平家物語、源平盛衰記、玉葉、公家と京美人について | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

平家物語、八巻(上) 「山門御幸」 寿永二年(1183)七月廿八日、源義仲公、連戦連勝にて平家を都より追い落とし、叔父の源行家と共に御所にて法皇、公卿と対面する。 

(林原美術館 蔵)

余は幼少の頃より親や祖父母や又は親戚より、我が家も親戚も含め『清和源氏』の流れを汲む家柄であると教えられて育った。
あくまで先祖代々の言い伝えであって、物的証拠など無いのだが、源義仲公の妹であり、彼の唯一生き残った身内である『宮菊姫』が住んだ美濃国・遠山荘に、我が家の祖先が同様に起源を有する事、我が家の姓・奥山が源氏系の苗字である事、我が家の家紋『九枚笹』(表示画像参照)が美濃国に多く見られる『清和源氏』の代表紋である事、我が家の宗教が「清和源氏」以来の天台宗である事、そして縁組をしている家が皆大名又は上級武士の家柄である事からして、まんざら出鱈目でもないらしい。

故に余は少年時代より『清和源氏』の歴史に関する書物を色々と購入しては読み耽っていた。
近年に発行された図書のみでは満足せず、遂には明治44年(1911)発行の『平家物語・八坂本』(全12巻)と同年発行の『源平盛衰記』(全48巻)、

明治20年(1887)発行の『絵本源平盛衰記』、並びに明治39年(1906)発行の九条兼実公の『玉葉』(全66巻)、

そして明治41年~43年(1908~1910)発行の『平家物語・講義』(全6巻)を全て所蔵するにまで至った。

 

平家物語』は1180年の後白河法皇の皇子・以仁王による平家追討の呼び掛けから、1185年に壇之浦の合戦で平氏が滅亡するまでの6年間、所謂「源平合戦」が終了した後の鎌倉時代初期に成立したとされる軍記物語である。

天皇と公家を中心とした院政から武士団が台頭して行く過渡期、そして平家の栄華と源氏との争乱による没落、等を描いた書物であるが、正確な成立年と作者は未だ不明である。
「保元の乱」(1156年)及び「平治の乱」(1159年)に勝利した平家と敗れた源氏の対照的な状況、其の後の立場を逆転させる「源平合戦」の各戦闘のあらまし、及び源氏、平家両方の主な登場人物の心情を描写し、平家の滅亡までを綴った日本の中世の歴史的書物、軍記物、及び古典文学としての代表作である。
源平盛衰記』は『平家物語』を元に更なるに物語を付加した「増補版」である。
1161年から1185年までの約20年の源氏、平家の盛衰興亡を百数十項目に渡って詳しく記述している。
源氏の天下となった鎌倉時代に編集、発行された為、源氏側の観点からの加筆、其の他本筋の「源平合戦」から外れた挿話も多々見受けられる。
当然の事ながら其の内容は『平家物語』以上に膨大で長々しく、場合によっては史実から逸脱した記述もある。
故に文学としての価値は『平家物語』に及ばないと見られるが、元来「語り本」として流布した『平家物語』に対し、『源平盛衰記』は読む事に重点を置いた「読み本」としての様々な説話の豊富さから、『平家物語』と共に後世の歴史的考証及び文学芸能にも多大な影響を与えた歴史的書物、軍記物として重要な参考資料であると言える。

此の『平家物語』と『源平盛衰記』は「軍記物」に分類されているが、『玉葉』と大僧正慈円の「愚管抄」と比べると寧ろ文学的な性質が強い。 

即ち物語としての脚色が多いと言う事である。
又、一つの歴史(物語)に関するそれぞれの書物による描写の違い、そして明治時代の註釈を現代の註釈と比較して見る事も面白い。 

例:

*源義仲公が平家7万の大軍に僅か数千騎で大勝利した、有名な「倶利伽羅峠の戦」(1183年5月11日)については『源平盛衰記』では「火牛(かぎゅう)の計」を用いたと記述しているが、其れに対し『平家物語』には其の様な記述は無い。
*『源平盛衰記』では義経の有名な大豪傑の家臣「武蔵坊弁慶」の活躍が描かれているが、『平家物語』の中では彼の名前すら見当たらない。
*現代では義経ばかりが美男子だの英雄だのと過大評価ないし理想化されている傾向があるが、明治時代当時は今程極端ではなく、原典本に可能な限り忠実に描写されている。
寧ろ今日過小評価されている、場合によっては「奇人、変人、悪役」扱いされている『朝日将軍』こと源義仲公がより正当に描かれているのが余としては大変嬉しい!
(※本当の義経は反っ歯の小男だったのに対して、義仲公こそ実に見目麗しき美男の豪傑であった。)
余はブログでも、又ドイツの友人達にも木曽殿の事を"Herzog Yoshinaka von Minamoto"と訳し、勿論英雄として紹介している。

何故なら少しでも義仲公の評価を上げたいからである。



玉葉』は右大臣を20年、摂政を10年歴任した九条兼実公によって1164年(長寛2年)から1200年(正治2年)に至るまでに記された公私共に亘る記録である。
此の平安時代から鎌倉時代への過渡期は、公家による院政から武家政治へと政治体制が変動した激動の時代であり、其の記録内容としては、公家と武士の対立、摂政関白家の動向、宮廷に於ける儀式、世情の見聞、身辺の出来事、等と非常に多彩である。
源平の争乱についても多数の記述があり、平清盛、源義仲、義経、頼朝、等の活躍が写実的に描写されており、公家による伝統文化と武士による新時代の到来が交錯する当時の世の中を適確且つ明快に表現している。
これ等の事から質・量共に公家の日記として、そして平安時代末期から鎌倉時代初期への過渡期を研究する為の歴史的史料として最も重要な文献と認められている。
因みに同時期の1120年代~1149年の間に成立したと推測される『今昔物語』は文学的な性質の強さから寧ろ『玉葉』以上に口語訳されて現代に広まったのだが、如何せん正確な成立年代どころか作者すら不詳である。
此の物語は第一巻から十巻が「唐・天竺部」、第十一巻から廿巻が「本朝仏法部」、第廿一巻から三十一巻が「本朝世俗部」で成り立っており、各巻に短編物語が40話ないしは50話、即ち全巻で約1400話位が収録されている。
どの物語も「今は昔」で始まり、「語り傳えたるとや。」の言葉で締め括る一定の形式で纏められている。
余も昭和43年~44年に発行された原文版を所蔵している。

扨、古の夢物語を書き記す様だが、余が画家として一番描いてみたいのは「公家」(の御子孫)の肖像画である。
前記の通り余は少年時代より「源平合戦」を中心とした平安時代の歴史を記した書物に親しんで来たせいか、当時の文化の中心であった「公卿」の公達に強い憧れがある。
しかし残念ながら未だ一度足りとも「公家」の御子孫に御目通りさせて頂いた事が無い。
(※明治維新の際、公家の御一族が全て天皇陛下に付き従って、東京へ御移りになったと一般的に信じられている事があるが、此れは勘違いで、当時官職に就かれず京都に御残りになられている公家の御一族もおられるのである。)
公家の全盛期は云うまでも無く西暦794年に平城京(奈良)から平安京へ遷都されて以来、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでの1192年まで続いた『平安時代』である。
すでに800年以上が経過している今日でも尚、京都には至る所に公家の文化の名残りを見て取る事が出来る。

例:言葉、伝統芸能、地名、祭り、そして生活の三大要素である「衣、食、住」其の他。
其の様な意味では「公卿」の公達は実に偉大な文化の功績を残したと言える。
最も第二次世界大戦後、所謂「華族制度」が完全に廃止された事によって、かつて「殿上人」と称された公卿の多くは財産没収、破産、断絶等の負い目に遭い、現在其の子孫は庶民同様の生活をしていると言うが、余にはそんな事はどうでも良い。

(我が家ですら昔の「男爵」(爵位第5位)ないしは辛うじて「子爵」(爵位第4位)程度の資産に留まっている。)
他の記事にも書いている様に、余は「帝政時代の遺物」の如きAnachlonist(時代錯誤主義者)なのだから、「公家の御子孫」と云うだけで古典の浪漫を抱くのである。
其れに対し余の(口さがなき)親類の幼馴染に公家様の事を語らせると「あー、あの顔を白塗り仮面にして、歯を真っ黒にして、ド派手な着物を着とった、歌詠みと蹴鞠しか能のねー気持ちの悪りいアホ共の事か!ああ云う奴等が政治をしとったから、ろくな事にならんかったんじゃ!」

「わしには日本の歴史の中で公家ぐらい気持ちの悪い者はおらんのじゃ!」

公家様の御子孫がお聞きになられたら「何と云う無礼な!どこぞの芸能人がやっとる「バカ殿」とはちゃうわ!」と御立腹になられる事であろう。(此の者の無礼の壇、平に御許しを!)
「昔は長者、今は貧者」「昔は奥様、今は口様」「昔の正宗(名刀)、今の菜刀」等と言う諺もあるが、余の考えでは「今の(成り上がりの)金持ち」なんぞより「昔の某(なにがし)」の方が断然尊いのである。
第一もし余が現代人に多い「金の亡者」なら、『絵描き』等と言う殆ど儲けにもならない仕事はしないであろう。
正に中国の諺「豹(又は虎)は死して皮を留め、人は死して名を留む(残す)。」又は余の最も好きなイギリスの諺 "Money does not always mean the happiness"(金がいつも幸せをもたらすとは限らない。)の如くである!
とにかく一度で良いから「お雛様」の如き御尊顔をされた姫様に「十二単」でも御召し頂いて、それを描いてみたい!(今時此の様な夢を抱く者は滅多にいないのではなかろうか?はたまた古典の読み過ぎか?)
因みに清和源氏より伝わる我が家の家紋『九枚笹』は偶然にも「公家」の万理小路(まてのこうじ)家が同じ家紋を持たれているのである。



そう云う訳で余はどうしても「京都贔屓」をしてしまう傾向がある。
そして古より「東男に京女」と言う言葉があるが如く、京都の美人への憧れがある。
因みに生粋の『京都人』の条件として、先祖が五世代以上(約100年以上)前から京都に在住していなければ、京都人として認めてもらえないと言う話を聞いた事がある。
余も其れには同感で、地方から上ってきた「よそ者」や其の子供が京都人の振りをするのは、誠に以って滑稽である。
余が毎年都に上って見た限りでは、京都には他県に比べて明らかに優美な雰囲気の美人が多く見られるのは確かである。(無論、全く該当しない者もいるが.....)
余の個人的な美的感覚に基づく典型的な京美人の特徴として、顔は丸顔が卵型が多く、日本人としては目が大きく、鼻が高く全体的に上品で端正である。
又、京都は土壌が肥沃なので栄養価の高い作物に恵まれている事、及び他県に比べて寒暖の差が激しい事が影響して、女性は身長は低めだが肌のきめが細い餅肌で、Glamour(豊満、又は肉付きの良い)体型の女性が多い。

(余の一番の好みに合う女性像である!)
下ネタ染みた事を書く様だが、ある下着メーカーとマスコミの調査によると、京都女性の平均バストはEカップもあり、日本では我が先祖の発祥地・岐阜県の女性と並んで「巨乳」(又は「爆乳」)の女性の割合が日本一らしい!
其れ故に京都女性の下着にかける費用は日本でも最も多いらしい。
奇妙な表現だが、典型的な京美人とは丁度御当地名物の「京人形」が化粧をせず洋服を着ていると言った感じだろうか、又は世俗的な表現をするなら、「グラビアアイドル系」と言った処だろうか。
即ち典型的な京美人とは和服を着ても、洋服を着ても、下着、水着でも、裸でも美しいのではなかろうか?(全く芸術家にとっては一番有難い人材である!)
とは言うものの「日本の県民性」について書かれた書籍を何冊か読む限りでは、京都人については賛否両論が著しい。 

例:「優しい」「礼儀正しい」「上品」「伝統的」「向上心がある」其れに対し「冷徹」「高慢」「けち」「底意地が悪い」「よそ者嫌い」観光旅行者には親切だが、京都に住む「よそ者」に対しては排他的 等
又、余の大阪の友人は「京都の人は僕らより本音と建前の距離がえらいありますで。」とか「何考えとるか分からへん。」等と言っている。
此れ程賛否両論が著しく且つ複雑な性格の県民と言うのも他に例が無いのではなかろうか?
此の様な事を書いたら「あんた京都びいきやったら何でこんな悪口書くんや?!えー加減にしときや!」と京都人に叱られるかも知れない。(此れはあくまで本からの受け売りなので許して頂きたい。)
しかし芸術と同様に賛否両論が著しいと言うのは、別の表現をすれば「世の中からの興味関心が高い」と言う事なのである。
国宝、文化財及びユネスコ世界遺産を日本で最も多く有する処、そして最も国内及び海外からの観光旅行者の多い所だけに、此れは京都の避けられない運命なのかも知れない。

因みに我が地元で芸術の本拠地である首都Berlin(ベルリン)の市民もドイツ国内で最も賛否両論が著しい。
例: stolzig(誇り高い), gesetzt(落ち着いた), modisch(お洒落な), fremdetolerant(よそ者に寛容), 其れに対し eitel(自惚れた), hochmütig(高慢な), hastig(せっかちな), kühl(冷淡な), raffiniert(擦れっからし), 地元では田舎者を見下し、外へ出ればBerlin自慢をする。等
(余としては地元Berlinの悪口は余り言われたくないのだが.....)

正直な処、余の本来の主題(風景、建築、ファンタジー等)との関係上、そして余が常に室内で製作するので、残念ながら人物を直接描く機会に殆ど恵まれない。
此の様にブログ上で絵画モデルの募集をする等、全くをもって消極的且つ非合理的な方法である事は判っている。(本当はウェブ上の掲示板等も利用するのも一つの手なのだが.....)
第一インターネットによる犯罪が多数横行する今日、此の様な事を書いた処で安易に信頼してもらえる訳が無いのだが、駄目で元々と言う事で取りあえず記載してみる事にした。
もしどなたか典型的な京美人のお方で絵画モデルに御関心をお持ちならば、又はその様なお方を御存知ならば、当ブログ「ホームページ "Kunstmarkt von H.Gustav"の日本語による御案内」 並びに我がホームページ "Kunstmarkt von Heinrich Gustav" http://www.h-gustav.com ページを参照に御覧頂いた上で何卒御連絡又は御紹介頂きたい!
(連絡方法は電話,Fax,E-mail及び手紙のいずれでも可。)
(此れで応募があったら奇跡である! 世の中そんなに甘くはあるまい。)

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