日本に於ける我が個展、入場者、報道数共に自己新記録を樹立! | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

12月16日、鳴門市ドイツ館に於ける我が個展「ドイツの文化財と童話」は無事終了し、余は17日当館に片付けに行って来た。
今回の我が個展は「国民文化祭・応援事業」として徳島県内そして全国的に大々的に報道された事もあって、何と4112人の入場者を確認出来た事には大変驚き入っている。

(日本の我が個展の入場者数の新記録!)
此れにて2008年から今年までのドイツ館での我が個展の通算入場者数は1万2384人となった!
余も今回は少なくとも2300ないし2500人位は入ってくれると予想していたが、其れを遥かに上回る結果となった!
此の5年間の「芳名録」の書き込みからの統計を取ると、我が個展の地方別入場者の割合は、近畿:40%、四国:36%、関東:8%、残り17%が其の他の地方と外国からである。
中でも流石に地元徳島からの来客は25%を占めており、あくまで机上の計算だが、通算約3000人が来場した事になる。
2012年の徳島県の総人口は78万5495人なので、即ち当県民の250人に1人が既に我が個展に入場した事になる!
参考に余の個展の最高入場者記録は1998年9月5日~10月30日にBrandenburg/H市(人口約7万1534人)の大聖堂にて当市の「1050周年記念事業」として開催した際の(推定で)約1万1000人で、此の記録は未だに自ら破る事が出来ない。(この時は首都Berlin(総人口352万)からの来客が大半を占めていた。)
其の次が2001年12月2日から2002年2月24日にBerlin Mitte Museumにて「Preußen王国300年及び Wedding区750年記念事業」として開催した際の(推定で)約5250人である。
又、余がウェブ上で確認しただけで37件の自治体、財団法人、マスコミ、プロバイダー、其の他の企業、団体が報道してくれていた。(此れ又新記録!)
正直な所、今回の余のグリム童話の絵画集は「挨拶文」にも書いた様に、17歳から21歳にかけて描いた未熟な作品群であるので、鑑賞者達から如何に評価されるか些か気掛かりであった。
しかし、今年が「グリム童話発行200年」である事が功を奏し、「芳名録」の中でもグリム童話に関心を持つ人が多く、幸いにも皆さんに絶賛されるばかりであった。
又、「芳名録」及びドイツ館の職員の話によると、今回の入場者の内訳は地元徳島県から来た人が大半を占めている事から、「局地的勝利」の感は否めない。
いずれにせよ今回の個展は余の(円熟期の)最新作と17歳から21歳にかけて描いた作品が見事に共鳴して得た大勝利であると存じている。
野球にたとえるなら、大ベテランと高卒ルーキーが協同で大量得点をとって圧勝したシリーズと言った感じだろうか。
とは言え「国民文化祭」の好影響、地元徳島の自治体、財団法人、マスコミ、プロバイダー、其の他の企業、団体の協力がここまで余を盛り立ててくれた事に感謝を忘れてはならない。

扨、余は毎年ドイツ館の両側にある四国第一番・霊山寺、第二番・極楽寺に寄っているので、今回は帰路の途上、個展の準備の祭に参拝した四国第三番・金泉寺、第四番・大日寺、第五番・地蔵寺に続き、第六番札所「安楽寺」と「川島城」及び「「川島神社」を訪問して参った。
「川島城」は元々1572年に築かれたのだが、「一国一城令」により1638年に廃城となった。
其の跡地に徳島藩の奉行所が設置され、明治に至るまで存続した。
現在、二の丸跡に1981年に観光用に模擬天守閣「レストハウス川島城」が鉄筋コンクリートで建設されている。
即ち現在の川島城は歴史こそ浅いのだが、あの「徳島城」でさえ1873年(明治6年)に発布された廃城令により存城処分となり、1875年(明治8年)には鷲之門以外の、城内全ての建築物が撤去され現在に至っている位であるから、ある意味で貴重な存在であると考えられる。

話は変わり一方ドイツでは我が友人でPotsdamのRosenweißverein(白薔薇協会)の主任であるS.Radtke氏がHinterpommern地方(現ポーランド領)の首都Stettinの旧・公爵の宮殿にてグループ展を開催している。
因みに余自らも2003年に友人で前Berlin都議会議員のR.Sauter氏と共に此の宮殿を訪問している故、この宮殿が如何に壮麗な建造物であるかは良く存じている。
此のStettin市は元々Bistum(大僧正領)の中心地としてOder河口に設立され、後にPommern公爵領となり、当地のResidenzstadt(領主の宮殿のある都)として栄えた。
Pommern公爵の血族が絶えた後、1720年以来我がPreußen国王FriedrichWilhelmⅠ世陛下によってVorpommern地方と一緒に獲得された。
しかし当市は第二次大戦末期の連合軍のによる大空襲により壊滅的な打撃を受け、宮殿も市諸共破壊された。
戦後、Hinterpommern地方はポーランド領となり、当市も此の宮殿も再建が為されたのだが、戦前のドイツ領であった時代の立派なたたずまいとはかなり違った姿に変貌している。
余は其れを遺憾に思い、ドイツ領であった時代のStettin市の姿と宮殿と市庁舎の計3点描いている。
前回の彼のメールによると、初日で75人の入場者が来たので、週末には更に多くの入場者が見込まれるとの事である。
方や個展、方やグループ展でこそあるが、内心(入場者数では負けたくない。)と思っていたので、今回の数ならまず余に軍配が上がると信じている。

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