シベリア抑留国家賠償裁判の意見書(下)
Ⅳ、日本政府中枢の「労役賠償」方針を具体化した関東軍重要文書
スターリンは日本政府が無条件降伏を受諾した八月十四日以降も、満州に加えて、サハリン南部、千島列島への軍事侵攻の続行を命じた。一方、日本政府中枢は、ソ連参戦が予想外のことで驚愕しただけでなく、対ソ宣戦布告をしないこと、対ソ外交交渉を継続して対ソ終戦を導くという立場をとった。八月十二日の最高戦争指導会議は、対ソについて「…当分ソ連に対しては宣戦を布告せざるとともに、なし得る限り事態の改善に努むるものとする。…帝国は再び対敵交渉を行うことあり、この際ソ連を米英より分離することに勉む」という方針を決めている。
大本営は関東軍に「攻撃の準備」を命じただけである。支離滅裂の感があるが、ソ連の中立条約違反を浮き彫りにすること、彼我の戦力差は圧倒的なので、終戦を有利に導くことが優先されたようである。ソ連参戦後も、あくまで対ソ交渉に戦争終結への出口を求めていたことは確かである。ここに、和平条件を定めた「和平交渉の要綱」が日ソ戦争の終結にあたって生きつづけることになったのである。いや、むしろ「要綱」の「労役賠償」方針が具体的に動きだすのである。
ソ連は対日参戦によって連合国に加わったが、ソ連軍はマッカーサー総司令官の指揮下にはなかった。ソ連軍とは独自に停戦協議をしなければならなかったのである。とりわけ、ソ連は米英などと違って絶対天皇制に極めて批判的であり、「国体護持」にとってソ連がどう出てくるかは、日本政府中枢がもっとも懸念したことであった。日本政府はポツダム宣言受諾後、中国派遣軍や南方軍には帰還指令を出しながら、関東軍将兵の復員にはソ連と「別途協議すべし」との命令を出している。そして、この対ソ終戦協議のベースに「和平交渉の要綱」がすえられていたのである。
終戦時に瀬島参謀、朝枝繁春参謀が東京の大本営から満洲の関東軍に派遣されたのは、こうした政府中枢の対ソ方針を関東軍司令部に徹底させ、ソ連極東軍と折衝にあたらせるためだった。つまり、二人は政府中枢・大本営の国家意志を体現して、満州に姿を現したのである。
八月初めに瀬島参謀は満州入りし、十九日のジャリコーボ停戦実務会談に臨み、さらにソ連極東軍当局と接触を重ねている。瀬島参謀は日本軍将兵について「帰還するまでの間においては、貴軍の経営に協力するごとくお使い願いたい」とする陳情書をソ連極東軍司令部に差し出している。この陳情書も、「要綱」の「労役賠償」という考え方を伝えたものである。
瀬島参謀は、岡田啓介元首相(義理の叔父)や鈴木内閣の迫水久常書記官長(岡田の娘婿)との姻戚関係から、ソ連を仲介とする和平工作、近衛文麿特使派遣によるソ連に提示する和平条件などを知らされていた可能性が強い。つまり、「要綱」の「労役賠償」が国策であることを踏まえて、ソ連極東軍との交渉、折衝に臨んでいたのである。
朝枝参謀は、ソ連が参戦した直後の八月十日に関東軍司令部に飛来し、敗戦となって東京に戻ったものの、十九日に満州の関東軍司令部に引き返している。
朝枝参謀は、大本営の対ソ作戦主任参謀だった。梅津総参謀長の命令と訓令をうけて十九日新京(長春)に到着、二十一日に新京に進軍していたカワーレフ・ザバイカル軍管区司令官、政治部将校フェデンコ中将と会談した。この会談で、朝枝参謀は政府中枢の対ソ降服方針、「労役賠償」の用意があることを伝えたのである。フェデンコ中将から、文書にして提出するよう求められた。
それをまとめたものが、朝枝参謀による「関東軍方面停戦状況に関する実視報告書」である。この報告書は「第四、今後の処置」のなかで、次のように述べている。
「既定方針通り、大陸方面に於いては在留邦人及び武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とする」
「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとする」
武装解除後の日本軍将兵の速やかな帰国を要請するどころか、まさに棄兵・棄民の方針である。それをソ連側に申し出たのである。シベリア抑留や満洲残留孤児につながっていくのである。
この報告書には、関東軍秦総参謀長の二十九日付の所見文書が添付されている。そこでは「全般的に同意なり」と、関東軍としても朝枝大本営参謀の申し出に賛同していることを裏付けている。
日本軍捕虜の抑留と強制労働を企図していたソ連側にとっては、もってこいの申し出であった。これは、朝枝参謀の単なる思い付き提案ではない。梅津総参謀長という大本営の、そして最高戦争指導会議の訓令に基づいたものである。そこには、「要綱」の和平条件である「労務賠償」という考え方が流れていたのである。
フェデンコ中将がワシレフスキー総司令官に宛てた八月二十六日付の電報は朝枝参謀との会談について、「朝枝中佐は、梅津将官を長とする参謀本部と日本軍の大方の雰囲気や政策に関して私に報告させて欲しいと頼んだ」と述べている。さらにこの電報では「八月十八日に日本参謀本部は秦将官に電報を打ち、それを自分が直接運び届けた、と朝枝は述べた」、「私(朝枝)の滞在は、ソビエト軍の南下のための軍事的、政治的好条件を準備することと関係している」と述べている。
もう一つ重視されるべきは、この報告書は八月二十六日の日付になっているが、ここに盛り込まれている考え方は二十一日の新京でのカワーレフ司令官、フェデンコ中将との会談で、朝枝参謀本人からその趣旨がソ連側に伝えられていたことである。
すなわち、二十三日のスターリンによるシベリア抑留極秘指令の二日前に日本側の棄兵政策が明確にソ連側に伝わっていたことになる。この報告書の内容によって、スターリンがシベリア抑留極秘指令を最終的に決断したとも考えられるが、それを断定する資料はない。だが、少なくともソ連側がこうした日本の申し出に意を強くして、日本軍捕虜のシベリア移送・強制労働がスムーズにいくと判断したことは、容易に推定される。
さらに八月二十九日には、関東軍総司令部の名前でワシレフスキー元帥(極東軍総司令官)に宛てた報告文書が明らかになっている。これは瀬島龍三参謀が執筆したものである。この報告文書は「お願い」を頻発する卑屈な基調に貫かれているが、次のように日本軍将兵の使役を申し出ている。
「次は軍人の処置であります。之につきましても当然貴軍に於いて御計画あることと存じまするが、元々満洲に正業を有し家庭を有するもの並びに希望者は満州に止まって貴軍の経営に協力せしめ、其他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存じます。右帰還迄の間に於きましては、極力貴軍の経営に協力する如く御使ひ願ひ度いと思います」
これは関東軍司令部として、武装解除された日本軍将兵をソ連軍の意のままに使役して結構ですという意味であることは、一目瞭然だ。もちろん、ここではシベリアへの連行・強制労働という具体的な構想は想定されていないが、「貴軍の経営に協力」させるのであるから、すでにシベリア抑留計画を発動させていたソ連側にとっては、持ってこいの申し出であった。日本軍将兵六十数万人のスムーズで整然としたシベリア移送が実現できたのも、この関東軍司令部の「お願い」の結果だったと言える。
終わりに
敗戦時の在外日本軍のなかで、抑留・強制労働を強いられたのは、ソ連軍に降伏した満洲などの将兵だけである。以上述べたように、その理由は明らかである。スターリンが策定した日本軍将兵の「シベリア抑留」計画に、戦争終結をめぐる日本政府中枢の棄兵政策、「労役賠償」方針がすっぽりとはまっていったからである。
日ソ両国政府間で個別に策定された戦争終結をめぐる方針が相乗して、「シベリア抑留」という前代未聞の悲劇を生み出したのである。スターリンの「犯罪」を補完した日本政府中枢の責任はきわめて重大である。この日本政府中枢の方針がなければ、スターリンの「シベリア抑留」の具体化は不可能であっただろう。少なくとも、それが大いに阻害されたことは確実である。
その意味で、「密約」、すなわち「共同謀議」なるものの存在は今のところ実証されていないものの、「シベリア抑留」という「犯罪」の正犯はソ連政府、すなわちスターリンであり、日本政府中枢は従犯であったと言えるだろう。
(おわり)