電車で、千駄ヶ谷駅にやってきた口笛

駅構内が、明るい雰囲気にリニューアルキラキラ

 

駅横から首都高下の道を下り、

JR中央総武線各駅停車のガードをくぐる足

 

新宿御苑、整形式庭園(バラ・プラタナス)に近い入口ですが・・・

堅く閉ざされていますもやもや

 

外苑西通りを少し北上足

大京町交番パトカー近くにやってきましたうずまき

 

新選組の沖田総司は、鳥羽伏見の戦い敗戦後に江戸へ戻り、
西洋医学所から今戸神社にあった、松本良順の離れに移って療養していました。

 


その後、2月に千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に移ったトラックとも言われていますアセアセ

 


大京町交番近くにある、「沖田総司逝去の地」案内板キラキラ
以前は何もなかったそうですが、

有志の運動により平成になってから作られたそうです口笛

 

平五郎宅に近い新宿御苑は、元は信州高遠藩内藤家屋敷

周囲には田畑、雑木林などが広がっていました。
沖田総司が療養した平五郎宅の離れ近くには

玉川上水にかかる水車もあったそうです。


ここは玉川上水の跡!?

現在、水がありませんが、大正時代までは澄んだ川が流れ

蛍の名所でもあったそうです!!

 

実際の平五郎宅は、外苑西通りを向かい側に渡り

もう少し新宿御苑方面に行ったところの

富士見ビルのあたりと言われています口笛

沖田総司が亡くなったのは、その近くの離れ
古地図などから、外苑西通り上では!?ないかという話もあります。

 

旧池尻橋の石欄干が、富士見ビルの隣に残っていますびっくり

 


沖田総司の辞世の句と言われているのが、

動かねば 闇にへだつや 花と水

土方歳三が見舞いに来て、
さしむかう 心は清き 水鏡
と、沖田総司を水鏡にたとえて句を詠み、

それへの返歌として詠んだものと言われますうずまき


「戦わなければ、自分と土方さん(または仲間)は遠く隔たってしまう」
という意味の、戦えずに仲間と離れてしまう悲しみを詠んだ句とされていますタラー

 

沖田総司の命日は、旧暦の慶応4年5月30日。
現在の暦に直すと、1868年7月19日になります。
生まれた年に2つの説があるため、

亡くなった時の年齢にも2通りの説がありますが、

25歳か27歳で亡くなくなったことになります。