堀江則雄のブログ ユーラシアの風 -4ページ目

堀江則雄のブログ ユーラシアの風

ユーラシアの各地で起きていることについて思っていることを書き連ねる。



シベリア抑留国家賠償裁判の意見書(下)





Ⅳ、日本政府中枢の「労役賠償」方針を具体化した関東軍重要文書

 スターリンは日本政府が無条件降伏を受諾した八月十四日以降も、満州に加えて、サハリン南部、千島列島への軍事侵攻の続行を命じた。一方、日本政府中枢は、ソ連参戦が予想外のことで驚愕しただけでなく、対ソ宣戦布告をしないこと、対ソ外交交渉を継続して対ソ終戦を導くという立場をとった。八月十二日の最高戦争指導会議は、対ソについて「…当分ソ連に対しては宣戦を布告せざるとともに、なし得る限り事態の改善に努むるものとする。…帝国は再び対敵交渉を行うことあり、この際ソ連を米英より分離することに勉む」という方針を決めている。

 大本営は関東軍に「攻撃の準備」を命じただけである。支離滅裂の感があるが、ソ連の中立条約違反を浮き彫りにすること、彼我の戦力差は圧倒的なので、終戦を有利に導くことが優先されたようである。ソ連参戦後も、あくまで対ソ交渉に戦争終結への出口を求めていたことは確かである。ここに、和平条件を定めた「和平交渉の要綱」が日ソ戦争の終結にあたって生きつづけることになったのである。いや、むしろ「要綱」の「労役賠償」方針が具体的に動きだすのである。

 

ソ連は対日参戦によって連合国に加わったが、ソ連軍はマッカーサー総司令官の指揮下にはなかった。ソ連軍とは独自に停戦協議をしなければならなかったのである。とりわけ、ソ連は米英などと違って絶対天皇制に極めて批判的であり、「国体護持」にとってソ連がどう出てくるかは、日本政府中枢がもっとも懸念したことであった。日本政府はポツダム宣言受諾後、中国派遣軍や南方軍には帰還指令を出しながら、関東軍将兵の復員にはソ連と「別途協議すべし」との命令を出している。そして、この対ソ終戦協議のベースに「和平交渉の要綱」がすえられていたのである。

 終戦時に瀬島参謀、朝枝繁春参謀が東京の大本営から満洲の関東軍に派遣されたのは、こうした政府中枢の対ソ方針を関東軍司令部に徹底させ、ソ連極東軍と折衝にあたらせるためだった。つまり、二人は政府中枢・大本営の国家意志を体現して、満州に姿を現したのである。

 八月初めに瀬島参謀は満州入りし、十九日のジャリコーボ停戦実務会談に臨み、さらにソ連極東軍当局と接触を重ねている。瀬島参謀は日本軍将兵について「帰還するまでの間においては、貴軍の経営に協力するごとくお使い願いたい」とする陳情書をソ連極東軍司令部に差し出している。この陳情書も、「要綱」の「労役賠償」という考え方を伝えたものである。

 瀬島参謀は、岡田啓介元首相(義理の叔父)や鈴木内閣の迫水久常書記官長(岡田の娘婿)との姻戚関係から、ソ連を仲介とする和平工作、近衛文麿特使派遣によるソ連に提示する和平条件などを知らされていた可能性が強い。つまり、「要綱」の「労役賠償」が国策であることを踏まえて、ソ連極東軍との交渉、折衝に臨んでいたのである。

 朝枝参謀は、ソ連が参戦した直後の八月十日に関東軍司令部に飛来し、敗戦となって東京に戻ったものの、十九日に満州の関東軍司令部に引き返している。

 朝枝参謀は、大本営の対ソ作戦主任参謀だった。梅津総参謀長の命令と訓令をうけて十九日新京(長春)に到着、二十一日に新京に進軍していたカワーレフ・ザバイカル軍管区司令官、政治部将校フェデンコ中将と会談した。この会談で、朝枝参謀は政府中枢の対ソ降服方針、「労役賠償」の用意があることを伝えたのである。フェデンコ中将から、文書にして提出するよう求められた。

 それをまとめたものが、朝枝参謀による「関東軍方面停戦状況に関する実視報告書」である。この報告書は「第四、今後の処置」のなかで、次のように述べている。

 「既定方針通り、大陸方面に於いては在留邦人及び武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とする」

「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとする

 武装解除後の日本軍将兵の速やかな帰国を要請するどころか、まさに棄兵・棄民の方針である。それをソ連側に申し出たのである。シベリア抑留や満洲残留孤児につながっていくのである。

 この報告書には、関東軍秦総参謀長の二十九日付の所見文書が添付されている。そこでは「全般的に同意なり」と、関東軍としても朝枝大本営参謀の申し出に賛同していることを裏付けている。

 日本軍捕虜の抑留と強制労働を企図していたソ連側にとっては、もってこいの申し出であった。これは、朝枝参謀の単なる思い付き提案ではない。梅津総参謀長という大本営の、そして最高戦争指導会議の訓令に基づいたものである。そこには、「要綱」の和平条件である「労務賠償」という考え方が流れていたのである。

 フェデンコ中将がワシレフスキー総司令官に宛てた八月二十六日付の電報は朝枝参謀との会談について、「朝枝中佐は、梅津将官を長とする参謀本部と日本軍の大方の雰囲気や政策に関して私に報告させて欲しいと頼んだ」と述べている。さらにこの電報では「八月十八日に日本参謀本部は秦将官に電報を打ち、それを自分が直接運び届けた、と朝枝は述べた」、「私(朝枝)の滞在は、ソビエト軍の南下のための軍事的、政治的好条件を準備することと関係している」と述べている。

 もう一つ重視されるべきは、この報告書は八月二十六日の日付になっているが、ここに盛り込まれている考え方は二十一日の新京でのカワーレフ司令官、フェデンコ中将との会談で、朝枝参謀本人からその趣旨がソ連側に伝えられていたことである。

 すなわち、二十三日のスターリンによるシベリア抑留極秘指令の二日前に日本側の棄兵政策が明確にソ連側に伝わっていたことになる。この報告書の内容によって、スターリンがシベリア抑留極秘指令を最終的に決断したとも考えられるが、それを断定する資料はない。だが、少なくともソ連側がこうした日本の申し出に意を強くして、日本軍捕虜のシベリア移送・強制労働がスムーズにいくと判断したことは、容易に推定される。

 さらに八月二十九日には、関東軍総司令部の名前でワシレフスキー元帥(極東軍総司令官)に宛てた報告文書が明らかになっている。これは瀬島龍三参謀が執筆したものである。この報告文書は「お願い」を頻発する卑屈な基調に貫かれているが、次のように日本軍将兵の使役を申し出ている。

 「次は軍人の処置であります。之につきましても当然貴軍に於いて御計画あることと存じまするが、元々満洲に正業を有し家庭を有するもの並びに希望者は満州に止まって貴軍の経営に協力せしめ、其他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存じます。右帰還迄の間に於きましては、極力貴軍の経営に協力する如く御使ひ願ひ度いと思います」

 これは関東軍司令部として、武装解除された日本軍将兵をソ連軍の意のままに使役して結構ですという意味であることは、一目瞭然だ。もちろん、ここではシベリアへの連行・強制労働という具体的な構想は想定されていないが、「貴軍の経営に協力」させるのであるから、すでにシベリア抑留計画を発動させていたソ連側にとっては、持ってこいの申し出であった。日本軍将兵六十数万人のスムーズで整然としたシベリア移送が実現できたのも、この関東軍司令部の「お願い」の結果だったと言える。

終わりに

 敗戦時の在外日本軍のなかで、抑留・強制労働を強いられたのは、ソ連軍に降伏した満洲などの将兵だけである。以上述べたように、その理由は明らかである。スターリンが策定した日本軍将兵の「シベリア抑留」計画に、戦争終結をめぐる日本政府中枢の棄兵政策、「労役賠償」方針がすっぽりとはまっていったからである。

 日ソ両国政府間で個別に策定された戦争終結をめぐる方針が相乗して、「シベリア抑留」という前代未聞の悲劇を生み出したのである。スターリンの「犯罪」を補完した日本政府中枢の責任はきわめて重大である。この日本政府中枢の方針がなければ、スターリンの「シベリア抑留」の具体化は不可能であっただろう。少なくとも、それが大いに阻害されたことは確実である。

 その意味で、「密約」、すなわち「共同謀議」なるものの存在は今のところ実証されていないものの、「シベリア抑留」という「犯罪」の正犯はソ連政府、すなわちスターリンであり、日本政府中枢は従犯であったと言えるだろう。


(おわり)



シベリア国家賠償裁判への意見書(中)



                     堀江則雄




Ⅱ、「要綱」はソ連参戦後も生きていた。


 日本政府は対ソ和平仲介の国策を踏まえて45年7月、ソ連に対し連合国との和平交渉の仲介を求めて近衛・天皇特使のモスクワ派遣を受け入れるよう外交交渉を展開した。東郷外相は佐藤モスクワ大使に、モロトフ外相と会見して、和平交渉仲介のための近衛・天皇特使のモスクワ派遣と会談を受け入れるよう要請することを求めた。

 だが、佐藤大使と会ったロゾフスキー外務次官は、スターリン、モロトフはポツダムに出かけたとして回答を引き延ばした。その間に、ロゾフスキー次官は天皇特使派遣の具体的内容、詳細な情報を求めており、佐藤大使は天皇特使派遣に関する外交文書をロゾフスキー次官に7月13日と7月25日の二度にわたって提出している。

 スターリンがポツダム会談でその文書のコピーをトルーマン米大統領に示したことは、明らかになっている。7月28日の米国、英国、ソ連の首脳会談で次のようなやりとりがあった。



 「スターリン 私は、ソビエト代表団が日本からの新提案を受け取ったことをお知らせしたいと思う…(和平斡旋についての日本の覚書が英文で披露される)。

 この文書には何も新しいことはない。ただ一つ、日本はわれわれに仲介を求めているだけだ。われわれとしては、前回と同じように返事しておこうと思う。

 トルーマン 異議はない

 アトリー 賛成だ。

 スターリン 私が知らせたかったのはこれだけだ。」(「1941-45年 大祖国戦争期の国際会議におけるソ連邦」第四巻)

 

この佐藤大使が提出した新提案の外交文書に加えて、東郷外相・佐藤大使間のこの件に関する数回にわたる往復公電、佐藤大使・ロゾフスキー次官の頻繁な意見交換・交渉もあった。これらのなかで、「要綱」に盛り込まれた和平条件がソ連側に伝わったことは十分に考えられる。少なくとも、そのなかで、労役賠償という和平条件を日本側がもっていることをソ連側が察知したものと思われる。

 ポツダム宣言は七月二十六日に発表されたが、スターリンの署名はなかった。それは戦後処理をめぐる米ソ両国の確執のためにトルーマン米大統領がスターリンを出し抜いたためだが、日本側はソ連抜きの宣言に注目し、ソ連の仲介を頼みとする戦争終結にますます傾いた。佐藤大使はソ連側に天皇特使派遣の回答を繰り返し迫ったが、結局、その回答は、八月八日のモロトフからの対日宣戦布告の手渡しだった。ソ連はこの宣戦布告のなかで、ポツダム宣言への参加を表明したのである。

 

ソ連の対日参戦、つまり日ソ戦争の開始によって、ソ連を仲介とする和平交渉による戦争終結という日本政府中枢の基本方針は完全に破綻した。しかし、「和平交渉の要綱」は生きつづけた。「要綱」は、対米英などへのソ連を仲介とする「和平交渉」の条件であったが、対日参戦によって連合国の一員になったソ連との「和平交渉」の政策原則ともなったのである。そればかりか「要綱」は、対ソ連との終戦・和平交渉で死活的に重要な役割を果たした。

 八月九日に満州三方面から戦端を開いたソ連の対日戦争は、日本政府が八月十四日にポツダム宣言を受諾して「無条件降伏」してからも続行した。ソ連極東軍は満州制圧に加えて、サハリン(樺太)南部、千島列島の制圧へ向けて戦闘行動をつづけた。ソ連軍が色丹、歯舞群島を占領して砲火を収めたのは、日本政府が東京湾のミズリー号上で降伏文書に調印した九月二日より遅れて、実に九月四日であった。このことも重大な意味をもってくる。


 つまり、終戦の日とされる八月十五日以降も、満州の一部、サハリン南部、千島列島では日ソ戦争の戦闘はつづき、両国は戦争状態にあったのである。したがって、戦争状態を終結させる交渉、停戦交渉が必要となり、実際、そうした交渉あるいは日ソ現地軍首脳同士の会談が行われた。その場合、日本側は戦争終結の基本原則であった「和平交渉の要綱」に基づいて交渉・会談に臨んだのである。「要綱」は、日本の降伏後も対ソ交渉で生きていたのである。そして、この短い期間、すなわち日本の降伏表明から日ソ戦争が終結するまでの間に、スターリンのシベリア抑留は発動されたのである。その抑留と労役を容認して、日本軍将兵を差し出す日本政府中枢の方針は、モスクワの公文書館で発掘された関東軍秘密重要文書で明らかになっている。

 この点については、第四項で詳述する。

Ⅲ、スターリンのシベリア抑留の発動



 スターリンによるシベリア抑留のメカニズムは着実に動きだした。満州をほぼ軍事制圧したスターリンは八月二十三日、国家防衛委員会決定「日本軍捕虜五十万人の受け入れ、配置、労働利用について」の極秘指令を出した。この指令によって、日本軍将兵はシベリアを中心とするソ連各地のラーゲリに連行され、過酷な強制労働を強いられることになったのである。

 この指令は、「極東、シベリアの環境下での労働に肉体面で適した日本軍捕虜を五十万人選抜する」として、千人の大隊を構成して各地方ごとに配置される地方名とその捕虜人数、さらに鉄道や採掘、コンビナートなどの労働現場への捕虜配分を詳細に定めている。ソ連側では警護隊三万五千人の増員、建設作業専門将校、医療隊、トラックの派遣、有刺鉄線、大型テントの用意などを盛り込んでいる。きわめて具体的で、詳細な決定である。

 このスターリンの極秘指令によって、日本軍将兵は8月末からぞくぞくシベリア方面に移送され、各地に配置されていったのである。


 ところで、このスターリンの極秘指令は、スターリンがトルーマン米大統領に八月十五日の書簡で、北海道北部(留萌・釧路間より北方)のソ連軍占領を提案したのに対し、トルーマンが八月十八日の書簡で拒否したため、その見返りとして捕虜のシベリア抑留を指令したという説が一部で有力である。そして、ベリア内相が八月十六日ワシレフスキー極東軍総司令官に、「日本軍捕虜をソ連領内に運ぶことはしない。捕虜収容所は日本軍の武装解除の場所に組織されねばならない」と指示していたことを挙げて、これを覆した二十三日のスターリン極秘指令の理由として、北海道北部占領の拒否が挙げられている。

 しかし、これは間違った解釈だ。第一に、スターリン極秘指令は詳細かつ具体的なもので、数日間で作成されるものではない。おそらく、数カ月前からの政府内の協議を経て作成されたものだろう。第二に、スターリンはかねてから捕虜の強制労働を正当なものと見なしていたし、対日戦争では戦利品の一つとして労働を担う捕虜の確保を狙っていたのである。そのための準備もすすめていた。

 例えば、ソ連共産党中央委員会は八月十六日、抑留される日本軍将兵を読者対象とする「日本新聞」(日本語)の発行を決定していた。九月一日に発行開始の予定で、編集部の陣容も決まっていたという。ベリア指令は、当面、日本軍捕虜を現地に留めておけ、という指示にすぎないだろう。

 

 八月二十三日のスターリン極秘指令については、それが発令されるまでに、日本軍・関東軍首脳が現地のソ連極東軍首脳と接触し、シベリア抑留を容認する姿勢を示したことが、重大問題として浮上してくる。

 まず問題にしなければならないのが、八月十九日のジャリコーボでの停戦実務会談である。

 極東軍総司令官ワシレフスキーは司令部を置いていた沿海州のジャリコーボに関東軍秦彦三郎総参謀長と二週間前に大本営から関東軍に派遣されていた瀬島龍三作戦参謀らを呼びつけて、戦闘中止や日本軍の武装解除などについて協議した。この停戦実務会談で、日本軍将兵の使役を申し出たのではないかとの疑惑が以前からあった。


 会談の全貌は明らかではないが、日本側からは居留民の安全・帰国、武装解除後の将校の帯刀などを要望したという。この場では、日本軍将兵の抑留の明確な容認はなかったようだ。だが、この会談では、日本側は武装解除後の日本軍将兵の帰国の方策について、一言も言及しなかった。このことは、日本政府のポツダム宣言受諾をうけての日ソ停戦実務会談だっただけに、重視される。ポツダム宣言第九項の「武装解除後の速やかな帰国」について一切、協議されなかったという事実は、日本軍武装解除後のシベリア抑留・強制労働を既定方針としていたソ連側にとって、日本側がそれを事実上容認していると受け取られるものだった。


 その後の日ソ両国の現地軍首脳の接触・協議でも、関東軍首脳からは、日本軍将兵の帰国問題について提起したことはなかった。この点では一貫しており、この種の協議では敗戦国側から武装解除後の将兵の扱いが提起されるのは通例であり、奇怪なことと言える。その理由はあった。実は、これまで暴露されなかっただけである。

 その謎は、モスクワの公文書館に眠っていた関東軍秘密文書が明らかにすることになる。


(つづく)







多くの悲劇を生んだシベリア抑留の背景には、当時の日本の支配層が戦争終結にあたって米ソ対立の間隙を縫って大陸での日本の戦争力を温存しようとした国策があった。いま一部で議論になっている。その点について、京都地裁でのシベリア国家賠償裁判で筆者が提出した意見書が大いに参考になるだろう。

(2016年3月)




シベリア抑留国家賠償裁判への意見書(上)

        

       堀江則雄

 2009124

はじめに



 六十数万人に長期間の過酷な強制労働を強い、六万数千人の死亡者を出した日本軍将兵の「シベリア抑留」は、戦争捕虜にかかわる国際法とポツダム宣言第九項を踏みにじったスターリンの「犯罪」であった。エリツィン・ロシア大統領が一九九三年の訪日の際に「遺憾の意」を表明しているところである。しかし、この「犯罪」を補完してその遂行を支えたのは、当時の日本政府中枢が戦争終結にあたって採った「国体護持」のための棄兵政策、労役賠償という国策であった。

 本論考は、この点にしぼって問題点を明らかにし、シベリア抑留者への国家賠償が当然であることを浮き彫りにする。

Ⅰ、「国体護持」のための労役賠償と戦時賠償としての「抑留」


 日本の敗戦が色濃くなってくると、当時の日本政府中枢が「国体護持」を戦争終結にあたって絶対に譲られない一線としていたことは、周知の事実である。日本政府中枢は陸軍をはじめ内部に徹底抗戦派を抱えながらも、天皇の統治権や皇室の安泰を保障する「国体護持」を唯一つの条件として戦争終結にあたる方針を収斂していった。

 一九四五年五月八日の同盟国ナチス・ドイツの敗北とともに、危機感を募らせた最高戦争指導会議構成メンバーが会合し、日ソ中立条約を結んでいたソ連に好意的中立の態度をとらせ、ひいてはソ連の仲介による有利な戦争終結を図ることを決めた。それを踏まえて広田弘毅元首相と駐日ソ連大使マーリクとの箱根会談が始まった。この会談交渉は、日本側の終戦条件などの姿勢が明確でなかったこと、ソ連側が慎重な姿勢を貫いたために、結果としては全くの不首尾に終わった。だが、和平交渉でのソ連の仲介という考え方はここから始まり、ソ連参戦まで堅持されたのである。



 ところが一九四五年六月八日、御前会議は本土決戦を建前とする「世界情勢判断及び今後採るべき戦争指導の基本大綱」を承認した。戦争の早期収拾が「国体護持」のためには不可欠と見ていた木戸幸一内大臣は同日、和平の条件を盛り込んだ「時局収拾対策議案」なる文書を起草し、天皇に上奏するとともに、首相、外相、陸海相らの了承を得た。さらに二十二日、天皇は最高戦争指導会議構成員を召集して、この木戸案を戦争終結の方針と決めた。

 この木戸文書は、「皇室の御安泰、国体の護持という至上目的」のためには戦争終結のために果断な手を打つことが絶対に必要であると強調し、天皇の親書を奉じてソ連と交渉し、和平仲介を求めるべきだとしている。親書の簡略な要旨と和平の条件(名誉ある講和、占領地指導の放棄、占領地からの自主的撤兵、最小限度の軍備など)を記している。文書は、これは根本の重大要件に触れているに過ぎず、交渉条件は専門家の修正を必要とすると付記している。(木戸幸一日記)

 この和平条件はきわめて甘いものであるが、「国体護持のためのソ連の仲介による和平交渉」という政府中枢の戦争終結の枠組みが、これによって本格的にスタートしたのである。天皇は七月十二日、親書を携行してソ連に派遣する特使として近衛文麿元首相を指名した。この方針に沿って、近衛は側近とともに、七月十六日にソ連当局に提示すべき「和平交渉の要綱」を作成した。この「要綱」がシベリア抑留問題において重大な意味をもってくる。



 「要綱」は木戸文書を具体化したものである。「要綱」は「国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざること」としたうえで、和平条件を(1)国体及び国土、(2)行政司法、(3)陸海空軍軍備、(4)賠償及び其他、(5)国民生活の五項目にわたって定めている。国土は固有の本土、政治体制は天皇を戴く民本政治、行政は監督をうける、戦争責任者の処分容認、最小限度の兵力保有、完全な武装解除を挙げたうえで、和平条件のなかで次のように述べている。(外務省編「終戦史録」)

 「海外にある軍隊は現地に於いて復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す

 「賠償として、一部の労力を提供することには同意す

 在外軍部隊の一部残留と労役賠償が、和平条件の一つとして明確に盛り込まれていたのである。


ここから、日本政府中枢が戦争終結の手段として、満州など各地の残留日本軍将兵を連合国が抑留し、強制労働させることを容認し、その労力を戦時賠償に充当しようと企図していたことは明らかである。

 まず第一に、「和平交渉の要綱」は、政府中枢が承認した木戸文書「時局収拾対策議案」を敷衍したものであり、政府中枢の戦争終結の国策をまとめたものである。単なる近衛私案でも、特使の文書でもなく、戦争終結をめぐる政府中枢の公式の基本文書であった。しかも政府中枢が承認した唯一つの和平条件であり、ソ連当局に提示することを目的としたものであった。したがって、この「要綱」はソ連参戦後の対ソ交渉でも基本的な考え方、国策として引き継がれていった。

 

第二に、この「要綱」が盛り込んでいる労役賠償という考え方が、ソ連側に伝わっていた可能性が濃いことである。この点は次項で言及する。


 第三に、「要綱」はもちろんシベリア抑留を想定していたとは考えられないが、軍部隊を「現地」に残留させて、労力として提供するという考え方は、ソ連が“捕虜”とした日本軍将兵を直ちに帰還させず、しばらく留め置く、つまり「抑留」することを容易にしたことは間違いない。


 一方、スターリンが対日参戦を日露戦争や日本のシベリア出兵への報復としてかなり前から考えていたこと、一九四五年二月のヤルタ会談で米英両国とナチス・ドイツ敗北後二、三か月で対日参戦することで合意したことは、周知の事実である。サハリン南部の返還、千島列島の引き渡しなど領土拡張が戦利品としてソ連側に約束されていた。

 問題はスターリンが“捕虜”を戦利品の一つと見なしていたことである。スターリンは一九四三年のチャーチル英首相との会談で戦争捕虜を労働力として活用すると言明している。(「チャーチル回想録」)対日参戦で獲得するはずの捕虜をシベリアや中央アジアの開発に労働力として利用することは当然視されていた。いわば、戦利品、戦時賠償の一つとしての日本軍将兵捕虜の労役が考えられていたのである。


 スターリンは対日参戦の準備を着々と行っていた。そして、一九四五年六月二十六日、二十七日対日戦争の準備をめぐってソ連共産党政治局とソ連政府、軍首脳および極東方面軍参謀部がクレムリンで合同会議を開いている。この会議で対日戦争の詳しい最終計画が策定されたが、捕虜問題なども取り上げられたと考えられる。

 こうして、ソ連側では対日参戦、日本軍将兵捕虜の抑留と強制労働のメカニズムが動き出していた。そのなかで、日本政府中枢は在外軍部隊の労役賠償の方針を対ソ交渉の一つとして貫徹していくのである。双方が独自に仕立てたつの道は、戦争終結に向けて次第に交差していくのである。


(つづく)


ロシア・中国・インドの戦略トライアングル

――プリマコフ構想の復活か


 2016年は、ユーラシアの3大国、ロシア、中国、インドの戦略的結束が強まる画期的な年になりそうだ。それはユーラシア、ひいては世界規模の地殻変動をもたらすだろう。

 ユーラシアをゆるやかに束ねる地域協力組織である上海協力機構(SCO)。昨年の首脳会議で、インドの正式加盟がパキスタンとともに承認された。SCO加盟国が6カ国から8カ国に増えただけでなく、これによってロシア・中国・インドの戦略トライアングルにいっそう弾みがつくことになる。

 それは、中央ユーラシアの安定的発展、政治的安定、平和への動きを支えるだろうし、世界経済、地球規模の政治秩序の転換にも役割を果たすだろう。


 SCOは2001年に中ロ両国に中央アジア4カ国で創立され、インドも05年からオブザーバー加盟国だった。それがフルメンバーに昇格したのだ。その創立宣言で、こう強調していた。

 「地域の平和、安全、安定を維持して確保するために共同で努力し、民主的で公正かつ合理的な国際政治・経済の新秩序を構築する」

 国際政治・経済での米国の一極支配から多極世界へという潮流――。ユーラシア3大国の結束が、この方向でいっそう強まることになる。

 BRICSが世界経済のなかで存在感を増しているが、その中核になっているのもこの戦略トライアングルのRICだ。


 実は、ロ・中・印3カ国は05年のウラジオストクでの3カ国外相会談を皮切りに毎年、外相会談を開催し、相互の経済協力、国際政治の各分野、問題での協調や共同歩調について話し合ってきた。それは今年で14回目を迎える。昨年の3カ国外相会談の共同コミュニケはこんなことをうたっていた。

 ●国際関係の民主化、多極化を支持、文明の多様性を尊重●相互の経済協力を拡大、石油・天然ガスの供給で協力●国際テロリズムへの対処についてSCOで協力●イラン、パレスチナ、シリア、ウクライナ問題での協調。

 ほとんど報道されていなかったが、3カ国は世界政治・経済の問題について利害を調整し、共同歩調をめざして着実に努力を続けていたのである。



 ロシアと中国の政治的、経済的連携、ロシアとインドの協調関係は旧ソ連時代からの歴史的なものがあり、今日も友好的関係だ。問題は、国境・領土問題をはらむインド・中国関係だった。

 この間、習主席、モディ首相の相互訪問もあり、カシミール国境問題を現状維持として経済・貿易関係を飛躍的に発展させることになった。

 この中国・インド関係の改善にロシアが助力している。東シベリアの天然ガスをアルタイ・ルートで中国を経由してインドまでパイプラインを敷設することになった。さらにトルクメン→アフガニスタン→パキスタン→インドへのパイプライン建設も開始されている。インドは米国や日本との協力など“全方位外交”とされるが、力点はユーラシアに移っている。


 昨年夏に死去したプリマコフ首相(当時)がNATO拡大、コソボ空爆が焦点になっていた1998年、ロ・中・印の戦略トライアングルを提唱したことがある。今日、その構想がよみがえるのだろうか。


堀江則雄



  ニシンは音鳴りがしてやって来る

 『樺太(サハリン)が宝の島と呼ばれていたころ』

野添憲治著

 1905年から45年までの40年間、サハリンの北緯50度以南が日本領土だったことそして、樺太と呼ばれた植民地だったことは、だれもが知られている。

 昨年夏、筆者は大泊(コルサコフ)、豊原(ユジノサハリンスク)などを訪れたが、樺太庁舎や銀行、製紙パルプ工場など日本ゆかりの建造物があちらこちらに残存していた。だが、この樺太の地で働き、生活を楽しみ、かつ苦しんだ、生きてきた人たちの痕跡はもはや残されていなかった。


 漁業、林業、石炭など資源に恵まれた樺太はかつて「宝の島」、「夢の島」と呼ばれ、財閥系企業が中心になって開発をすすめてきたのだが、その底辺を支えて働いたのは東北や北海道の貧農や失業者だった。出稼ぎ労働であり、日韓併合後は連行された朝鮮人も多く渡ってきた。

 これらの人々についての記録や資料は残っていない。本書は、秋田県出身の18人の聞き書きだ。近代日本の民衆史の貴重な一部といえる。


 冬はエズマツの伐採のためにヤマの飯場で働き、春になるとニシン漁の船に乗る。多くの出稼ぎ者の樺太での生活だ。その一端は――。

 「ニシンが来ると、ずっと向うから音鳴りしてくるのだもの。風が吹くような音がしてくるのだス・・・海の水が温かくなって、色が変わってくるんだス・・・海も浜も様子が一変するわけだスよ」

 「樺太の食べ物は、内地よりよかったスよ・・・酒も凍ってしまうために、これもマサカリで切ったり、くだいたりしてから、ハカリにかけて売ったもんだス」


 出稼ぎで稼ぐカネは内地の2倍以上になったし、うまくいった人は、秋田で家を建てられるほど儲かったという。それが「宝の島」と呼ばれたゆえんである。

 だが、労働の厳しさと激しさは内地の比ではなったらしい。いろんな地方のお役人や財閥系企業の社員たちと社会の底辺を支えた出稼ぎ者との格差は、大きなものがあった。


 樺太に住んでいたロシア人との交流もさまざまだ。そのなかで、横綱・大鵬の家族についての記述も面白い。

 著者も秋田生まれで、出稼ぎ経験者のライターである。


1511月刊行、社会評論社、255p、2100+

堀江則雄