節分会、我が心に棲む鬼と天狗を如何にすべし、そして我が心の太陽 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

本日2月3日は「節分会」で全国の高名、高位の仏教寺院や神社では、毎年恒例に祈祷及び「豆撒き」等の儀式が執り行われる。
日本では古来より季節の変わり目に邪気(鬼)が生じると考えられ、其れを追い払う為の悪霊払いの行事として受け継がれているのである。
元来此れは平安時代からの宮中行事であったが、次第に庶民にも採り入れられ、寺社でも豆撒きをしたりする様になった。
余は此の日には豆撒きこそしないが、我が家の仏壇に向かい毎年祈祷しているし、天台仏教の書物をほぼ毎日読んで、これ等の中で重要な事柄を書き取ってまでいる。
仏教では人を慈しみ、其の間違いを許す事、又は人の利益になる事を為し、人の禍を取り除く事である「慈悲」 そして、たとえ富貴栄達しても驕り高ぶらない「謙遜」を大事として説き伏せている。
にも拘わらず、余は学べども学べども、願えども願えども、我が心に棲む「鬼」(怒りの象徴)と「天狗」」(高慢の象徴)をなかなか追い出す事が出来ない。
Psychologie(心理学)の観点から自己分析して見ると、これ等の「高慢」と「怒り」は一体どこから起因しているかと言うと、余の"Perfektismus"(完全主義)からなのである。
今までの我が人生の中で、余は一度決心、計画した事は必ず実行、遂行して来たし、欲しいと願った物事は手に入れるまで決して諦めなかった。
並びに余は"Perfektist"(完全主義者)らしく、卓抜した問題解決能力が有る事は、自他共に認めている事である。
要するに人生に於いて大きな「挫折」や「断念」や「敗北」を一度も経験していないのである。
此れは表面上、実に素晴らしく立派で幸せな事に感じられるが、其の反面これ等の人生経験が、余は自分の能力や意思が絶対的な物である、そして自分の思い通りにならない事が許せないと云う、独善的な考え方や人格を形成してしまったのである。 
此れはある意味では大変危うい事で、"Perfektismus"(完全主義)がもたらした弊害であると言える!
かつて此の事について、余は我が母上からも、日本人、ドイツ人の友人達からも「世の中の人や物事がいつも自分の思い通りになる事は無いよ。」と戒められた事がある。
其の時には素直に皆の言葉を有り難く受け入れ反省はして来たが、しかしながら結局の処此の問題を未だ解決出来ない事には慙愧の思いなのである。
以前にも書いた事だが、人間の「性格」は生涯続くので、根本的に変える事は不可能である。
精々出来るのは自分の「考え方」を変える(改める)事なのである。
仏教でもDualismus(二元論)の立場を取っており、人間の心には「善」と「悪」又は「悟り」と「迷い」が共存していると実証している。
「悪」や「迷い」を完全に抹殺する事は出来なくとも、御仏の尊き教えと修行に依って心の中で「善」や「悟り」を養成し保持する事に依って、これ等を封じ込めるべきであると説き伏せている。
故に余は我が心に棲む「鬼」と「天狗」を完全に追い出す事は出来なくても、出来る限り封じ込める事に努めようと思うのである。

鬼と天狗は前記の様にそれぞれ怒りと高慢の象徴とされる一方で、鬼は怪力、天狗は空を飛ぶ等と言った超能力がある事が昔話や伝説の中で語り継がれている。
有名な例を挙げると、「桃太郎」、「一寸法師」、「羅生門の鬼」、そして「今昔物語」の中にも鬼と天狗が出て来る話が20件近く収録されている。

天狗も鬼同様に元来人に禍をもたらす存在とされていたが、洛北の鞍馬山の様に其の地に棲む天狗が牛若丸(後の源義経)に兵法と武術の指南をしたと言う伝説から、以来天狗を神格化している様な地方も見受けられる。

これ等の他にも鬼が超人的な才能を発揮する昔話では、「大工と鬼六」や「鬼の刀鍛冶」等がある。

故に人が驚く程の並外れた才能を持つ人を「鬼才」とか「・・・の鬼」等と表現する事がある。
日本語のみならずドイツ語の表現でも、此の様な才能を持つ人を ”Ungeheuer”(怪物)と表現するのである。
余もドイツの地元Berlin, Brandenburgで芸術活動をしていた頃は、1998年Brandenburg/H市創設1050年記念事業としての我が個展を報道してくれた地元新聞Märkische Allgemeineの記事の中で、新聞記者が余の細密描写について此の表現を使ってくれていた。
本当を言うと、余は個人的には”Ungeheuer”ならぬ”Genie”(天才)と表現してもらいたかったのである。
余の芸術の天性の才能は幼少の頃より自他共に認めていた事ではあるが、ある日余は年が離れた我が従妹に「天才と

”Ungeheuer”(怪物)とはどっちが凄いと思う?」と面白半分に尋ねてみた。
すると彼女は「私は怪物の方が凄いと思う。」と答えた。
其の理由を聞くと、「天才は人間の範囲内の才能、でも怪物は人間の枠を超えた才能だと思う。」との事である。 

(余には彼女の此の言葉が随分と心地良く聞こえた。)

 

本来「怒り」と「高慢」とは他人を寄せ付けない、又は忌み嫌われる「負の要素」である。
仏教では「怒り」とは人の心を「十界」(如来、菩薩、縁覚、声聞、天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)の最下位である地獄の境地に落としめる感情として戒めている。

Hieronymus Bosch: "Die sieben Todsünden" ボス作「7つの大罪」

又、キリスト教では所謂 “Die sieben Hauptsünden “(7つの大罪),昔は"Todsünden"(死の大罪)とも呼ばれた、Stolz(高慢)、Habsucht(貪欲)、Neid(嫉妬)、Zorn(怒り)、Unkeuschheit(姦淫)、Unmäßigkeit(不摂生)、Trägheit(倦怠)の中にも含まれている。


そして後期Stoiker(ストア派)の哲学者Seneca先生(BC.4~AD.65)は其の著書”De Ira”(怒りについて)の中で、「怒りとは短期間の狂気である。怒りに心を占領された者は正気を喪失している。」「此の情念のもたらす結果と害悪に目を向けると、人類にとって如何なる悪疫も、此れ程高くついた試は無い。」「怒りはあらゆる者を、至善至誠の在り方から正反対へと変貌させる。」「怒りは理性に敵対する。理性がある処に怒りは決して生じない。」「最善なのは、怒りの勃発を最初に跳ね付け、まだ種子の内に摘み取り、怒りに陥らない様努める事である。」と教示されている。
しかし「怒り」と「高慢」は幸運にも余の人生や芸術活動に於いては、別の一面で寧ろ「正の要素」として作用してくれたのである。
と言うのは、先ず余の「怒り」は軽薄、杜撰、粗悪、邪悪、卑劣な事に対しては容赦無く発揮されたし、「高慢」は Stolzのもう一つの意味「誇り」に姿を変えて、常に余の精神を支えてくれた御蔭で、今まで自分の才能や作品に関して疑惑や挫折感や敗北感を感じた事はただの一度も無かった。



今日、「節分」に因んで、久し振りに余のAtelier(仕事部屋)の物置の中にしまっている陶器製の鬼と天狗の人形を取り出して見た。
鬼も天狗も肌の色がいずれも余の最愛の色「」なので、ただ「怒り」と「高慢」と言う我が心の負の因子を象徴するのみでなく、色まで余を象徴していると言える。
因みに”Chromatische Psychologie”(色彩心理学)の研究では、「」と云う色は「怒り」や「誇り」を象徴する色で、此の色を好む人は自負心に満ちた支配者的な性格、又は短気で怒り易い性格である事が多いと云う統計を出している。
ところが此れ等の人形は古典の絵巻物に描かれている様な恐ろしい姿ではなく、子供用の玩具の様な可愛らしい姿なのである。
此の鬼と天狗の人形を見て、「我が心に棲む鬼と天狗もこんなに可愛らしい奴らなら、どんなに良かっただろう。」とつくづく思ったのである。
本来なら恐ろしい姿の鬼と天狗でも表現の仕方によっては子供用の玩具の様に可愛らしい姿に出来る。
同様に人間の生き方も其の考え方と心得方を変える事に依って改める事が出来るのである
即ち怒り易い人間が寛容にもなれるし、高慢な人間が謙遜にもなれるし、悲観的な人間が楽天的にもなれるのである。
此の二つの人形は余が普段集めている名門の工房で造られた高価な物では無いが、此の様に余の心を戒め、そして啓示してくれる大事な役割をしてくれている。
そう言う意味で余個人には存在価値のある人形なのである。


2月27日、毎朝の如く我が家の仏壇の本尊・大日如来様に向かって祈りを捧げていると、不思議な事に我が心の中で次の言葉が響いた。
「御前が怒るのは心に鬼や魔が居るからではありません。 心の火が大きく熱くなり過ぎているからなのです。 火は大きく熱過ぎると、人を傷付けたり殺める事もあります。 人を暖め助けられる様に心の火を調整しなさい。」
(現代人にとっては誠に迷信染みた事を書く様だが、)此の言葉は自分で閃いたのではなく、余はあたかも大日如来様からの御啓示の様に思えるのである。

余は元来、存在が確認もされていない様な「神」は信じないのだが、「大日如来」=「太陽」なので、実在する「太陽」は古代よりある"Sonnenkult"(太陽崇拝)の如く、地球以外の「太陽系」の全ての惑星を照らし、守ってくれる絶対的存在として崇拝する価値があるのである。
「我怒れる時も、憂える時も、拝すれば常に笑顔で我を迎え、無量にして不滅の光にて、我が心を照らす大日如来(様)」
我が家の仏壇の本尊である大日如来様は余にとって此の様な大変尊き有り難き存在なのである。
屋外に出た時、空を見上げて太陽(大日如来様)に向かって改めて感謝して合掌しておいた。
文学作家・山本有三先生の名作逸話集「心に太陽を持て」(1935年)の如く、余も此の様に心に太陽がある事は誠に幸せであると思えるのである。

因みに此の本の題名はドイツの抒情詩人Cäsar Flaischlen (1864~1920)の代表作"Hab Sonne im Herzen"を和訳した物である。 此の抒情詩の原文は以下の通りである。

Hab Sonne im Herzen, ob s stürmt oder schneit, ob s der Himmel voll Wolken, die Erde voll Streit!
Hab Sonne im Herzen, dann komme, was mag! 

das leuchtet voll Licht dir den dunkelsten Tag!
Hab ein Lied auf den Lippen, mit fröhlichem Klangund macht auch des Alltags Gedränge dich bang!
Hab ein Lied auf den Lippen,
dann komme, was mag! das hilft dir verwinden den einsamsten Tag!
Hab ein Wort auch für Andre in Sorg und in Pein
und sag,  was dich selber so frohgemut läßt sein:
Hab ein Lied auf den Lippen, verlier nie den Mut,
hab Sonne im Herzen, und Alles wird gut!

和訳:
心に太陽を持て、たとえ嵐の時も、雪降る時も、天が雲だらけの時も、地上では争いだらけであろうとも!
心に太陽を持て、さすれば君の好きな事がやって来る!

一杯の光で最も暗い日でも君を照らしてくれる!
唇に歌を持て、楽しい響きが君を不安にする毎日の混乱をも楽しくするだろう。
唇に歌を持て、さすれば君の好きな事がやって来る!

其れは君が孤独な日を克服するのを助けてくれる!
言葉を持て、心配や苦痛を抱える他人の為に、そして言え、

何が自分をかくも愉快な気持ちにさせるかを。
唇に歌を持て、決して勇気を失うな、心に太陽を持て、

さすれば全ての事が良くなるだろう!

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