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今日は、みその農園のこれまでの歴史のお話。
どうやって今のようなみその農園になったのか?
無我夢中で歩んできたこれまで。
自分自身も気になっていたみその農園のこれまでの歴史を
過去の業務日誌を紐解いて
2018年秋、日々の日記に書き足して少しずつ書いてきたのですが。
ここに「みその農園ヒストリー」として加筆してまとめてみました。
大成功した農園のサクセスストーリーなんていうのではなく
こうやって自然栽培にたどり着き、こんなことがあったので「おみせの日」をやり始めたという小さな農園のお話です。
興味ありましたら読んでみてください。
そもそものスタートは小笠原でした!
料理人を志して鞄一つで就職先や住む場所のあてもなく上京した20代前半の頃。
大都会東京の新宿や渋谷で、ただただがむしゃらに働いていたときのことでした。
縁あってJR横浜駅の駅ビルに入っていた超繁盛店のレストランにさそってもらい入社したのですが
この店がとにかく忙しくて、腕は磨けるかもしれないけど、こんな日々が延々と続くことが苦痛になりかけた時
同僚のおっちゃん(当時彼は40歳ぐらいだったでしょうか)と休憩時間をともに過ごす時があったのですが
その時に
「僕の友人が小笠原諸島の父島でホテルを経営しているんだけどさー、料理の責任者を探しているんだけど行ってみない?」
なんてこと言われまして
とにかく仕事に追われる都会の日々に嫌気がさしていたのかもしれないけど
その話が胸に飛び込んできてしまいまして
若さゆえか
何が何でも行きたくなってしまいまして・・・・・・・・・・
その頃は、小笠原に人が住んでいることすら知らなかったのですが
いつもながら行き当たりばったりの人生で・・・・
妻に相談することもなく、行くことを決意して
ともに小笠原諸島父島に渡ったのが、たしか1986年の3月だったと思います。
結婚して2ヶ月後のできごとだったのですが、徳島から横浜に引っ越してきた妻がようやく都会に慣れてきて、都会暮らしが楽しくなったばかりの頃に小笠原行きを告げると鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたことが昨日のように思い出されますが、未だにその時のことを恨み節のように言われております。
ごめんなさいm(_ _)m
小笠原村は東京都だけど、日本本土とはまったく違うところだった!
東京、竹芝桟橋からおがさわら丸に乗ること29時間(当時はそうだったと思います。今は24時間で着きますが)
ただただ仕事に追われていた東京横浜時代。
アパートから職場まで通う毎日だったけど
たまの休日には渋谷や山下公園や中華街などに遊びに行ったこともありました。
都会での暮らしも楽しめたし、それはそれで良い経験だったと思うけど
小笠原村父島で見た景色や島での生活は異次元でした。
ちなみに小笠原の場所は↓。東京から1000キロ。けっこう遠いです。
海まで歩いて5分でいけるような、こんな父島での1年あまりの生活で人生観や価値観が変わり
人生プランが変わってしまいました。
日本一の都会である東京都心から日本一の田舎と言ってもいい亜熱帯の小笠原での暮らし。
このギャップは、若い頃の自分にとってはとても刺激的でした。
空いた時間には、スキンダイビングや波乗りやウインドサーフィン、オフロードバイクで道なき道を走ったり魚釣りに行ったりの日々。
本当に毎日楽しくて、このままここで死ぬまで暮らしたいと思ったものでした。
それでも
小笠原に住むこと1年もたつと焦りを感じ始めます。
こんな楽園的な暮らしを続けていていいのだろうか?って。
小笠原で暮らした1年間は竜宮城で暮らした浦島太郎のように楽しかった日々ではあったのですが
まだ若かったせいか、このままでは自分が目指してきたことが達成できそうにないし
また、この楽園の楽しさにひたってしまうことで自分がダメになってしまいそうに思い、東京に帰ることにしました。
忘れもしません。
小笠原は初夏の陽気だった3月末のことでした。汗をふきふき港の桟橋まで歩いたことを思い出します。
そして29時間かけて着いた東京は、なごり雪が舞う寒い日で
また、友人と待ち合わせした渋谷ハチ公前は、とんでもない人混みで
気分悪くなってしまったうえ、風邪をひいてしまいひどい体調で数日過ごしながら考えた結論は
「もう東京では住めんわ」
でした。
で、徳島の実家に帰ってきたのですが、なかなか社会復帰できませんでした。
「小笠原で1年暮らすと内地に帰っても3年は社会復帰できないよ」
と小笠原の先輩が言っていたことが脳裏をかすめましたが
そうも言ってられません。
東京ではフレンチなど洋食の修行をしていたのですが
小笠原での経験もあってか、徳島では日本料理をやるべきじゃないかと思い、26歳にして和食調理見習いとして
新規オープンする活魚料理が売りの日本料理の店に入社することになりました。
その店のオープン当初が、とんでもなく忙しく、一日の売上が100万円を超す日も度々あるほどで
毎朝5時出勤で、帰宅は夜中。 当然休みはなし。
(今なら完全なブラック企業ですよね(^0^;))
そんな日々が2ヶ月ほどつづいたでしょうか。
小笠原から帰って間もない身としては、ストレスはマックス状態でしたが
この忙しさは、東京や横浜でも味わっていたような生活だったので、
今にして思えば、小笠原からの社会復帰にはもってこいだったのかもしれません。
それでも
休日が与えられるようになってからは
休みになると、とにかく海や川で過ごす毎日がつづきました。
風がある日はウインドサーフィン。吉野川や沖洲、辰巳(那賀川河口)等々
ない日は、釣りしたり、県南にダイビングに行ったり波乗りしたり・・・・・
ただただ海辺で音楽を聴きながら寝そべっている日もありました。
今にして思えば、徳島に小笠原のあの楽園を作ろうとしていたんでしょうね。
まさに小笠原病ですね(笑)。
そんな日々を過ごしていたのですが、あるきっかけがありまして
徳島駅前の某ホテルに転職し、再びフランス料理の料理人になったのですが
小笠原時代や和食修行時代が長くて、洋食の流儀やフランス語は忘れているし
またまた半見習いからのスタートでした。
そんな時、夢中になったのがデザート。
いわゆるスイーツです。
先輩に教えてもらったフランス菓子が、これまで食べたことないぐらい美味しくて夢中になりました。
そんな時、同僚から
「県南で放し飼いのニワトリを飼っている農家があって、その卵がとんでもなく美味しいらしいんやけど、いっしょに仕入れに行かん?」
なんて話があり
その時、海友達との大事な約束があったのですが、その卵の話にとても惹かれたので、キャンセルしてニワトリに会いに行ってきました。
その卵は、今も「道の駅ひわさ」などで「樫木屋のたまご」と銘打って販売されていると思いますが
当時は、そのたまごを食べてみて本当に感動したものでした。
「そういや昔うちの庭先で飼っていたニワトリのたまごはこんな味だったなあ」って。
そのたまごを自腹で買って帰ってお菓子を作ってみると、たまごの泡立ち方も違うし、完成品もこれまで作ってきたお菓子とまったく違うんですね。
今でこそ檻で囲った平飼いですけど、その当時の樫木屋の養鶏は、放し飼いだったのです。
(午前中はたまごを産んでもらわなきゃいけないので、鶏舎に入れていたけど午後は檻もない外に解放していた)
小笠原病の自分にとってこの放し飼いの光景は、つぼにはまってしまいまして、自分でやってみたくなりました!
そうなれば、いつものように思考即実践!
(今思うと、とんでもないヤツですよね。妻にはほんとうに申し訳なく思っています(^_^;))
周囲の反対も耳にせず、平飼いでニワトリを飼うことを決めました。
1991年のことでした。
あとで思ったのは、小笠原で暮らした経験がなかったら、ニワトリを飼おうなんて絶対思わなかったということ。
なので、「そもそものスタートは小笠原」なんですよ。
小笠原での自然回帰ともいうべき経験がなかったら、自然養鶏はおろか農業は絶対やっていないと思うのです。
話は戻って
ホテルの調理場で働きつつも、徳島市内の借家から実家に帰り、借金して鶏舎を一棟建て、育雛舎は自力で作り、ひよこ150羽を飼い始めました。
料理人と養鶏、二足のわらじははいていけるだろうと簡単に考えていたのですが
ニワトリたちがたまごを産み始めたとたん大変なことになりました。
毎日120~130個産卵されるたまご。
売り先も特に考えてなかったのに、どうしたもんじゃろか?
母親に頼んで買ってくれそうな人を探してもらったり、休日にあちこち営業に回ったり、教会のバザーに出品したり、友人知人にサンプルをあげて試食してもらったりしましたが、なかなか売りさばけていきません。
ホテルは週2回ほど泊まりの勤務があったのですが、それが足かせになってさらに滞ってきつつありました。
家にはたまごがあふれ、まさにパニック状態。
退職することを決意し、そこから専業農家の人生がスタートしました。
1992年秋のことだったと思います。
ふー、やっと農業の話まできましたね(笑)。
当時、ホテルを退職して専業農家になってからというもの、1997年までの5年間、ひたすら鶏舎を建てました。
「爪に火をともすように蓄えたお金が10万円を超えたら鶏舎建築!」
そんな感じで、どうやれば安くできるか?試行錯誤しながら自己流で建てていきました。
初めて自分で建てた1号舎はNTTの木製の電柱を安く売っていたので、それを使用しました。
(電柱を木製からコンクリート製に変更していた最終の時期だったので少しながら手に入ったのです)
この鶏舎は12坪で約12万円。坪あたり1万円でできました。
2号舎からは、コンクリートブロックで基礎工事をして、製材所に注文した二級品の杉板で建築しました。
(これらは1坪あたり約1万5千円。)
こちら建築中の6号舎↑
最後に建てた鶏舎です。
あれから20年あまり、今はこんな感じで草に覆われ自然の中に溶け込んだ感じになっています。
見えにくいですが鶏舎全景↑。全部で6棟、8室あります。手前がキウイ畑。左向こうがブルーベリー畑です。
1室が約10坪で40~50羽が暮らしていて、今はひよこを含めて約400羽います。
1993年からは、野菜の有機栽培も始めて、玉子といっしょに配達して販売していました。
そして1995年からは両親からみかん畑を受け継ぎ
慣行栽培からいきなり無農薬有機栽培に転換してほぼ全滅させてしまい
改めて無農薬栽培の難しさを痛感したものでした。
すべての鶏舎を建てるまでの5年間、お金はなかったけど時間はたくさんあったので
空いた時間があると、図書館や本屋さんに行き、とにかく本を読みました。
農業関係の本をはじめとして環境問題や政治のこと、小説や哲学書など
なぜだかわからないけどとにかくいつも本を読んでいたのですが、それが今になってほんとうに役にたっているように思います。
1997年からのみその農園は、ただただ自然養鶏と有機栽培に没頭し、勉強の日々だったのですが
2000年頃だったか、JAS法改正で、有機JASなる認証制度が発足します。
有機栽培の団体には補助金が出るなんて制度があったのもこの頃で
「2000年以降に始めた有機栽培農家は補助金目当てで信用できない」なんて言われるのもそれが所以なんですね。
その当時、販路に困っていたみその農園としては、少しでも有利になるかと思い有機JASの認証を取得したのが2002年でした。
2002年、みかんやキウイ、野菜畑で有機JASを取得しました。
意気揚々と売り込みなどしたものの、メリットはH食品がタマネギやトマトを買ってくれるだけであとは何もなし。
H食品が買ってくれたのは確かにありがたかったかもしれないけど
ケチャップやジュース用のトマトやタマネギですから、とんでもなく不味くてもとりあえず有機栽培でトマトやタマネギの形をしていたら買ってくれるわけです。
生産者としては、とにかくたくさん作りたいということになるから、とにかく肥料や堆肥をたくさん入れるわけですね。
そうなると、たくさん虫がやってくるし腐りやすいし
しかも不味いし・・・・・
自分は何のために有機栽培をやってきたんだろう?
悩みました。
さらに同年、取引先の「らでぃっしゅぼーや」が主催した有機農法勉強会で
ドクターソイルなるもので土壌診断し、PCのソフトで施肥設計をするという画期的な有機農法に出会い
「これだ!」と思い、この有機農法に夢中になり、そのやり方を4年ぐらい続けた頃でしょうか?
そこで大きな壁にぶち当たりました。
とにかく仕事がおもしろくなくて、体調が悪くなり、精神的にも不安定で、車の運転さえもままならなくなってきました。
病院に行くと「鬱病」との診断を受けました。しかもパニック障害。
苦しみぬいた時期でした。
有機JAS認証も土壌診断する有機農法も自分にとってはただただおもしろくなくて苦しいだけだったのでやめました。
2002年から2006年までの4年間
精神的に苦しみ抜いた期間でもあったのですが
今になって思い返してみると、その期間はみその農園にとっては大きな転換期だったと思うのです。
というのも
苦しみつつも色々なことにチャレンジしていて
日誌をみると
妻が販売員の仕事を辞めてスイーツ修行をはじめたのもこの時期だし
ブログをスタートしたのも2002年(この頃はブログなんて言葉なかったかも。アメブロは3代目のブログなんです。我ながら長く書いてますよね)
PCのソフト、イラストレーターの勉強をしていたのも2004年。
ユンボを購入して荒れ地を開墾してブルーベリーなどの果樹園を作りはじめたのが2003年。
今の工房兼住居を新築したのも2005年でした。
これといったプランもないのに
農園の玉子や果物を使ってスイーツを作って販売しようと思い、貯金もないのに借金して建てた新居でしたが
ラッキーとしか思えない出来事がありました。
2006年3月にあいさい広場ができることになり、出品者を募ったのです。
まさに
渡りに船!でした。
そこからがFARMER'S KITCHEN MISONOFARMの始まりです。
2006年3月25日にオープンしたあいさい広場にFARMER'S KITCHEN MISONOFARMがデビューしてからというもの
ただただ、とにかく仕事に追われた日々でした。
お菓子の製造から出荷までの作業も当初は妻が一人で担っていて
私は夜だけラッピングなどを手伝ったりしていたのですが
このままでは継続できそうにないってことで、ハローワークなどでパートさんを募集して人を雇い
数年がんばってきたところ
転機が訪れました。
「とくしまマルシェに出店しませんか?」とのお誘い。
2011年。とくしまマルシェが立ち上がったばかりの頃でした。
なんだかおしゃれな感じで、これならぜひ出店してみたいと思い
初めて出店したのが2011年4月のとくしまマルシェでしたが
すごく楽しかったことを思い出します。
2011年4月から出店し始めたとくしまマルシェ。
これまでひたすら農園やキッチンで自然やお菓子相手に働いてきた私たちにとって久しぶりの対面販売は、なんだか新鮮で月1回の出店は良い刺激になり仕事の活力にもなっていたように思います。
(二人ともサービス業出身なので)
ですが、出店も1年を過ぎた頃になるとだんだん嫌になってきたのです。
というのも、お菓子は売れるけど農作物は売れない。自然栽培のものや自然卵に興味ある人がほとんどいない・・・・
なので、私は途中からあまり店頭に立たなくなり妻とスタッフまかせになっていました。
さらに体力的にきついことと出店者がいつも同じでマンネリ化して、客観的に見てもマルシェ自体に魅力を感じなくなり
出店2年ほどで、とくしまマルシェを卒業することを決めました。
次に転機が訪れたのが、水戸へヴォルティスの応援に行ったときでした。
なぜ水戸かって?
水戸にヴォルティスファンの友人(高校時代からの親友)が住んでいたことと水戸への道中にある自然栽培の農作物や加工品を扱うナチュラルハーモニーの直売店に行ってみたかったからです。
某通信社を早期退職して今(2019年2月現在)フリーでインドネシアを取材中の友人(そのときはまだ都内の某通信社本社で働いていました)と3人で酒を酌み交わしながら色々語りあったことを思い出します。
翌日、常磐線で途中下車し、寄ったのが埼玉県の越谷レイクタウン(イオンショッピングモール)内にあったナチュラルハーモニーの直営店。
売店は徳島の店にはない魅力あふれる商品がいっぱい!自分にとっては、まさに宝石箱でした。
そして併設のレストランで食事。自然栽培の野菜をふんだんに使ったバイキング形式のレストランで、これまた大満足。
奇しくも、そのときのシェフが徳島市の自然食品販売店「佐古山文化」のオーナー植田さんの奥さんなのです。
昔住んでいたなつかしの横浜にあるナチュラルハーモニーCOAにも行ってきたのですが
いやーよかった!あんな店が徳島にあったらどんなにいいか・・・・・・
帰りの飛行機の中でしみじみ思いました。
で家に帰って数日後、たまたま友人3人がやってきて、うちの山小屋でランチ会をしたのですが
そこで私が提案したのが
徳島でオーガニックマーケットをやらないか?
ってことでした。
というのも
その日の朝
ネットで農業のことを色々調べていたら
山川町の今関さんちに度々お世話になっていた方が愛媛で新規就農し有機農業を始めたそうなのですが
仲間といっしょに畑に客を呼んでマーケットを始めたというんですね。
とくしまマルシェではオーガニックに興味あるお客さんはほとんどいなくてがっかりしたし
仲間を集めて、先日行ったナチュラルハーモニーのようなワクワクするような空間を作ったらどうだろう?って思ったまさにそのときに仲間がやってきたからなんです。
で、「やりましょう!」で即決。
思いの外の即決でしたが
ここから新たな取り組みがスタートします。
その前に大切なことを書くのを忘れていました。
有機栽培から自然栽培に至るまでの経緯!
ドクターソイルなるもので土壌診断し、PCのソフトで施肥設計をするという画期的な有機農法に出会い「これだ!」と思い、この有機農法に夢中になり、そのやり方を4年ぐらい続けた頃でしょうか?そこで大きな壁にぶち当たりました。
と書きましたが、そのあたりが曖昧だったので、過去の業務日誌を調べてみました。
ドクターソイルなるもので土壌診断し云々の画期的な農法。
私は2002年4月から約5年間勉強し実践しましたが、大きな壁というのが以前にも書いた「鬱病」の診断でした。
とにかくその農法が自分に合わなくて、ただただおもしろくなくて苦しかったことを思い出します。
なので、その期間の日誌をみると
しょっちゅう山登りに行ったりあちこち旅行したりしています。
今思うと、現実逃避!
遊ぶことで気を紛らわしストレス解消していたのでしょうね。
そんな時、有機栽培仲間が50代60代の若さで次々と亡くなって行きます。
毎日、有機栽培の野菜を食べていたはずの方々です。
なんかおかしいぞ。
と思っていた頃、自分ちの有機栽培作物も芳しくない状況だったので、徳島の主だった有機栽培農家を訪ねました。
ところが
元料理人ゆえの味重視の個人的感想ではあるけど
どこも良いものを作っているとはとても思えなくて・・・
そんな中、唯一、その野菜の味に感動した農家があったのです!
それは徳島市国府町の小林農園さんです。
肥料も農薬も使用しない農法の農園でこれだけ見事なものを栽培されているところを見るのは初めてだったので本当に驚き、何度か見学に行かせてもらいました。
しかも、主の小林忠さんはご自分が栽培する野菜を使って食生活を指導し、たくさんの病人を治してきたそうで
あの生命力あふれる野菜を目の当たりにすると、それも十分納得のいくもので説得力がありました。
小林忠さんはこの時点でもう90歳を越す高齢でしたが、すごくパワーがあったし頭脳も明晰だったことを思い出します。
(残念ながら今は亡くなられています。)
小林農園の畑には、これまで感じたことのない感動がありました。
まさに自然の力をそこから感じられたのです。あたたかく優しい場所でした。
初めて小林農園に見学に行ったのが2007年2月。
そして木村秋則さんがNHKのプロフェッショナル仕事の流儀に出演したのが2006年12月6日。
もっともこのテレビ番組は観てなくて、「リンゴを無農薬で作るすごい人がテレビに出てた」と妹から聞いたぐらいだったのですが
2008年「奇跡のリンゴ」が出版された時に読み、それから自然栽培にはまって行ったように思います。
そして2011年5月には高知県四万十で自然農法農家を営む人たちとともに埼玉県で1956年から自然農法をされている須賀農園の須賀利治さんを訪問。
徳島からの参加は私だけだったのですが、どうしても須賀さんに会いたくて参加しました。
さらに、2011年9月にはナチュラルハーモニー代表の河名秀郎氏がうちの農園に来てくれたことで一念発起。
これらが大きなきっかけになりました。
まずは、みかん畑の1画と野菜畑1面から自然栽培をスタートさせました。
ただ、すべての果樹園を自然栽培に転換したのは両親が病に倒れたことがきっかけでした。
大失敗して無収入になる可能性もあったので勇気はいりましたが、決めたら早いのは昔ながらなので、決断したあとは迷いはありませんでした。
2011年から自然栽培に転換した野菜畑はうちのキッチン(お菓子の工房)の裏にあり、キッチンガーデンにしようと思っている畑です。
その畑のこれまでですが、まず2年ぐらいはどうにか野菜も育っていました。というのもそれまでに施した肥料分が残っていたからです。
ところが3年目あたりからまさに肥料分がないような状態で、野菜作りも難しくなってきたので小麦や古代小麦を栽培することにより肥毒層をぬくことを試みます。
さらに5年目からは、土壌改良のため、えん麦(オーツ麦)の栽培も始めました。
その横には大根や葉物など冬野菜の種を蒔きました。
緑が薄いでしょ?無肥料7年ですからね。
けど害虫の気配がないでしょ?肥毒が抜けてきた証拠かもしれません。
これがちゃんと育ってくれたら自然栽培でのキッチンガーデンをスタートしようと思っています。
ダメだったら米ぬかぼかしや落ち葉の堆肥などを使用した有機栽培でも仕方ないかなと・・・・・
まあとにかくがんばってみますが、この土地での自然栽培の野菜作りが難しいことがわかればあきらめることも必要かなと思っています。
相手は自然なので適地適作ってことも考えてなければいけませんから。
小林忠さんもよく言ってました。
畑から肥料が抜けるのに10年ぐらいかかります。その間はなかなか難しいけど、作れるようになればとんでもなく美味しい野菜ができると。
有機栽培で鬱になり、死にそうになったどん底で自然栽培に出会い、生き返りました。
あんなに嫌だった仕事が楽しくて仕方なくなり旅行や登山に行かなくなりました。
遊びに行くより仕事の方が楽しいからです。
農業は「職業」というより生活なんですね。
それ自体が趣味であり生き方であり、楽しいことも苦しいこともあるわけなんだと思うようになりました。
あのターシャテューダーさんが、毎日の庭での作業が忙しく楽しくて外に行かなくてもこの場所でずっといる方が幸せだというようなことを言われていたそうだけど
それ、今になるとよくわかるんです。
有機栽培の頃、農作業しながらよくラジオを聴いていました。それが今はまったく聴きません。
なぜなら、農作業はたいてい農作物と会話する時間なので、ラジオを聴くなんてほんとうにもったいないと思うようになりました。
自然栽培、本当に楽しいですよ。
興味ある方は、おみせの日の午後にでもお話しに来て下さい。
2013年10月、わくわくする空間を作ろうと思い立ち、翌年10月に仲間と立ち上げたマーケットでしたが
詳しく書くことはできませんが
一つ言えることは
自分にとってそこは、わくわくする空間ではなく、ただただ嫌な場所だったということ。
なぜ自分にとってそんなに嫌な場所だと思ったか?
まあとにかく自分の目指すものとは大きくかけ離れていたということです。
そんなわけで、早々に離脱しました。
今になってみると、あんな残念なイベントを立ち上げたおかげで自宅販売会を開催する気になったわけで、結果オーライと言ってもいいでしょうか。
で、そこからが早かった。
離脱してたった2ヶ月後の2015年3月、おみせの日(自宅販売会)がスタートし現在に至ります。
(2015年初回の「おみせの日」 今より商品はかなり少ないですね)
年表をみると本当にスピード感ありますね。
今になってみると、とくしまマルシェ出店もあの残念なマーケットも反面教師的な意味ですごくためになっているし、また集客できる自信のようなものもできたし、やはり無駄なことはないなと改めて感じています。
そんな自宅販売会もスタートして4周年が近づいています。
理想とする「わくわくする空間」までにはまだ至っていませんが、徐々に近づいているように思います。
これからはもっと遊び心をもってがんばっていこうと思っていますので、お楽しみに。
最後までおつきあいいただきありがとうございます。
2019年2月 みその農園 仁木浩之