天台宗開設記念日と最澄大師の御教え、及び仏教伝道協会刊行「みちしるべ」 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

 

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大同元年(西暦806年)1月3日、日本天台宗の宗祖、「伝教大師最澄様は朝廷に年分度者(国家公認の僧侶の資格)の配分を天台宗にも付与して貰う事を願い出られた。
そして早くも1月26日に時の帝、桓武天皇より勅許が下され、此れによりて日本天台宗は待望の開宗を達成したのである。
其の為此の日は現在に至っても「天台宗開設記念日」として総本山・比叡山延暦寺、長等山園城寺(三井寺)や大津市と京都の天台宗門跡寺院{滋賀院、青蓮院、妙法院(三十三間堂)、曼殊院、三千院、そして出雲寺(毘沙門堂)}等を始め、全国の天台別格本山の寺院では祝典の行事が毎年の様に行われている。

                     比叡山延暦寺・根本中堂

                        比叡山延暦寺・旧・大講堂

                                 滋賀院門跡

                          長等山園城寺(三井寺)

                           妙法院(三十三間堂)

                                    青蓮院

                                     曼殊院

                             出雲寺(毘沙門堂)
我が家の菩提寺である祈祷山・成願寺では何せ田舎故に、檀家の連中は其の様な記念日すら無頓着なので、特に祝典行事は無いのだが、余は個人的に毎年此の記念日には菩提寺を参拝し、親友の甘露和尚と仏教について、世の中のあり方、人の生き方、其の他色々と語り合っている。

余は昨年11月から今年の1月5日まで続いた我が個展を無事終えて、最近では先送りにしていた雑事に追われる毎日であるが、其の合間に1月11日には京都にて前記の妙法院と聖護院と京都国立近代美術館にて企画展「皇室の名品」と同市美術館を訪ねて、明治初期から昭和初期にかけて究極の技術によって制作され、皇室に献上された美術工芸品の名品、傑作を鑑賞して来た。


そしていつもの如く1月26日には我が家の菩提寺を訪ね、いつもの如く親友の甘露和尚と色々と語り合って来た。
やはり寺院参拝は街中の喧騒な日常生活を一時忘れさせてくれて、心が和む思いである。
以前の我が随筆にも幾度か書き記して来たが、現代の生活に於いて人々は怒涛の如く溢れる情報に翻弄され続け、周囲の人間の事ばかり気にしている傾向にある。
しかし時にはそこから自らを逸脱させて、自分自身を見詰め直す、自分自身に問い質す事をする必要があるのではなかろうか。
因みに天台宗の重要な記念日として「伝教大師降誕会」(でんぎょうだいしごうたんえ)は旧暦の8月18日とされているが、此の日を新暦、即ち今日の世界共通の「太陽暦」に換算すると今日9月15日なのである。
詰まり最澄大師の御誕生日は西洋占星術では「乙女座」とと云う事になる。
そこで余は8月18日のみならず、太陽暦を重んじて9月15日にも仏壇の最澄大師像に向かって、「伝教大師和讃」を読み上げている。

古来、僧侶の本質的役割とは仏の教えを衆生(世の中の人々)に布教する事によって、彼らの人生の為になる良き事を教え諭す事(此れを仏教用語では「」)、並びに彼らの心の苦しみを取り除いてやる事(此れを仏教用語では「」)であった。
又、其れ等の「慈悲」の教えと行為は無報酬、無所得で為されるのが基本であった。
(此の事は、釈尊(お釈迦様)も最澄大師も、道元禅師(曹洞宗の開祖)も同様に提唱しておられる。)
にも拘らず最近の一部の坊主共は葬式や法事やお盆の時に檀家を訪ねて訳の分からん経だけ上げて、信者達に仏の教えもころくに説きもせず、ただ御布施だけ貰って、「はい、さようなら。」と言った所謂「形式仏教」を採っている。
最も悪質なのは「不浄土真宗」の糞坊主共で御布施の金額を決めて、貧困層からも大量の金銭を巻き上げ、税金も払わず巻き上げた金銭を己等の贅沢、道楽、遊興に使い込むにまで堕落している、見下げ果てた嘆かわしき現状である。
因みに不浄土真宗が鎌倉時代に開宗された頃には、比叡山のみならず当時の朝廷も、鎌倉幕府も此れを「邪教」として弾圧していたし、かの「日蓮宗」の開祖、日蓮上人も「念仏無間」(念仏だけ唱えておればよいと言う不浄土の間違った教えを信じていると無間地獄に堕ちる。)と強烈に批判、警告していた。
又、遠くはヨーロッパに於いてもベルギーでは現在も政府が不浄土真宗を「邪教」として禁止している位である。
呆れた事に此の腐れ外道宗派には「戒律」が無いらしく、此れを社会に喩えるならまるで「無法地帯」の如き物である。
故に当宗派の糞坊主共の起こす不祥事は日本の仏教宗派の中で最多、最悪なのである!
其の他、余が最近読んだ記事によると、真言宗の総本山・高野山金剛峯寺が資金運用に大失敗して、 少なくとも6億9千万円の損失を出しており、其の中には全国の真言宗寺院が檀家より集めた「御布施」まで含まれている事が関係者の話で判明したと言う。
しかし2013年に外部調査委員会は損失額を当初の約6億9600万円から約17億円に訂正して発表した。
此の様な総本山に有るまじき不祥事は、同じ平安時代(9世紀初め)に開設して以来、良き競争相手であった我ら天台宗から見ても残念で嘆かわしいとしか言い様が無い!
こう云う連中は「糞坊主」「生臭坊主」「売僧」(まいす)と罵られても文句は言えないのではなかろうか。
これでは現代人が段々と宗教離れをして行くのも無理は無いと思えて来る。

因みに近年NHKが民間で行った調査によると、仏教に対し良い印象を持っていると答えた人は90%であったのに、寺に対しては25%、僧侶に対しては僅か10%しかいないと云う結果が出ている。
此の様な回答の出た原因として以下の事柄が挙げられる。
・葬式、墓地が事業化している。
・僧侶の長き渡る「世襲制度」により、やる気の弱い坊主が増えている。
・寺や僧侶に対する期待感が少なくなった。
・前記の「形式仏教」や「商売仏教」の方式を採って、最重要の「智恵」や「慈悲」の伴わない坊主が増えている。
これ等の問題を解決するには、何よりも先ず堕落した坊主共の「意識改革」こそが必要なのである!
又、滑稽な事に日本では世界でも筆頭格の先進国であるにも拘わらず、今だに科学的な根拠も無い占いだの迷信だのを信じている愚かな人々(特に女性)がいるのには呆れてしまうのである。
(実際、心理学の調査に於いても女性の方が、男性よりも占いや迷信を信じやすい、即ち騙され易い性質である事が判明している。)
此の様な原始的な傾向を利用して一部の坊主共は「御利益」だの「御陰」だの「厄払い」と云った迷信染みた実利無き事柄を売り物にして、自分達の利益を増やそうとしている事にも感心がいかない。
本来、此れに関しても釈尊(お釈迦様)が「根拠なき占いや迷信を信じてはいけない。其の様な事をすれば人は更に迷うであろう。そうではなく「仏法」(正しい教え)を心の拠所とするが良い。」と宣われている通り、此の御言葉こそが本来の仏の教えであり、僧侶の正しき姿勢なのではなかろうか!

だからと言ってこれ等は一部の「駄目坊主」の事であって、まだまだ「三宝」と称される仏、法(仏の教え)、僧には信仰(信じる)、帰依(頼る)するだけの価値は十分ある!
幸いに我らの天台宗は所謂「四種相承」即ち、「円教」=法華経の教え、「密教」、「大菩薩戒」、「」を実践するだけあって、僧侶の方々は流石に日本の宗派の中で最も多くの分野で学習し、最も厳しき修業を積んで来られた筋金入りの御坊様だけあって、余が知る限りでは何の不祥事も無く、仏に仕えられ衆生の為に勤められている様子である。
(我が家が天台宗に属している上、余が当宗の御坊様に大層御世話になっている故、贔屓している面もあるのだが・・・)

天台宗の概要について解説すると、当宗派は元来、中国、南北朝時代に「天台大師」こと智顗様(538~597年)によって開設された大乗仏教の一派である。
其れまで当時の中国で多種多様な経典や其れに基づく仏教思想が雑然と存在する中、智顗大師は「法華経」を最高位とし、「般若経」「華厳経」「涅槃経」その他の「原始仏典」を融合させ、更に「禅」を加えた所謂「総合仏教」を確立せられた。
智顗大師の記された「法華文句」「法華玄義」「摩訶止観」は「天台三大経典」とされ、今日まで教え伝えられている。
それから、2世紀後の日本の奈良時代、当時の「南都仏教」(奈良仏教)の自分達の権力の安泰ばかり求める体制に対し、最澄大師(767~822年)は疑問を抱き、衆生(一般の人々)を救済すると云う、釈尊の御教えの原点に回帰する理想を掲げられ、「南都仏教」に反旗を翻し、日本に新しい「大乗仏教」を伝教する事を御決意し、794年、比叡山に籠山し「一乗止観院」(現在の延暦寺・根本中堂の基礎)を建立し、天台仏教の本拠地として学業、修業を続けられた。
更に804年、天台仏教を更に詳しく学ぶ為に唐に留学され、台州の天台山・国清寺、修禅寺等で天台高僧に学び、多数の経典を日本に持ち帰り、更なる日本国内における天台仏教の伝教、普及に努められた。
此の我ら天台宗の開祖・最澄大師の御教えは以下の通りである。

全ての者には「仏性」が存在する
「仏性」は後天的に獲得される物ではなく、其の種は生まれながらにして万人の心に備わっていて、人が此れに気付き、其れを如何に育てるかによって、「善」と「幸福」と「悟り」への道が開かれて行く事を宣言された。
原始仏教では所謂「中道説」即ち人は生まれながらにして善に非ず、悪に非ず、又、中国天台宗でも人は「迷い」と「悟り」を共有しており、正しい教えを学ぶ事によって初めて「善人」に成れると唱えている。
因みにキリスト教では「性悪説」を提唱しているのに対し、此の最澄大師の思想は寧ろ「性善説」の部類と解釈するべきであろう。
それでも「即身成仏」(人間が現世で生きたまま仏になる事)は不可能とされ、あくまで人間は仏の教えを学び、其の精神に近付く事が最上であるとされた。

悟りに至る方法を万人に公開された
仏教には八万四千もの教えがあると伝えられるが、これ等は異なる悟りを得る教えではなく、全ては釈尊と同じ悟りに至る方法の一つである。
例えば仏事の座禅、念仏、護摩供、巡礼、写経、更に広義には古典芸能、芸術、学問、スポーツ等、方法は様々で良く、そこに努力を続け(精進)、真実を探し求める心(道心)があれば、其れが悟りに至る道である。
日常の生活にすら其れと同様の事が言える。(四種三昧の修行)
「天台仏教」は各仏教学、宗派の中でも特に学術的な性質が強く、仏の教えを論理的、且つ合理的に学習、考察するので「天台哲学」とまで称される位である。
そして儀式や迷信よりも教門(理論)と観門(実践)に重点を置く現実肯定の立場を採っている。

一隅を照らす
最澄大師の著書「山家学生式」(さんげがくしょうしき)の中の名言
「国宝とは何物ぞ、宝とは道心也。道心有る人を名付けて国宝と為す。
故に故人曰く径寸(一寸の宝石)十枚、此れ国宝にあらず。一隅を照らす、此れ即ち国宝也。(途中略)
即ち道心ある仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。
悪事(都合の悪き事)を己に迎え、好事(都合の良い事)を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極み也。」
心の中で仏性を育て上げた人達が手を繋ぎ合って暮らす社会は正に仏の世界其の物である。
その様な世界の実現を目指し天台宗は「一隅を照らす」運動を勧めている。
先ず自分自身が一隅(自分がいる環境)にて輝いた存在となれば、其の輝きが周りも照らす事になる。
一人一人が輝き合い、手を繋ぐ事が出来れば素晴らしい世界が成り立つと信じる。

次に、最近余が毎朝読んでいる仏教の書籍について紹介する事になる。
其の書籍とは公益財団法人・仏教伝道協会(東京都港区芝4-3-14 http://www.bdk.or.jp/)によって毎年発行されている「みちしるべ」である。
この書籍は当協会が昭和48年(1973年)に最初に発行した「仏教聖典」に続きシリーズ毎に発行されている。
現時点で当シリーズは「みちしるべ」(縁、徳、見、行、心、教)、新・「みちしるべ」(ちえ、はたらき、はげみ、みとおし、しりかた、ときかた、はなしかた、たもちかた、ききかた、おさめ)、新々「みちしるべ」(おしえ、どうり、こころ、なさけ、さとり、しあわせ、みちびき、てらす、おもい)と刊行されている。
これらの書籍は仏教の専門知識の無い一般人達にも分かり易い平易な文章によって、あらゆる仏教聖典からの逸話、寓話、経典を日本語訳した物と、現代社会の説話や執筆者の僧侶の思想や体験談を交えて綴られている。
金儲けや出世ばかりに躍起になって、人間として本来認識しておかねばならない、人徳、美徳、道徳などの本来の「徳」の意味について疎かになってしまいがちの現代人にとって、釈尊お釈迦様)の唱えられた「八正道」(正しい見方、正しい言葉、正しい思い、正しい心、正しい行い、正しい生活、正しい努力、そして正しい精神安定)を元に人間としての正しいあり方について示してくれている有り難き書物であるので、購読を御奨めする次第である。
我が家の菩提寺の様に、全国の一部の寺院では此の書籍を檀家に(無料で)配布してくれる所もあるし、仏教伝道協会に注文して直接購入する手もある。
尚、1980年代以前に発行された古い巻は当協会にも流石に在庫が無いので、全国の古書店にて探すしかない。 全国の古書店の検索サイトは以下の物を御薦めする。

日本の古本屋:http://www.kosho.or.jp/servlet/top
本と文化の街、スーパー源氏:https://www.supergenji.jp/

そもそも宗教とは「正しい教え」によって人々を正しい道に導く学問なのであって、形式だけ整えて、本質的な教義、意義が欠落しているのでは、無意味、無価値な存在に成り下がってしまうのである。
増して信者達から金銭を巻き上げる事によってのみ成立している宗教団体なら、所謂「洗脳詐欺」としか言い様がない。
故に宗教に関心を持つ人達も、該当する宗教が果たして正しいのか、間違っているのかを自ら考慮、判断、評定する必要があるのである。

かの一休禅師の頓智話に「此の世の中で最も価値があって、同時に最も価値が無い物は何か?」と云う質問に対し、彼は「其れは人からの忠告だ。忠告とは聞けば何より価値があるが、聞かなければ何の価値も無い。」と答えたとある。
全く仏の教えも此れに同じで、聞けば(学べば)何より価値があるが、聞かなければ(学ばざれば)何の価値も無くなってしまうのである。

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