安全保障関連法案改正への考えと、其れに対する集団心理 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

衆参両院で絶対的多数を有する自民、公明両党の目指す安全保障関連法案改正に対する国民の反応を個人として観察して来た。
ヨーロッパの一国(ドイツ)に足掛け13年住んで、大学で心理学も学んでいる者として、安保法案改正への反対デモに参加する連中を見ていて、ある事に気付いた。
其れはこの連中の大部分が自分の生活(人生)に何らかの不満を抱えているという事である。
(例:仕事、経済、家庭、人間関係、其の他)
自分の生活(人生)が上手く行っていないのは、社会のせいだ、とどの詰まりは政府のせいだと、所謂「理論のすり替え」(逆恨み)をしている様に見受けられる。
又、普段社会での自分の存在感が希薄な故、こんな時に徒党を組んで「自己顕示」をしようとしている心理も読み取る事が出来る。
大抵の人間には、人だかりのある所に何があるのか、好奇心を持って近付く習性がある。
其れによって集まった群衆は、往々にして感情的になっていて、理性的な思考が出来ていないのである。
(そこへデマが流れ込むと、一気に動揺、又は混乱する危険がある。)

因みにドイツ語のPöbelと云う単語のDeutsches Wörterbuch(ドイツ国語辞典)による説明を直訳すると、<無教養で、凡庸で、粗雑な人、考え方や行いが低級で、自分に原因、動機を持たず、同じ感覚を持つ人々と集団を形成して、社会で愚行や暴動を起こす人。>とある。 之を独和辞典では「下層庶民」「愚民」「賤民」と訳している。
見下した言い方ではあるが、この様な無意味で筋の通らない反対デモに参加する者共に相応しい表現であると思われてならない。
彼らはさながら昔のチンドン屋の如く「戦争反対!」と絶叫しているが、安保法案改正を戦争と直結させると言う単調な思考回路が余には理解出来ない。
(彼らの一部は腐れ外道の左翼に洗脳されているか、又は端金で雇われている「操り人形」との噂すらある。)
又、其れを負け組の野党とヨタ芸人風情が、国会の前で(少しでも注目、支持を得る魂胆で)愚かな下層庶民の落ちこぼれ共を煽り立てているのが滑稽でならない!
(此れこそ正に「国会前の「反政府チンドン屋全国大会」である。)
彼らは「井の中の蛙大海を知らず」の如く、自分の近辺の事しか考えが及ばない様である。

いつ総理や政府代表がどこかの国に対し宣戦布告するだの、侵略すると宣言したか?
唯でさえ利に敏い政治家が、国益にならない戦争に安易に自衛隊を参加させる訳が無い。
そんな事をすれば、自分達が国民の信頼、支持を失い失脚するだけではないか。
今回の戦争反対デモを民間の小事に譬えるなら、ある刀剣収集家が、教育委員会に届け出している刀を新調したり、研ぎ直しただけで、近所の住人達が「殺人反対!」と騒ぎ立てるのに似たりである。
政府与党も自ら認めている様に、まだ安保法案改正の意義と正当性は十分に国民に説明されていない。
しかし、此の法案改正が正しい事は確かだと言える。
何故なら今日の様に情報が国外へも即座に伝達する時代なら、もし此の日本政府の決断が間違っているなら、世界中から非難がある筈である。
実際の処アメリカを始め、NATOに加盟しているヨーロッパ諸国、カナダ、オーストラリア、そして日本に近いアジア諸国(中国、南北チョン国を除く)の殆ど全てが今回の日本政府による安保法案改正を歓迎しているのである。
(一部の「国賊放送局」は中国、南チョン国の意見だけ放送して、其の他の国々の友好な意見をひた隠しにすると云う、反日的な左巻きの偏った報道をしている。)

最近のチャンコロの漁船団の度重なる日本領海への不法侵入、南チョン国の竹島不法占拠、糞ロシアの北方領土支配の強化、等といった日本領土、領海への(穏やかな)侵略行為が繰り返されるのも、これらの国が「日本は武器を使わない侵略なら、何ら毅然とした対処は出来ないだろう。」とたかを括っているからなのである。
このままでは相手は更に付け上がるので、いい加減に歯止めを掛けなければならない!
三度、民間の小事に譬えるなら、ある裕福な日本人の家の隣に在日チョンが住み付いて、其の家の木の実を取っては盗み食いを繰り返していたとする。
其れを叱りもせず(警察に)通報もせずに放置していたらどうなるであろうか?
在日チョンは次に隣の日本人の留守を狙って空き巣に入る可能性が極めて大である。
(チョンは盗癖、虚言癖があり、道徳、法規を軽視する事は明治時代から言い伝えられている。)

第二次世界大戦中、日本の同盟国として圧倒的な数の連合国相手に戦い、「運命共同体」の如く最後に敗戦して甚大な被害を蒙り、そこから奇跡的な早期復興を遂げて、今や世界屈指の経済大国となっているドイツでも、戦後以来Bundesverfassung(ドイツ連邦国憲法)を58回も改正しているのである。
「打つ手は状況によって変わる。」と云う格言を正に実践している例である。
今日の様に国際化した社会では、自国の事だけ考えている様では、世の中の真の現状を正しく把握出来ない。
其れ故に日本の立場だけでなく、国際的な立場で物事を思慮、判断するべきである!
黒澤明監督の映画「七人の侍」の中の台詞に「人を守ってこそ自分を守れる。自分の事ばかり考える奴は己をも滅ぼす奴だ。」と言うのがある。
今まで安保法案改正へ反対を唱えている者共には相当応える言葉ではなかろうか。
自分と自分の家族だけ安全であればそれで良いと云うのは一種のEgoismus(利己主義)である。
国家の平和の元に個人の平和が初めて存在する事を一番に認識しておかなければならない!

安全保障関連法案は17日午後4時半、やや遅れはあったものの、政府与党の予定通り参議院特別委員会で可決された。
引き続き、参議院で18日夕刻から安保法案改正に関する討論が夜通し行われ、日付変わって19日の午前2時15分過ぎて自民、公明其の他3党の賛成によってやっと可決された。
先ずは国の重要事項一件落着と云った処である。
にも拘わらず、最後まで醜態を晒して惨敗した野党も、国会の外にたむろする「反政府チンドン屋集団」までも、まだ虚しい抵抗を続けると宣言している。
(実際の処、彼らはインターネット上で政府与党支持者達から嘲笑、軽蔑されている。)
諺の「恥の上塗り」「負け犬の遠吠え」とは正にこの事であろう。
前記の様に人生に確固たる目的も希望も無く、ただ不満しかない者共には、この程度の事しか出来ないのだろうかと、余計に哀れに思えるのである。
諺の「下手な考え休むに似たり」の如く、無駄な努力を続けた処で何の実も結ぶ事は無い。
園芸に譬えれば、完全に立ち枯れした(死んだ)木に水や肥料をやり続けるに似たりである。
それどころか、これ以上政府に対して無駄な抵抗をしていると、終いには「反社会分子」として警察にマークされるか、愛国主義の日本国民から「非国民」呼ばわりされるのが落ちである。

心理学的に分析すると、彼らが全く勝ち目の無い争いを続けるのは、自分達がして来た事が、無意味、無価値になる事を恐れているからである。
又、人間は誰しも他人から認められてたいと云う「承認欲求」があるので、誰かが認めてくれる事を期待しているからである。
ところが其の可能性が全く無くなってしまった途端、断念、降伏してしまうのである。
要するに彼らの行いが無意味、無価値である事を思い知らせれば、こんな騒動はすぐ解決する。
人間の心理とは面白い物で、最初は賛成、同意出来なくても、一旦集団で共通に決められた事には順応して行くのである。 

最近の例を挙げれば「消費税率引き上げ」がそうではないか。
イギリスのW.Shakespeareの戯曲"Othello"の中に「過ぎ去った不幸(失敗)を嘆くのは、すぐまた新しい不幸(失敗)を招く元です。」とある様に、どんなに努力しても実現出来ない事は潔く諦めた方が良い。
そうではなくて、自分自身を見つめ直し、(一度しかない)自分の人生を少しでも良くする様に工夫と努力に励む事、そして自分の能力に応じて社会貢献する事の方が、遥かに賢明で正しい道であると思われる。

ドイツの大文豪J.W.v.Goethe先生が>Man bewertet die Unbekanntheit so zu wenig.<(人間は未知な物事を過小評価する。)と書かれてれている様に、人間は良く分からない物事に対して、拒否したり不安感を抱く傾向がある。
其れ故に政府与党は公約通り、此の安保法案改正の意義や重要性を、国民が納得出来る様に説明して行く必要がある。



※一つ付け加えて置くと、余の思想、立場は根本的に完全な「右」であるが、だからと言って政府与党の政策に全て賛成している訳ではない。
例えば、消費税率10%引き上げに関しては、全ての飲食料品は軽減税率5%に還元する事が望ましいと思うし、原子力発電再開に関しては断固徹底的に反対であり、其の代用手段として「海洋発電」(水力発電の一種)を提唱している。
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2016年2月の追伸: 

戦後生まれの政治家の人格、素質の劣化について

最近、国会討論に於ける与党自民党議員の失言、問題発言、醜聞が続出し、其の言葉尻を捕らえて弱小野党議員が追及すると云う、所謂「あら探し合戦」まで成り下がった浅ましき状況が目立つ。
自民党は与党として軽率にも、議員になる素質、資格共に欠落した自己顕示欲と金銭欲のみ旺盛なド下衆の成り上がり者、元ヨタ芸人風情を議員候補として擁立し、其の者共を無知、無教養な愚民共が投票して当選させ、数だけの議席を確保する有様である。
最近の自民党を見ていると、衆参両院で絶対多数を確保している事に慢心しているとしか思えないのである。
一方、各野党の負け組共も自民党の悪口を言うだけで、何ら政治上の良策も持っていないのである。
此の様な与野党両方の体たらくを見て、(一部の智恵のある)国民はこれ等のお粗末な政治屋共が国家を乗っ取り、国税を食い物にして、国民を愚弄している事に憤激、又は幻滅しているのが、ウェブ上の最近の世論や国民の意見から如実に読み取れる。
本来、国会とは国家の発展、安泰、並びに国民の生活の向上、利益を実現する為に話し合いをする場所なのである!
そして政治、経済、法律を専門で学んでいない素人を議員として擁立してはいけないのである。
(かつての大日本帝国時代は、此の様な事は常識であった。)
今の政治家共は今一度、此の行政の原点を再認識し、そこへ回帰すべきではなかろうか。
今日戦後生まれの政治家ばかりになって、戦前生まれの政治家に比べて彼等の人格や素質、そして洞察力の甚だしき劣化には呆れてしまうのである。


美術史を学んでいる芸術家の余としては、今日の日本の行政は、Renaissance時代のスイス文学作家Sebastian Brantの物語を元に同時代のNederland(現オランダ)の画家Hieronymus Bosch(1450~1516年)の描いた名作“Der Narren schiff”

(愚か者の船)を思い起こしてしまうのである。
民衆の堕落と社会の腐敗を象徴する此の船の末路は、当然の如く座礁か沈没かのいずれかである。
実に嘆かわしき事ではあるが、此のお粗末な状況を改善するのは最早不可能とまで思えるのである。

こう云う時に余が度々好例として引き合いに出すのが明治時代の政治家達である。
彼らは江戸時代の鎖国に依って文明の立ち遅れた日本を、欧米列強に対抗出来るまでの近代国家に作り変える事に「熱意」を以って粉骨砕身の「努力」を費やした。
そして18世紀終わりの"Industrial Revolution"(産業革命)以来、欧米諸国が約100年かけて成し遂げた近代化を、僅か40年足らずで見事に実現したのであった!
(此の「実行力」には欧米諸国の政治家、学者達も驚嘆している。)
其の一方で、当時の(島国としての)日本の国力の限界を認識していたので、「慎みの精神」をも併せ持っていたのである。
此の様に、「奉仕・貢献の精神」を以って私利、党利を忘れて、国家と国民の為に有益な政治を成し遂げた明治時代の政治家達は尊敬も信頼も出来る御歴々であった。
余は士族出身者として今日の政治屋共にはとうに幻滅して、当時の政治家達、「貴族院」の存在にただ憧れるばかりである。

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