主たる原因とは、富裕層には健康管理の行き届いた人が多く、医学的治療を直ぐ受けられるのに対し、貧困層には日常生活で不摂生する者が多いのと、健康保険の未加入により入院、治療費の支払いが困難である事である。

迷信染みた表現になるが、新型コロナウィルスを死神からの人類への贈り物と想像すると、貧富の分け隔て無く平等どころか、まるで貧乏人共を優先して冥界へ運んでいる様である。

 

  Pieter Bruegel d Ä :  ”Der Triumph des Todes”(1562)

又、余の専門分野の「西洋美術史」の中でも死神を題材にした作品は多く描かれている。

今回は其の中でも代表作として先ず後期Renaissance時代のFlandre地方の画家Pieter Bruegel d Ä (1525~1569年)が1562年に描いた”Der Triumph des Todes” (死神の勝利)(スペインMadrid 市Museo del Prado所蔵)を紹介する。

此の作品では風景パノラマ形式の中で死神が数多くの人間を冥界へと連れ去ろうとする場面が当時の風俗を写実的に細密技法で描かれている。

空は黒ずみ(不安の象徴)、背景の海では沈み往く船(没落の象徴)が描かれ、町は大火災(社会の崩壊の象徴)に包まれている。

中間景には複数の死刑台が立ち、前景では多数の死体が転がり、生きている人間達も武器(刀、大鎌、槍、斧、等)を持った骸骨(死神)の軍団に襲撃されている。

其の中には様々な社会階層、即ち上から国王、貴族、修道士、そしてあらゆる民間人、並びに様々な世代の人間が描かれている。

死の軍団の前に屈服する者、逃げる者、冥界の入口へ駆逐される者、又は抵抗する者、等、描かれている群衆の態度も様々である。

次に紹介するのはスイスBasel市のHistorisches Museum(歴史博物館)に所蔵される “Totentanz”(死の舞踏)(1806年)である。

此の作品の原画は1439~40年に同市の牧師修道院の壁画として描かれていたのだが、1805年に破壊されてしまった。

そこで翌年、画家J.R.Feyerabendによって水彩絵の具で復元されている。

此の絵は5段に分割され、前記のBruegelの作品と同様に様々な社会階層、職業(39種類)の人間達、即ち、聖職者ではPabst(ローマ法王)、Kardinal(枢機卿)、Bischof(僧正)、Abt(修道院長)、

王侯貴族ではKaiser(皇帝)、König(国王)、Herzog(公爵)、Grafen(伯爵)、Ritter(騎士)、

民間ではJulisten(裁判官)、Rathherrn(議会員)、Schultheiss(町長)、Kaufmann(商人)、Krämer(雑貨屋)、Narren(道化)、Koch(料理人)、Bauer(百姓)、Kirbenpfeifer(祭典ラッパ吹き)、Maler(画家)、Wucherer(高利貸)、 其の他Jüngling(青年)、Jungfrau(処女)、身体障害者、Heiden(異教徒)までもが皆骸骨によって「死の舞踏」へと誘われている。

 

これ等の2点の絵画はいずれも人間誰しも死から逃れる事も、打ち勝つ事も出来ないと言う事を象徴している。

そして人間界に於ける名誉、地位、権力、財産も全て死によって失い、冥界へはいずれも持って行けない事をも暗示しているのである。

尚、絵画のみならず音楽の分野でもハンガリーのF.Lizt(1811~1886年)やフランスのC.Saint-Saëns(1835~1921年)等が此の「死の舞踏」の主題で作曲している。

「死」と云う課題は16世紀に描かれた絵画から19世紀に作曲された曲、そして同時代の多くの哲学者、宗教学者、医学者によって考察され、様々な意見や思想が提唱されている。

いずれも共通して認めざるを得ないのは、死とは生きとし行ける人間全てが最期に迎えなければならないVerhängnis(宿命)である事である。

其れを踏まえた上で「死を克服するには如何にすべきか?」と考えた御仁も多くいた。

余も同様に考えたが、結局其の答えとは「此の世に自分が生きた証としての偉大なる物事(例:業績、作品、思想)を未来永劫に残し、其れが後世でも作用し続ける事」であると存ずる。

自己満足で完結する様だが、余は自分なりに既に此れを叶えており、我が人生に十分満足し、而も「来世」を肯定する故、「死」によって自分が滅ぼされる事は決して無いと信じているのである。

 

NHK・BSのテレビ番組でコロナウィルス蔓延に耐え忍ぶ現在のイタリアのVenezia市民の今日を報道していた。

当市は17世紀以来、世界的に知られたMilano, Firenze, Siena, Roma, Pisa, Napoli等と並ぶイタリアの代表的観光都市であり、UNESCO世界文化遺産でもある。

意図的に現代文明や近代化を取り入れなかった当市の経済基盤は何と言っても「観光収入」である。

ところがコロナウィルス蔓延によって観光客が激減し、当市名物の2月末から3月初めに開催される”Carnevale di Venezia”までも中止になってしまった。

Luchino Visconti監督の映画“Deth in Venice”(1971年)の中の台詞にも「観光客が来なくなったら此の町は御終いだ。」とある様に、今日は致命的と言う程危機的な状況である。

其れでも多くの市民達は「我々の市は今まで幾度も危機的状況から立ち直って来た。 今回も必ず立ち直れる!」と信じている様である。

悲観主義のイギリス人は今回の世界的なコロナウィルス蔓延に対し>All is over!<(全ては終わった!)と厭世的な考え方をする人が多いらしいが、流石に楽観主義のイタリア人が>Andrà tutto Bene !<(全て上手く行く!)を合い言葉に、希望を持って耐え忍ぶ姿は誠に感動的であった。

本来北ドイツ特有のMelancholisch(憂鬱な)性格の余も此度ばかりは此の合い言葉を信じたい処である。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav   All rights reserved