堀江則雄のブログ ユーラシアの風 -12ページ目

堀江則雄のブログ ユーラシアの風

ユーラシアの各地で起きていることについて思っていることを書き連ねる。

著作一覧



単著書

ユーラシア胎動――ロシア・中国・中央アジア

(岩波新書、2010年)

シベリア抑留――いま問われるもの

(東洋書店、2001年)

極東共和国の夢――クラスノシチョコフの生涯

(未来社、1999年)

解体・ソ連邦のゆくえ

(リベルタ社、1991年)

敗戦国アメリカNOW

(未来社、1987年)

もう一つのワシントン報道

(未来社、1985年)




翻訳書

スーザン・バック-モース著

夢の世界とカタストロフィ― ―東西における大衆ユートピアの消滅』(岩波書店、2008年)

タマシ・クラウス著

ソヴィエト・テルミドール――現代ロシア政治の源流

(東洋書店、2003年)

マイケル・クレア著

ベトナム症候群を超えて

(合同出版、1985年)




















堀江則雄(ほりえ のりお)



1947年12月生まれ。


1971年東京外国語大学ロシア語科卒業。

山之内靖教授の世界史像に多くを学ぶ。


国立国会図書館に勤務した後、

ジャーナリスト活動に入る。


米国のワシントンDCに3年間、

ロシア(旧ソ連)のモスクワに合計8年間滞在し、

各地を見て回る。


レーガン時代の米国、ゴルバチョフ、エリツィン時代

のロシアでの体験から、自らの世界像の座標軸をつく

る。同時に、滞在した米国やロシアについてのジャーナ

リスチックなルポ、歴史を考えるルポなどを発表してきた。

 

最近はユーラシアの動向を世界史の転換点という

立場から考えている。ロシア、中央アジア各国との草の根友好にも力を入れている。

 

現在、法政大学講師、ユーラシア研究所運営委員、ジャーナリスト。

戦闘激化で犠牲者1100人超

避難民続出、民間機撃墜に

ウクライナ、停戦し政治的解決を

 717日、ウクライナ東部上空でマレーシア航空機が撃墜され298人が死亡する事件が起きて、世界に衝撃をあたえた。この東部でウクライナ政府軍とこの地域を実効支配している親ロシア武装勢力による戦闘がエスカレートしているなかで、起きた。

 どちらの部隊が何の目的で民間機を撃墜したのか、ウクライナ政府・米国側と親ロシア武装勢力・ロシア政府側の主張は真っ向から対立しており、今のところ明確なものはない。全会一致で採択された国連安保理決議が言っているように、公正な現地調査による真相解明が待たれる。

撃墜認定、一方的?

 日本のマスメディアは例によって、米国の報道に沿って、マレーシア航空機撃墜は親ロシア武装勢力の地対空ミサイル「БУКによるものだとしている。そしてロシアの責任を追及して「制裁」を拡大する米国とEUを当然視している。

 もちろん、この間、親ロシア派がウクライナ空軍の輸送機や戦闘機を撃墜してきたので、同派犯人説の蓋然性はある。だが、この見方は一方的なものだし、確たる証拠は挙げられていない。ロシア国防省の反論も無視できない。①同じ地対空ミサイルはウクライナ軍も保持しており、東部に配備していた②マレーシア航空機にウクライナ軍の戦闘機2機が接近、同行飛行し、撃墜直前に離脱、ミサイル発射・撃墜を誘導した③ロシアは同ミサイルを親ロシア派に提供していない④米政府などが発表した親ロシア派とロシア軍幹部との民間機撃墜の問答音声は、以前の輸送機撃墜の際の問答である――。これも考慮には値するだろう。

ポロシェンコ、制圧作戦本格化

 ウクライナ東部のドネツク、ルガンスク両州での政府軍と親ロシア武装勢力の戦闘は7月に入ると本格的な軍事行動にエスカレートしていた。民間機撃墜の背景として、この点は重要だ。

 6月ポロシェンコ新大統領は就任すると、親ロシア武装勢力に停戦を提案し、プーチン大統領とも紛争の早期停止で合意していた。その後もOSCE(欧州安保協力機構)代表、クチマ元大統領、ウクライナ駐在ロシア大使、武装勢力代表による停戦交渉、独・仏・ウクライナ・ロシア四カ国外相会談などが行われ、言葉では停戦と和平交渉開始などで意見の一致をみたとされてきた。だが、実際の現場ではその逆の武力対立や衝突が頻繁に起きていたのである。

 ポロシェンコ大統領は620日に一方的停戦を軍に命じ、捕虜の釈放や一部停戦で武装勢力側と合意したものの、武装勢力側が軍の東部からの撤退を求めたため、停戦期限の延長に応じず、7月に入って武装勢力の掃討作戦に入った。親ロシア派に和平の受け入れを迫る目的だった。

 ウクライナ軍は武装勢力の大きな拠点だったスラビャンスクを砲撃で攻略し、地元空港は空爆などで制圧するなど親ロシア派がネットワークで支配している両州の拠点を相次いで制圧していった。

 これに対して、親ロシア武装勢力も装甲車や地対空ミサイルなどを取得して対抗していた。こうした兵器はロシアから入手したとされる。このなかでウクライナ軍の輸送機や戦闘機を撃墜していた。だが、ウクライナ軍の攻勢をうけて、人口密集地である州都ルガンスクと州都ドネツクに武装勢力を集中させている。

犠牲者1129

 こうした戦闘のエスカレートで双方にどれだけ犠牲者が出たかは明らかになっていない。それぞれの戦闘で数十人の死亡がとりざたされており、双方あわせれば、かなりの死者数になろう。さらに砲撃や爆撃によって一般市民の犠牲者も出ている。

 国連人権高等弁務官事務所は728日、ウクライナにおける人権状況の監視結果を報告したなかで、政府軍と親ロシア派武装勢力のこれまでの戦闘で「26日現在、少なくとも1129人が死亡、3442人が負傷した」と公表した。これにはマレーシア航空機撃墜の犠牲者は含まれていない。

 この時点では、イスラエルのガザ侵攻作戦による犠牲者に匹敵する状況だったのである。

 このため、多くの一般市民が戦闘地域や周辺から避難している。ロシア紙によると、ウクライナ東部からロシアに逃れた難民は7月初めで25000人に達しているという。ウクライナ西部に逃れた市民も多い。

 いわばウクライナ東部は内戦状態に近い破局的な事態になっているのだ。

 各当事者には一刻も早く、本格的な停戦と和平への交渉によって、政治的解決を図ってもらいたい。




EUとロシアの引っ張り合い、流血の政変、ロシアのクリミア半島編入、武装勢力の庁舎占拠と武力衝突、ポロシェンコ大統領選出――ウクライナでいま何が起きているのか、まとめて考えてみたい。

ウクライナ危機、第四幕へ

危機の発端は、ヤヌコビッチ大統領が昨年11月EU(欧州連合)連携協定(経済支援、緊縮財政)の調印を中止し、ロシアからの130億ドルの金融支援を受け入れたことだった。同大統領は経済危機打開のためにEUとロシア双方との関係改善を図ったが、ロシアとだけが具体化したのである。これに反発した市民らがロシアからの自立、腐敗・汚職政権の打倒の声をあげた。キエフ中心部の独立広場にはテントが立ち並び、数千人が泊まり込んで抗議がつづいた。

第一幕2月の“マイダン革命”だ。マイダンとは広場の意味で、政府に抗議して周辺の政府庁舎や建物を占拠していった。この間、一般市民に混じって極右の武装グループが勢力を増大させていった。治安部隊との衝突では死者100人を超える銃撃戦にまでなった。221日政府と野党勢力が「国民連合政府」の樹立、大統領権限の縮小と大統領選の前倒しなどで合意。EU代表とロシア特使が仲介した。ところが翌日、反政府勢力はこれを反古にして実力でヤヌコビッチを追放した。流血の政変である。極右勢力が治安機関などを握る暫定政権が発足した。

第二幕3月のロシアのクリミア編入だ。暫定政権はロシア語の公用語化を取りやめると決定。ロシア語を母語とする多くの市民に不安感。また、ロシア黒海艦隊常駐と天然ガス価格引き下げの「ハリコフ合意」を否定。NATO拡大の悪夢を見たプーチンはクリミア奪回を決意。316クリミア住民投票で編入賛成90%超。318ロシアがクリミア編入強行。欧米各国と日本、G8からのロシアの排除、「制裁」。

第三幕は、反“マイダン革命”である。“革命”への逆襲だ。4月から東部ドネツク、ルガンスク両州で親ロシア派が州政府庁舎などを占拠。暫定政権が軍を派遣し、武力衝突。511日の住民投票で圧倒的支持を得たとして“独立宣言”。OSCE(欧州安保協力機構)呼びかけによる円卓会議で当事者による協議始まる。

525日の大統領選挙で第四幕が開けた。東部地域で投票妨害のなか、親欧州のポロシェンコ氏当選。これを軸に安定へ向けて事態が展開するか――。

なぜ、こうした事態になったのか。その背景は?

流血の政変で国内分裂に

2月の流血の政変が国内の東西対立を分裂へと発展させた。親欧州・腐敗批判の市民の抗議運動で極右勢力の「右派セクター」、「スボボダ」が暗躍、武装化がすすみ、銃撃戦を展開、暫定政権の治安機関を掌握している。反ユダヤ、反ロシア人の排外主義勢力で西部が拠点だ。西部では、第二次世界大戦でナチスに協力したバンデーラ派がユダヤ人虐殺、反ソ武装闘争を行った歴史がある。

 これに対抗して、東部で親ロシア派集団が武装化、政府庁舎占拠を行い、分裂が決定的になったのだ。

国民国家の形成途上

ウクライナはState国家は形成したが、Nation国民形成の途上である。ウクライナは帝政ロシア崩壊の1917年からソ連邦結成の1922年までしか国家として存在しなかった。そのうえ、東部は17世紀からロシア領に、西部は第二次世界大戦後に併合、文化、言語、宗教など差異は歴然としている。ロシアから自立したアイデンティティ確立に奮戦、だが困難だ。

激しい政争と経済破綻

 クチマ、ユーシェンコ、チモシェンコ、ヤヌコビッチと激しい政争を繰り返し、権益を争ってきた。このため、ソ連崩壊・独立後の経済再建は成らず、2012年のGDPは1992年の84%でしかない。独立直後の悲惨な経済状態が今も続いているのだ。オリガルヒ(アフメートフ、フィルターシ、ポロシェンコ)が暗躍する経済体制。その富豪ポロシェンコが大統領に当選した。今日の一人当たりGDPはロシアの四分の一、平均給料・年金もほぼ半分だ。累積債務は1400億ドル(うち短期債務は650億ドル)で、外貨準備は150億ドルで、巨額支援がないとデフォルトが想定される。経済破綻の状況が、東西分裂、武力衝突の背景にある。

NATO拡大とロシアの勢力圏

 冷戦終結時、NATO拡大はないとの“約束”だったが、東方への拡大につぐ拡大。ほぼ東欧全域、バルト三国が加盟、ウクライナという“ロシア世界”への拡大も。ロシアは「西側はロシアを何度も騙してきた」(プーチン大統領)としてクリミアを編入、勢力圏内と見なしてウクライナに介入している。



ウクライナで何が起きているのか――ロシアが取った態度をどう見る。

                    堀江則雄(法政大学講師)

 ウクライナで2月、流血の政変が起こったのを機に、ロシアがウクライナ南部のクリミア半島を自国の領土に組み入れました。ロシアが軍事的圧力をかけるなか、クリミア半島で住民投票が行われ、「ロシア編入」に9割以上が賛成したとして、318日ロシアがクリミア半島の独立・編入を承認しました。欧米各国や日本はこれに対し「経済制裁」を発表し、国連総会はクリミア半島のロシア編入を「無効」とする決議を採択しました。どうして、このような事態が起きたのでしょうか。

市民デモと流血の政変

 この問題のきっかけは、ウクライナのヤヌコビッチ大統領が昨年11月にEU(欧州連合)との関係強化をすすめる協定への調印を取りやめたことでした。EU側からウクライナの経済支援に緊縮政策などを義務とされたこと、ロシアが130億ドル(約13000億円)の融資と供給天然ガスの値段を30%安くすることを約束したことが、その背景にありました。

 ヤヌコビッチ政権の腐敗や経済失政を批判し、EUやNATO(北大西洋条約機構)との接近を求める野党勢力はこれに強く反発し、11月末から抗議行動を始めました。経済不振で生活に苦しむ一般市民の多くもこれに加わり、新年をはさんで大規模な抗議行動に広がりました。

 首都キエフの中心部の独立広場にはテント村が出来て、数千人が泊まり込み、付近の市庁舎、政府施設がデモ隊に占拠されました。このなかには、反ユダヤ、反ロシアを掲げる排外主義的なグループ「右派セクター」が結成され、その一部には武装集団も含まれていました。

 ヤヌコビッチ政権は2月中旬、治安警察を動員して、都心部のデモ隊を強制的に排除しようとしました。これに、デモ隊が激しく抵抗し、治安部隊と一部の武装勢力との銃撃戦の様相さえ見られ、100人以上の死者が出ました。

 こうした流血の事態をうけて、ヤヌコビッチ大統領と野党側が221日、危機打開のための協定で「合意」しました。それは①大統領権限の縮小②与野党による「暫定国民連合政権」の10日以内の樹立③大統領選挙の前倒し、5月末実施など、というものでした。この「合意」は独仏両国の外相などEU代表とロシア政府特使の仲介で成立しました。

 ところが与野党「合意」から一夜明けた22日、大規模なデモ隊が実力で大統領府など政府施設を占拠して事態は急変し、政権は崩壊し、議会はヤヌコビッチ大統領を解任、野党勢力とデモ隊参加者による暫定政権が樹立されました。与野党「合意」は覆されたのです。ロシア政府は「クーデターだ」としてこの政権を認めていません。

 ヤツェニュク首相ら暫定政権は腐敗の一掃や生活の安定を訴えていますが、地方政府が認めているロシア語の公用語化を否定するなど、ロシア系市民に大きな不安をもたらす政策を採択。排外主義的な右翼グループが反ロシアの機運をかきたてました。

国連が無効としたクリミアのロシア編入

 こうしたなか、ウクライナ南部のクリミア半島にロシア軍と見られる武装部隊が入り込み、空港や港湾、軍事拠点などを一気に掌握しました。配備されていたウクライナ軍は基地内に閉じこもり、ほとんど抵抗しなかったため、軍事衝突は起きませんでした。さらにプーチン大統領は31日上院から、大統領の判断でウクライナにいつでも軍事介入できる権限を手に入れました。

 クリミア半島は人口約200万人、面積は九州の三分の二ほどで、クリミア自治共和国と特別市のロシア黒海艦隊が駐留している軍港セバストポリから成り立っており、ロシア系住民が6割を占めています。首都キエフで政変が起きると、自治共和国の議会はロシア系のアクショノフ首相を選出し、ウクライナからの独立を宣言、ロシアへの編入の可否を問う住民投票をクリミア半島全域で実施することを決めました。

 ウクライナの議会は、住民投票は無効だとして中止を求めました。ウクライナ憲法によると、「領土の変更問題は国民投票のみで議決できる」としているからです。米国やEU、日本なども実施に反対しました。住民の1割を占めるクリミア・タタール人は投票ボイコットを呼びかけました。

 しかし、316日クリミア半島の全域で住民投票が行われ、自治共和国の発表によると、投票率83%で「ロシアへの編入」賛成が96%と圧倒的多数でした。ロシアの軍事的圧力が強いなかで強行されたもので、ウクライナ暫定政府は「憲法違反だ」と住民投票を無効としました。ただ、ロシア人とロシア語を母語とする市民が住民の圧倒的多数になること、歴史的にロシアとの強いつながりがあることも、こうした選挙結果の背景にありました。

 クリミア自治共和国の議会はウクライナからの独立を宣言し、318日プーチン大統領はクリミア自治共和国と特別市セバストポリをロシア連邦の連邦構成体に編入しました。

 これには世界各国から「主権の侵害」、「国際法違反」という非難、抗議の声があがりました。国連総会は327日、クリミア半島の住民投票は正当性がなく、ロシアによる併合は無効だとする決議を賛成100カ国、反対11カ国、棄権58カ国で採択しました。国連盟国は193カ国。この決議は国際社会の総意を示したもので、武力による威嚇や武力行使によるウクライナの国境変更の断念と直接対話によるウクライナ状況の平和的解決を求めています。

 米国やEU各国の政府は、ロシアに対して政府高官の入国禁止やその資産凍結などを柱とする「経済制裁」を発表。日本政府もビザ免除交渉の凍結などを決めました。これらの「制裁」は現在のところ、あまり効果はありませんが、ロシアはこれに“仕返し”とも言える{制裁}で対抗しています。欧米各国と日本は、G8(主要国首脳会議)からロシアを排除することも決めました。

経済危機で深まる生活困難

 双方ともスラブ系民族のウクライナとロシアの歴史は長く、深いものがあります。現在のウクライナの首都キエフは、10世紀にロシア最初の国家とされるキエフ・ルーシが成立したところです。「キエフはロシアの母なる都市」と言われる由縁です。その後、17世紀には帝政ロシアが東部ウクライナを併合します。クリミア半島は1873年ロシア・トルコ戦争を経て、ロシア領土となります。

 そしてロシア人がウクライナの領域に入り、一方ウクライナ人もロシア各地の大都市やシベリア、極東に多く移住し、社会的にも、文化的にも融合がすすみました。たとえば、日本でロシア料理として有名なボルシチは、元来ウクライナの郷土料理でした。ただ、ロシアが経済的にも社会的にも、いろんな面で支配的な状況でした。ウクライナ人が「小ロシア人」と一般的に呼ばれたのも、その象徴的な表われでした。1991年のソ連邦解体でウクライナが独立するまで、基本的にそうした構図がつづきました。

 ウクライナは面積で日本の約16倍、人口約4500万人で旧ソ連や中東欧地域では有力な国です。民族的には8割がウクライナ人で、残り2割がロシア人とされていますが、歴史的経緯からロシア語を母語とする人がはるかに多いのが特徴です。豊かな黒土地帯で“欧州の穀倉”と言われる農業、製鉄などの鉱工業などが主な産業です。

 ウクライナは独立後の体制転換で、その地政学的位置からロシアと欧州の間で揺れ動いてきました。民営化や自由価格など市場経済の導入を柱とする経済再建の苦闘がつづき、国民生活、経済の低迷は打開されないままでした。2004年の大統領選挙で、新自由主義的な「改革」に反対しロシアとの関係改善を訴えたヤヌコビッチ氏が欧州への接近と急進的「改革」の推進を掲げたユーシェンコ氏を破りましたが、選挙不正があったとして市民の大規模な抗議集会が連日吹き荒れ、選挙結果は無効とされました。05年のやり直し大統領選でユーシェンコ氏が当選しました。この政変が「オレンジ革命」と呼ばれ、その立役者となったチモシェンコ首相とともに、ウクライナは新自由主義経済改革とEU・NATO接近への道を歩みます。

 だが、この「オレンジ革命」は失敗しました。2010年の大統領選で「オレンジ革命」の旗手だったユーシェンコ氏はわずか約6%の得票で惨敗しました。新自由主義の経済政策、NATO加盟の外交路線の破綻が明白になったのです。

決選投票では、ヤヌコビッチ氏が中間派のチモシェンコ氏をおさえて勝利しました。

 しかし、08年のリーマンショックの直撃であらわになった経済危機の構図は、ヤヌコビッチ政権の3年間も変わらず、いっそう深刻になりました。昨年から貿易収支が大幅赤字となり、外貨準備高が激減、1年以内に債務返済が650億ドルとなり、デフォルト(財政破綻)が迫っています。

 市民生活も改善されず、一人当たりGDP(国内総生産)はロシアの四分の一にすぎません。平均月収もロシアの63700円に対し、ウクライナは27700円、平均年金でもロシア24700円、ウクライナ14100円という調査があります。それほど豊かでないロシアに比べても、ウクライナ市民はその半分程度の生活水準に甘んじているわけです。そして、行政機関だけでなく、体制転換以後、社会生活に深く根差した汚職・腐敗の横行です。今回の流血の政変の底流には、こうした政治に対する広範な市民の怒りがあったわけです。

 ヤヌコビッチ氏は外交政策として、欧州との統合、ロシアとの関係改善、軍事同盟への不参加を柱としていました。ヤヌコビッチ氏は必ずしもロシア一辺倒ではなく、欧州とロシアとの両にらみ外交でした。ウクライナにとって、ロシアは最大の貿易相手国であり、最大の債権国であり、天然ガス供給国です。経済的には切っても切れない関係です。魅力あるEU市場とも、ロシア市場とも関係改善することがウクライナの経済成功に不可欠だとされます。

深まる東部と西部の対立

 欧州とロシアの間で揺れてきたため、ウクライナの東部と西部の対立も際立つようになりました。クズネツク州など東部は300年以上も前から帝政ロシアに併合されてロシアの強い影響を受けているだけでなく、経済的にも鉱工業がロシアとの結びつきのなかで発展してきました。住民もロシア人が多く、ロシア語を母語とする市民が多数となります。

 ところがリボウ市を中心とする西部のほとんどは、第二次世界大戦後にソ連に併合された地域で、ポーランド、オーストリア=ハンガリー帝国の文化、社会の影響が強く、反ロシアの機運と欧州への帰属意識は深いものがあります。この地域では、戦中、戦後に反ソ武装組織が活動したこともあります。そのなかで、今回の大規模な反政府デモで暗躍した排外主義的な武装グループが生まれたのです。

 クリミア半島はウクライナでも特殊な歴史があります。1873年帝政ロシアが併合した後、帝政ロシア、ソ連のロシア共和国の一部でした。この間、先住民のクリミア・タタール人が中央アジアに追放され、ロシア人が入植するなどありました。それが1954年にウクライナ共和国に編入されました。当時はソ連国内での行政的な変更にすぎませんでした。

 しかし、ソ連邦が解体される際、クリミア半島の帰属がロシアとウクライナとの間で重大問題になりました。結局、両国はロシアの黒海艦隊が軍港セバストポリを使用する協定を締結し、クリミア半島はウクライナに帰属することで合意しました。

 黒海に囲まれたクリミア半島はロシアにとって要衝の地であり、とりわけ大規模な黒海艦隊基地を置いています。両国協定によると、ロシアの基地使用は2017年までの期限でした。それをヤヌコビッチ政権は25年間延長していました。政変で反ロシアの政権ができ、駐留・基地使用が危うくなってきました。要衝のクリミア半島を失わないため、プーチン大統領は軍事力で圧力をかけて、半島をロシアに併合したのです。

ウクライナ・ロシア・EUで政治的解決を

 国連総会の決議が述べているように、軍事力で主権国家の一部の領土を一方的に併合することは、認められません。関係するウクライナ、ロシア、EUがそれぞれの主権を尊重して話し合いで、外交的に政治的解決を探っていくべきです。ウクライナはロシアの“弟分”国家ではなく、対等な主権国家です。だが、歴史的な深いつながりから見て経済的、文化的にウクライナがロシアと断絶して存在することは想定できません。ロシアとEUも天然ガス・パイプラインだけではなく、13年の貿易総額4600億ドルと米ロのそれの11倍と深いつながりがあります。ウクライナ・ロシア・EU三者協議による政治的解決の可能性には現実的基盤があります。

(4月15日記)