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大江戸散策徒然噺

大都市の中のお江戸の名残りを紹介します。江戸時代260年にまつわる日本全国の歴史散策をお楽しみください。

仕事で九段下に立ち寄る機会があり、久しぶりに新緑の北の丸界隈を散策してみました。季節は一気に初夏へと移ろい、木々の若葉が陽射しに映えてキラキラと輝いています。汗ばむ陽気の中で九段下からなだらかな坂を登り、まずは牛ケ淵(濠)を望む田安門へと向かうことにしました。


大江戸散策徒然噺-高燈籠


坂を登りきり、田安門の前を通過すると靖国通り脇に立つのが「高燈籠」です。この高燈籠は靖国神社が所有するものですが、創建は明治3年に遡ります。そもそもの役割は夜間照明のためのもので、常夜灯若しくは灯明台とも呼ばれ、当寺は品川沖を航行する船舶の目標ともなっていたものです。


明治初期に建造されたものなのですが、西洋風に方位盤や風見が付けられているにもかかわらず、日本的な燈籠の趣きも感じられる独特な風情を醸し出しています。


「高燈籠」をあとにして、いよいよ北の丸の入口に構える「田安門」へと向かいます。牛ケ淵に架かる橋を渡ると前方に高麗門が見えてきます。どっしりとした風格のあるこの門は現在、国指定重要文化財に指定されています。


大江戸散策徒然噺-田安門の高麗門


御門の造りは典型的な枡形門を表しています。創建は寛永13年(1636)といいますから三代将軍家光公の御世に遡ります。


田安門の名の由来は、当寺門内には田安台という百姓地があり、その敷地で田安大明神が祀られていたためその門名にしたといわれています。江戸城造営後は北丸と呼ばれ、代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となりました。有名な千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの敷地内にありました。


その後、享保15年(1730)に八代将軍吉宗の第二子宗武が御三卿の一つである田安家を興し、ここに屋敷を構えました。現在の北の丸公園のほぼ西側半分が田安家、そしてもう一つの御三卿である清水家が東側半分を占めていました。


大江戸散策徒然噺-田安門の渡櫓


高麗門をくぐると枡形の広場が現れ、高麗門とほぼ直角に渡櫓が構えています。堂々とした造りの渡櫓は現在江戸城に残る大手門の渡櫓に匹敵するほどの威容を誇っています。


大江戸散策徒然噺-田安門脇の狛犬


この渡櫓を抜けすぐ左手に一対の狛犬が鎮座しています。その狛犬が護る先へ石段が続いています。以前からこの石段の先には何があるのか疑問に思っていたので、ゆっくりと上っていきました。


石段を登りきると、やや広い方形の敷地が現れ、その敷地の中央に四本柱の四方吹き放ちの拝殿とその奥に御社殿らしき建物が一つ置かれています。


大江戸散策徒然噺-弥生廟の拝殿と社殿


実はこの社殿らしきものは「弥生廟」と呼ばれ、警察官・消防官の殉職者を祀るために置かれているものです。そうであればこれは神社なのかというとそうではないらしいのです。


大江戸散策徒然噺-弥生廟


そもそも弥生廟は明治18年(1885)、当時、本郷区(現、文京区)向ヶ岡弥生町にあった警視総監の邸内に弥生神社としてあったそうですが、昭和22年(1947)に現在地に移り、その時に「弥生廟」と名を改めたとあります。


なぜ神社から廟へと名を改めたかというと、終戦後の昭和20年12月にGHQよりのお達しで「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」すなわち「神道指令」により、警視庁による神社管理ができなくなったためでした。


このことは靖国神社の現在の境遇と似ているように思えますが、いずれも占領軍であったGHQによる神社神道の国家護持の廃止に伴う理不尽きわまる措置のように思えます。


大江戸散策徒然噺-昭和天皇御野立所碑


そして弥生廟の傍らに立つのが「昭和天皇御野立所」の石碑です。この碑の由来は実は先の関東大震災(大正12年)後の昭和5年3月26日に震災復興を祝う式典が皇居前広場で天皇陛下のご臨席のもと、挙行されたのですが、これに先立ち3月24日に陛下は東京下町の復興状況を約5時間にわたり視察されました。その第一歩を刻んだのがこの田安門脇の高台だあったことで、ここに「御野立所記念碑」が立てられました。


思えば、現天皇陛下もご高齢、ご病弱をおして精力的に東北の震災地を巡っておられるお姿を拝見するに、父君であられる昭和天皇も関東大震災の被害に心を痛めておられたご様子を伺い知ることができました。


北の丸の田安門に行かれる機会がございましたら、是非「弥生廟」の参拝と併せ、昭和天皇御野立所に立ち寄っていただくことをお勧めいたします。


田安門をあとに若葉の新緑が眩しい北の丸公園を散策しながら、清水門へと向かいます。北の丸公園からは向かうと清水門の渡櫓は幅の広い階段を下った場所に位置しています。


大江戸散策徒然噺-石段上から眺める清水門


創建は寛永元年(1624)といいますから、家光公が征夷大将軍になった年です。門名については,その昔この辺りに清水が湧き出ていたからとか、また古くはこの辺りに清水寺があったことから、清水門と呼んだと伝えられています。この門も国の重要文化財に指定されています。


大江戸散策徒然噺-清水門の渡櫓
大江戸散策徒然噺-石段下から眺める渡櫓


宝暦9年(1759)に9代将軍家重公の第二子重好に一家を創立させた際に、屋敷地の入口である清水門にちなんで清水家と称しました。また幕末の文久3年(1863)の本丸炎上の時には、14代将軍家茂公とその夫人和宮様(静寛院宮)は一時清水家の屋敷に移っていたといわれています。


大江戸散策徒然噺-清水門の渡櫓


歴史を感じさせるような石段を下りると重厚感を漂わす渡櫓が構えています。この門の造りも典型的な枡形門で、外敵を容易に進入させない頑強さを伺い知ることができます。


大江戸散策徒然噺-清水門の高麗門と渡櫓


皇居周辺の他の御門に比べると、その立地からなのかそれほど目立った存在ではないのですが、なにやら人知れずひっそりと構えるその佇まいと門をくぐって現れる石段の古さは当時の名残りを色濃くのこしている貴重な存在のように思えます。


大江戸散策徒然噺

たまたま地下鉄丸の内線の四谷三丁目で降りる機会を得て、以前からお参りしてみたいと思っていたお岩稲荷神社が近いことを知りぶらっと行ってみることにしました。


新宿通りと外苑東通りが交差する四谷三丁目交差点から四谷警察署の前を通り過ぎて、最初の角を左へ曲がり、突き当りを右へ進むと赤い幟が見えてきます。


大江戸散策徒然噺-田宮稲荷神社跡 田宮稲荷神社跡


狭い路地を挟んで進行方向の右側にまず現れるのが「田宮稲荷神社跡」なのですが、この場所自体があのお岩さんの婿である伊右門が住んでいた田宮邸なのです。そしてこの田宮の屋敷社に田宮於岩にあやかって「於岩」を合祀し、於岩稲荷と称されるようになったようです。鳥居の傍らに建つ柱には「於岩稲荷田宮神社」の文字を見ることができます。


大江戸散策徒然噺-田宮稲荷神社の鳥居 田宮稲荷神社跡


この神社の「於岩」とはあのお岩さんのことなのですが、実はこの女性は江戸時代の初期に、ここ四谷左門町で健気な一生を送った女性で、この女性の美徳を祀っているのがこの神社なのです。


怨霊となったお岩さんの噺があまりにも有名になってしまっているのですが、前述のようにお岩さんの美徳を祀っているこの神社には本来、福を招きいれ、商売繁盛のご利益があり、はたまた芸能の成功、興行の成功にはことさら霊験あらたかと言います。


大江戸散策徒然噺-田宮稲荷神社の社殿 田宮稲荷神社跡


鳥居の奥に社殿が鎮座しています。鳥居から眺める境内の雰囲気は怪談噺の舞台であるが故の先入観なのか、どうも陰気臭い空気が漂っているような気がします。玉垣にはこれまで四谷怪談を演じた多くの役者の方々が興行の成功を祈願したのか、役者の名を刻んだ玉垣が並んでいます。


ともあれ、お岩さんの美徳と商売繁盛を社殿前で祈願し辞することとしました。


しかし、この「於岩稲荷田宮神社」のはす向かいになんともう一つの「於岩稲荷」が現れます。山門には「於岩霊堂」 の扁額が掲げられ、寺名が「陽運寺」とあります。山門の両脇には「於岩稲荷」の提灯が吊るされていることから、まぎれもなく「お岩さん」を祀っていることがわかります。ただし、大きく異なるのが神社ではなく「寺」であることです。


大江戸散策徒然噺-陽運寺山門 於岩稲荷


さてはて至近に「於岩稲荷田宮神社」があるにもかかわらず、言ってみればそれこそ目と鼻の先にお岩さんを祀る寺があるのか不思議でなりません。調べてみると、こんな歴史がわかってきました。


大江戸散策徒然噺-陽運寺本堂 於岩稲荷


お岩さんが亡くなったのは江戸時代の初期の寛永13年(1636)のこと。古い話なのですが、それからおよそ200年後の文政8年(1825)にあの四世鶴屋南北の歌舞伎「東海道四谷怪談」が大当たりしたことから、ここ左門町にあったもともとのお岩稲荷にたくさんの江戸庶民が参詣に訪れました。江戸から明治へと時代が下り、明治5年にお岩稲荷をお岩さんの嫁ぎ先である田宮家の名をとり、田宮神社と改めました。ところが明治12年にこの田宮神社が火災で焼失したことで、中央区新川へ田宮神社を移転しています。田宮神社が移転してしまったことで、すぐそばにお堂を構えていた陽運寺が田宮神社と名乗り現在に至っています。


よって明治に新川に移ったのが「新田宮神社」でここ左門町に置かれている「於岩稲荷田宮神社」は旧地と呼ばれる所以だったのです。


大江戸散策徒然噺-お岩さん所縁の井戸
大江戸散策徒然噺-陽運寺の於岩稲荷


しかし、「鬼のいぬまに」を地で行く陽運寺さんの境内には「お岩様由縁(ゆかり)の井戸」 や 「於岩稲荷水かけ福寿菩薩像に南無妙法蓮華経のお題目を唱えながら水を掛けると、あなたの厄が除かれる」 などと書いた立て札が置かれています。


大江戸散策徒然噺

北の丸界隈の散策のあと、新緑に包まれる靖国へ詣でることにしました。大鳥居から本社殿へとつながる参道脇のイチョウの並木は初夏を告げる美しい緑の若葉を纏っています。


大江戸散策徒然噺-青銅大鳥居


いつもながら参道脇の駐車場は東京見物の大型バスでいっぱいになっていました。そんな光景を見ながら第二鳥居の手前左右に立つ大燈籠へと進んでいきます。

これまで何度となく靖国へは訪れているのですが、この大燈籠をつぶさに見ることなく通りすぎていました。よく見ると、基壇部分に見事なレリーフがはめ込まれています。

大燈籠は本社殿に向かって左右に置かれていますが、右側の燈籠基壇には我が大日本帝国海軍が活躍した日清戦争から満州事変までの間の戦闘場面、左側の燈籠基壇には陸軍の戦闘場面を描いたレリーフがはめ込まれています。

終戦直後にGHQによって撤去されそうになったのですが、レリーフを隠す工事を施して逃れることができたといいます。それもそのはずで描かれている場面は我が帝国海軍と陸軍が勝利を収めた戦闘場面ばかりですから、GHQも見過ごすわけにはいかなかったのでしょう。

そんなレリーフの中から右側の帝国海軍の名場面を2枚ご紹介しましょう。一枚目は日露戦争のときの日本海海戦・戦艦三笠艦橋の東郷元帥閣下と二枚目が同じく日露戦争のときの第二回旅順口閉塞の広瀬中佐の場面です。


大江戸散策徒然噺-戦艦三笠艦橋の東郷元帥閣下
大江戸散策徒然噺-旅順口閉塞の広瀬中佐

NHKのドラマ「坂の上の雲」の中でも印象に残ったロシアバルチック艦隊を殲滅した日本海海戦の東郷元帥と旅順口閉塞作戦で戦死された広瀬中佐の場面が蘇ってきました。

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、 それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。とたとえた名文がふと頭によぎった瞬間でした。


大江戸散策徒然噺-神門


神門をくぐり本社殿で参拝を済ませ、参集殿脇の遊就館へ向かいます。遊就館はこれまでに何度も入館し、我が国の戦争の歴史をつぶさに見させていただいております。そんな遊就館の展示物を見るにつけ、唯一心が痛むのが先の大戦に関わる展示物なのです。

坂の上の雲の一朶(いちだ)の白い雲を追い求め、欧米列強と肩を並べることができた我が国日本が亜細亜の雄に駆け上がった時から、その優秀さをうとんじられ、その結果としてやむにやまれず開戦せざるを得なかった先の大戦の展示は涙なくしては見ることができません。

戦争を美化する気持ちはもうとうありませんが、当時の方々が祖国日本を守るために選択せざるを得なかった「戦争」を知る上で、是非ご覧いただきたいのが「遊就館」です。


大江戸散策徒然噺-零戦の雄姿
大江戸散策徒然噺-名機ゼロ戦
大江戸散策徒然噺-ゼロ戦よ、永遠に!

その遊就館のロビーに展示されているのが日本帝国海軍が誇った名機「零戦」です。戦争を知らない世代である「私」ですが、零戦を見るにつけ、極限までに無駄をそぎおとしたその美しいフォルムの中に、向かうところ敵なしと謳われた零戦の性能の良さを感じることができます。こんな優れた名機を持ちながら……、と思うのは私だけでしょうか?


大江戸散策徒然噺-蒸気機関車(C56型31号)


さらにロビーには昭和18年にタイ(泰)とビルマ(緬)を結んだ泰緬鉄道の開通式に参加した蒸気機関車(C56型31号)が展示されています。

※遊就館
開館時間:09:00~17:00
休館日:原則として年中無休
拝観料:大人800円・大学生500円・高校/中学生300円・小学生100円


大江戸散策徒然噺

開幕まもない慶長6年(1601)に家康公は江戸を基点する街道の整備に着手しました。その当時、日本橋を起点とする甲州街道の最初の宿場は日本橋から約4里の距離にある「高井戸」に設けられていました。

江戸四宿の品川、千住、板橋の各宿は日本橋から約2里の距離にあったのですが、甲州道中の高井戸宿だけが4里と遠く離れていました。そのためさまざま不便さを強いられていたのですが、江戸の中心から4里も離れている高井戸宿はその後90約100年にわたり、江戸からの第一宿として栄えていました。

その不便を解消するべく元禄の10年(1697)に浅草の商人たちが日本橋と高井戸間に新しい宿場の開設を幕府に請願することとなったのです。そして翌年の元禄11年(1698)に宿場の開設を許可し、日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に新たな宿場が設けられることになりました。正式には元禄12年(1699)に内藤新宿が開設されました。


大江戸散策徒然噺-江戸六地蔵三番 太宗寺江戸六地蔵


そんな内藤新宿にお堂を構えるのが浄土宗の寺である「太宗寺」です。当寺は内藤新宿の真ん中に位置する中町にお堂を構える寺で、創建は古く慶長年間(1596~1614)の頃といわれています。歴史を遡ると寛永6年(1629)に内藤家四代の正勝が没して、はじめて太宗寺に葬られ、五代重頼が開基となっています。墓域の一画に内藤家の大きな墓所があります。山門を入ると最初に目に付くのが右手にある大きな地蔵尊です。


大江戸散策徒然噺-江戸六地蔵三番 太宗寺江戸六地蔵

これが金銅大地蔵尊と呼ばれる地蔵で、俗に言う「江戸六地蔵」の三番目にあたります。江戸の六地蔵とは江戸の出入り口にあたる街道筋に置かれた地蔵で、旅人の安全を祈願するために造立されたものです。ここ太宗寺の地蔵は甲州道中を旅する人たちの安全を長く見守ってきたもので、江戸時代の正徳2年(1712)に造られました。


大江戸散策徒然噺-閻魔堂 閻魔堂


大きなお地蔵様の左手に江戸の三閻魔の一つである太宗寺の閻魔堂があります。都内最大の閻魔像は高さが5.5mもあります。お堂の中は薄暗いのですが、一眼レフのデジカメの絞りを全開しフラッシュなしでお堂の中を撮ってみました。すると色鮮やかな閻魔様が現れました。


大江戸散策徒然噺-閻魔様 閻魔様


閻魔堂と対峙するように建つのが不動堂です。この不動堂と稲荷神社の間にところどころ白くなっている像が安置されている祠があります。これが太宗寺の「塩かけ地蔵」です。足立区の西新井大師の境内にも似たような地蔵さんがありましたが、ここ太宗寺にも同様の地蔵さんが鎮座しています。


大江戸散策徒然噺-不動堂 不動堂
大江戸散策徒然噺-塩かけ地蔵 塩かけ地蔵


この塩かけ地蔵は「おでき」にご利益があると言われ、地蔵さんにかけられた塩を持ち帰り、患部に塩を擦り込むとおできが治るそうです。まあ、塩には消毒作用があるのでおできにも効果があるのかもしれませんが、傷口に塩を擦り込むこと自体かなり痛そうですが…。

喧騒渦巻く新宿にあって、ここ太宗寺の境内だけは古刹の佇まいと静かな空気が流れていました。

浄土宗霞関山本覚院太宗寺
新宿区新宿2-9-2
03-3356-7731


大江戸散策徒然噺

どんよりとした雲に覆われた梅雨の季節とはいえ、蒸し暑さというよりか肌寒さを感じる今日この頃、やっと梅雨の晴れ間が訪れました。

久しぶりに隅田河岸までマウンテンバイクを走らせ、下町深川の風情を楽しんできました。まずは新緑の木々に覆われた深川の総鎮守である富岡八幡宮へ参詣しました。雲間から射し込む光に社殿全体が明るく輝いています。本殿の背後にうっそうと茂る木々の緑と社殿の朱色が美しいコントラストを描いています。


大江戸散策徒然噺-富岡八幡宮の社殿 富岡八幡宮本社殿


富岡八幡宮をあとに清澄通りを屋上するのですが、途中深川の閻魔様が鎮座する法乗院さんへ。さっそく閻魔堂の閻魔様にご挨拶し、お賽銭を投げ入れ、ありがたい閻魔様のお告げを頂戴しました。


大江戸散策徒然噺-法乗院閻魔堂 閻魔堂
大江戸散策徒然噺-閻魔様 閻魔様

※ここ法乗院の閻魔様は参拝者が希望する祈願に音声で応えてくれます。ありがたいお告げを聞く場合に聞きたいお告げが書かれている筒へお賽銭を投げ入れると自動的に音声が流れてきます。なんともハイテクな閻魔様なのです。

法乗院の閻魔様としばらくぶりの対面を楽しんだあと、清澄白河の名園「清澄庭園」へと向かいます。ちょうど園内の菖蒲園は「花菖蒲」がほぼ満開とのことで、平日にもかかわらず来園者で賑わっています。

園内は初夏を感じさせる木々の緑に覆われ、その濃い緑が池の水面に映える様子はこの季節ならではの美しい光景を描き出しています。菖蒲園は園の一番奥に置かれています。


大江戸散策徒然噺-池の端の涼亭 清澄庭園「涼亭」


色とりどりといっても白と紫の二種類の菖蒲の花が初夏の日差しに美しく輝いています。遠目からみるとややグラデーション気味に白色と紫色に濃淡がかかっているように思われます。菖蒲の緑の葉と白と紫の花の絶妙なコントラストを楽しめます。賑やかな清澄通りの喧騒から隔絶された静かな空間の中で、美しい緑と菖蒲の花を楽しんでひとときでした。


大江戸散策徒然噺-菖蒲園景1 菖蒲園
大江戸散策徒然噺-菖蒲園景2
大江戸散策徒然噺-菖蒲園景3


このあと、清澄庭園からさほど離れていない霊厳寺の江戸六地蔵へお参りをしてから、隅田川岸の芭蕉翁像に会いに行くことにしました。芭蕉翁はちょうど小名木川が隅田川に注ぎ込む河岸に造られた芭蕉記念館の展望公園に置かれています。目の前にゆったりとした流れの隅田川、下流には流麗な姿の清洲橋、その向こうには中央区側のビル群が立ち並び、水面にはひっきりなしに船が行き交うというまるで絵葉書を見ているような景色を楽しめます。


大江戸散策徒然噺-霊厳寺の江戸六地蔵 霊厳寺の江戸六地蔵
大江戸散策徒然噺-隅田河畔の芭蕉像 隅田川を望む芭蕉翁

なぜこんな所に芭蕉翁の像が置かれているかって? 実はお江戸の時代、それも元禄時代に芭蕉翁はちょうど像が置かれているあたりに庵を結んでいたのです。そしてここ深川から奥の細道の旅にも出立しています。また春の桜の季節に詠んだ「花の雲、鐘は上野か浅草か」はここ深川の芭蕉庵から浅草方面を眺めた情景を詠ったものだと言われています。


大江戸散策徒然噺-隅田川と清洲橋遠望 隅田川眺望


久しぶりの梅雨の晴れ間の日差しに、芭蕉翁もほんの少し眩しげな様子で隅田川を眺めていました。


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