大江戸散策徒然噺

大江戸散策徒然噺

大都市の中のお江戸の名残りを紹介します。江戸時代260年にまつわる日本全国の歴史散策をお楽しみください。

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統監道(とうかんみち)を辿ると、大磯中学校前信号の先にある横断歩道橋の袂にでてきます。そのまま国道一号線に沿って右側を進んでいいのですが、大磯名物の松並木の風情を間近に感じるためには左側を進むべきでしょう。というのは旧東海道の本来の道筋は西へ向かう下り車線側なのです。


若干の足の疲れを感じながら歩道橋の階段を上り橋上にでると、下り車線側に沿って見事な松並木が目に飛び込んできます。


大江戸散策徒然噺 歩道橋上から見る松並木


橋上からは松並木が延々と続いているようにみえるのですが、およそ300mに渡って街道らしさを味わえる道筋のようです。


松並木が始まる場所の左側には大磯中学校の長い塀が続いています。この大磯中学校の敷地はかつて第3代・9代の内閣総理大臣を務めた山県有朋の別荘「小淘庵 ( おゆるぎあん )」があった場所です。


中学校の塀が始まる辺りからこれまでの街道巡りの中で初めて見るような大きな幹回りの松ノ木が現れます。樹齢300年以上と言われる大木で、幹の直径がなんと1m超えという古木です。


大江戸散策徒然噺 東海道の歴史を物語る松の年輪

大江戸散策徒然噺 松並木
大江戸散策徒然噺 街道の松

その昔、街道を旅する人たちは相模湾の潮風を袂に、キラキラと輝く海原と遥か彼方に見える島影を眺めながら小田原への旅路を急いでいたと思うと感慨深いものがあります。


そして海風で幹が傾き、さらに幹がグニュ~と曲がった「そなれの松(磯馴松)」が1本立っています。


大江戸散策徒然噺 そなれの松(磯馴松)

この「そなれの松」は江戸時代の文久2年(1862)に市村座で初演された『白浪五人男』の一人である南郷力丸(なんごうりきまる)の「渡り科白」の中で鎌倉から大磯に至る湘南の地名の一つとして出てきます。
その一説は「さてどんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯馴(そなれ)の松の曲りなり……」です。


さらにこの科白の中の「小ゆるぎ」の「ゆるぎ」とは波の動揺を表す言葉ですが、かつて現在の大磯町と二宮町は相模国余綾郡(ゆるぎぐん)と呼ばれていました。そして今でも大磯から国府津あたりまでの海浜一帯を「こゆるぎの浜」と呼んでいます。


「こゆるぎ」とは何とも響きのいい名前です。広々とした相模湾のゆったりとした波間と波頭を照らす陽射しがキラキラと揺れるさまは「こゆるぎ」の名にふさわしいものです。


大磯中学校が途切れると次のブロックには古河電工の大磯荘の入口が現れます。ここはかつて旧陸奥宗光邸と旧大隈重信邸を併せた敷地で、二人の邸宅を旧古河財閥の古河市兵衛が買い取ったものです。


古河電工の大磯荘の長い塀沿いの松並木を歩くと、次に大磯プレイスと呼ばれるリゾートマンションが現れます。ここは旧佐賀藩主である鍋島直大(なおひろ)の邸宅があった場所です。

そして大磯プレイスを過ぎると左手に大きく開けたスペースが現れ、今は何も使われていない建物がど~んと構えています。

ここが大磯で最も有名な邸宅である伊藤博文公の滄浪閣があった場所です。歩道に面して「滄浪閣跡」の石柱が置かれていますが、かつての建物は今はなく、この場所は昭和26年(1951)に西武鉄道に売却され、1954年には大磯プリンスホテルの別館となり、2007年まで西武グループとして営業を続けてきました。その後、当施設は売却されることが決定され、大手建設会社が交渉権を得ることになりました。


大江戸散策徒然噺 滄浪閣跡碑


しかし歴史的建造物として大磯町が25億円で買収計画を立てましたが、建設会社の提示価格と大きな開きがあることから大磯町は買収を断念しています。今後は新たな所有者に保存を要望することとなりますが、荒れ果てた滄浪閣は何も語らず寂しそうに佇んでいます。


旧滄浪閣の次のブロックにはなにやら由緒ありそうではあるのですが、誰にも使われず廃墟のような雰囲気を漂わす洋館が一つ建っています。この場所がかつて西園寺公望の別邸があった場所です。


さきほどの旧滄浪閣と旧西園寺公望の別邸の境目に細い路地が海岸へ向かって180mほど伸びています。舗装もされない海岸へと延びる道なのですが、路地からは滄浪閣と西園寺公望邸の荒れ果てた敷地を垣間見ることができます。


大江戸散策徒然噺 大磯こゆるぎ緑地

路地を進むうちに、ふいに前方が開け美しい相模湾が目の前に現れます。これまでの道中で初めて出会う海原です。実は路地を進むと現れるのが「大磯こゆるぎ緑地」と呼ばれる海岸を見下ろす高台の遊歩道だったのです。


大江戸散策徒然噺 大磯こゆるぎ緑地


緑地といっても松の木がたくさん植えられているわけではないのですが、晴れているときはなだらかに湾曲する湘南の浜と沖合には大島をはじめ伊豆七島の島影、そして右へ目を移すと伊豆半島のシルエットがまるで絵葉書を見ているような美しさで眼前に展開します。


わずか120mほどの遊歩道ですが、後ろ髪を引かれる思いで本来の旧街道へと戻ることにしました。

旧街道に戻るとあの美しい松並木も途切れてしまいました。


其の四へつづく


大江戸散策徒然噺

ご存知のようにここ大磯は明治政界の奥座敷と呼ばれるほど多くの名だたる政治家が本宅や別荘を建てて移り住んだ場所なのです。


そもそも大磯が注目されるきっかけとなるのは、明治18年(1885)に松本順が大磯海水浴場を開設したことに始まります。そして松本順の人脈から風光明媚な大磯に別荘を持つことがトレンドとなり、当時華族に列せられた旧公家や旧大名、財閥そして明治政府高級官僚の間に大磯に別荘を持つことが一つのステータスとなっていたようです。この明治18年を機に第一次の別荘建設時期が始まります。


大江戸散策徒然噺 伊藤博文邸「滄浪閣」跡


その先駆けとして明治20年には第3代・9代の内閣総理大臣を務めた山県有朋が別荘「小淘庵 ( おゆるぎあん )」を建設、その後、林 董 ( 外務大臣、松本順実弟 )、 後藤象二郎 ( 逓信大臣、農商務大臣 )、浅野総一郎 ( 浅野財閥 )、大倉喜八郎 ( 大倉財閥 )、樺山資紀 ( 海軍大将、白洲正子の祖父 )、岩崎弥之助 ( 三菱財閥 2 代目 )、山内豊景 ( 旧土佐藩主家当主 )、徳川義禮 ( 旧尾張藩主家当主 )、ジョサイア・コンドル ( 建築家 ) といった錚々たる人物たちがここ大磯に別荘を建設していったのです。


さらに別荘建設ラッシュは明治27年から30年代にかけてつづきますが、この期間に明治の政界を彩った政治家たちの別荘建設が集中します。


ちなみに明治27年 陸奥宗光 ( 外務大臣 ) 、明治29年 伊藤博文:滄浪閣(初代、第5・7・10代内閣総理大臣)、原敬 ( 第19代内閣総理大臣 )、鍋島直弘 ( 旧佐賀藩主家当主 )、明治30年 大隈重信(第8・17代内閣総理大臣) 、明治31年 三井高棟 ( 三井財閥 ) の城山荘 、明治32年 西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣)の隣荘(伊藤博文の滄浪閣の隣に建築されたことより「隣荘」)、尾上菊五郎 ( 歌舞伎役者 )、明治34年 古河市兵衛 ( 古河財閥 ) 、明治35年 加藤高明 ( 第24代内閣総理大臣 ) 、明治39年 三井守之助 ( 三井財閥 )、真田幸正 ( 旧松代藩主家当主 )とまさに当時の日本の政治、経済がここ大磯で決定されていたのではないかと思われるような様相を呈しています。


そして明治後期から大正以降になるとさらに別荘の数は増えていくのですが、以前に別荘を構えていた著名人の中には大磯から転出していく人たちも増えたといいます。その代りに転入する者は実業家を中心とした中産階級が目立ち始めるのがこの時期の特徴のようです。


別荘銀座と言っても過言ではない大磯も大正12年の大震災で多くの別荘が被害を受け、その数は半減したといいます。そして戦後は公職追放、財閥解体、財産税徴収により上流階級の別荘は売却され、それまでのような華やかさは失われていきます。…が戦後、あのワンマン宰相と謳われた吉田茂がここ大磯の邸宅に住んでいたことはあまりにも有名な話です。


そんな大磯をこよなく愛した一人の文化人がいます。それが島崎藤村です。

四季の移り変わりが楽しめ、温暖であること。そして簡素であるものの凝った造りの建物を求めて大磯にやってきた藤村は大磯市内で和菓子屋を経営する「新杵」所有の貸家に移り住んできたのが昭和16年のことです。


その家が東海道からおよそ90mほど奥まった場所に今でも当時の姿のままで残されています。ちょうど江戸時代の京口にあたる場所の手前50mほどのところにある大磯町消防団第三分団の建物の角の狭い路地を入っていくと、竹垣に囲まれた民家が現れます。


大江戸散策徒然噺 島崎藤村邸の竹垣


竹垣越しにちょうど季節に似合うようにたわわに実がついたミカンの木を見ることができました。邸への入口は可愛らしい門構えですが、門屋根にはなにやら草らしきものがびっしりと生えています。よく見ると「シダ」の種類ではないでしょうか。


大江戸散策徒然噺 竹垣越しのミカンの木
大江戸散策徒然噺 島崎藤村邸の門構え
大江戸散策徒然噺 門屋根の草

鴨居の低い門をくぐり小さな庭へと入っていきます。その庭に面して四畳半程度の小さな部屋があり、茶室と見まがうほどのつつましやかな床の間が備えつけられています。実はこの部屋が藤村が執筆を行っていた書斎とのことです。


大江戸散策徒然噺 藤村邸
大江戸散策徒然噺 藤村邸の佇まい

邸の管理者に聞くと、震災にも戦災にもそれほど大きな被害を受けていないとのこと。縁側に嵌められているガラス戸のガラスはなんと当時のもので、当時の製造技術のせいでしょうか、若干の「歪み」とガラス表面にはところどころ「窪み」すら窺うことができます。


見たところわずか三室しかない小さな家なのですが、あの文豪が住んだ家としてはあまりにも質素という印象です。この家からは相模湾の大海原も見えないし、おそらく浜に打ち寄せる波音も聞こえない。ちょうど邸の裏手にJR線路が走っているので、当時は機関車の汽笛と車輪の音が文筆の友だったのかもしれません。


それでは藤村邸をあとに東海道の旅をつづけることにしますが、東海道筋に戻る道筋はかつて伊藤博文が滄浪閣(別荘)から大磯駅へと通じる専用道路として使われていた「統監道(とうかんみち)」を辿ることにしました。

大江戸散策徒然噺

冬晴れのもと、北西の寒風が肌をさすこの日お江戸から数えて8番目の宿場町である大磯宿を起点に二宮(梅沢)を経由して国府津までの10㌔の街道めぐりを下見を兼ねて楽しみました。


私たちの東海道中は今年の4月に始まり、今月12月でお江戸日本橋から16里27町(65.8㌔)に位置する大磯宿まで踏破しました。いよいよ道中最大の難所である箱根越えまであとわずかと迫ってきました。


本来の東海道中の宿場間の旅であれば、大磯宿の次の宿場町は小田原なのですが、その宿間の距離はなんと4里(15.7㌔)と長く、私たちの年齢そして体力的な問題から1日で踏破するのはかなり至難の業。ということで、今回は小田原からはかなり手前の国府津までのおよそ10㌔を歩くことにしました。


瀟洒な雰囲気を醸し出しているJR大磯駅から旧街道へと通じる坂道を下ると大磯駅前交差点にさしかかります。この交差点はあの箱根駅伝が再び国道一号線に合流する場所で、ここから国道一号線を辿り二宮、国府津、鴨宮、小田原そして箱根へと至ることになります。


私たちはこの大磯駅前交差点を左折していよいよ国府津までの東海道中を歩むことにします。

電信柱や電線が地中化されているためか、旧街道の町並みはすっきりとし、高層の建物がないため空が広く感じられます。交差点から東海道中を進むこと120mで、街道の左側に穐葉神社の小さな祠が現れます。その祠の左側には延台寺の参道と奥に山門が立っています。


大江戸散策徒然噺 延台寺山門


延台寺はここ大磯を代表する歴史的な人物である「虎御前」ゆかりの古刹です。開基は関ヶ原の戦いの前年の慶長4年(1599)に遡ります。山門から境内に入ると正面に曽我堂、左手には石段の上にご本堂が置かれています。


大江戸散策徒然噺 延台寺ご本堂


当寺が開基される遥か昔、ここは曾我兄弟の仇討にゆかりが深く、鎌倉時代の舞の名手であった伝説の美女虎御前(虎女)が兄弟を偲んで庵を結んだ場所と伝えられています。そんな延台寺には曾我兄弟の兄、十郎佑成の「身代り石」と伝えられる御霊石「虎御石」をはじめ虎池弁財天(平安時代)、曽我兄弟座像、虎御前19歳剃髪之像などが法虎庵曽我堂に納められています。

曽我堂の扉は固く閉ざされ、ガラス戸の奥には「身代わり石」と伝えられる「虎御石」が布に覆われて鎮座しています。


大江戸散策徒然噺 法虎庵曽我堂


また境内には虎御前供養塔や大磯宿遊女の墓が置かれています。


大江戸散策徒然噺 虎御前供養塔


延台寺をあとにして再び東海道筋へ戻り、進行方向右側を進んで行きます。大磯宿内の家並みは長さ11町52間(1・3㎞)と比較的小さな宿場町で、江戸後期の人口は3056人、家数は676軒、三つの本陣と66軒の旅龍が街道の両側に並んでいました。江戸方見付は化粧坂(けわいざか)と山王町の間、上方見付は鴫立庵(しぎたつあん)を過ぎてしばらく行った地点にあったとされていますが、現在、その跡はまったく残っていません。


そんな宿場町にまず現れるのが北組問屋場跡です。つぎに蕎麦屋の前に「本陣」の解説板が立っていて、大磯宿小島本陣絵図などが載っています。この辺りに小島本陣があったのだそうですが、大磯宿にはこの他にも尾上本陣と石井本陣があったようです。


大江戸散策徒然噺 小島本陣跡

大磯消防署前交差点まで来ると、角に「明治のまちコース」の標柱が立っています。そして右手の道は「地福寺0.1km」となっています。それでは地福寺へ行ってみることにしましょう。


大江戸散策徒然噺 地福寺ご本堂


地福寺は真言宗のお寺で、承和四年(837)の創建と伝えられています。境内には大磯町指定文化財に指定されている「木造弘法大師座像」が在ります。


そして当寺の名を知らしめているのが「破戒」「夜明け前」など多くの名作を残した文豪「島崎藤村の墓」があることです。山門をくぐった左手に梅の老木に囲まれたように藤村の墓が置かれています。


大江戸散策徒然噺 島崎藤村之墓
大江戸散策徒然噺 梅の古木に囲まれた藤村之墓

島崎藤村は代々中山道馬籠宿の本陣、庄屋を務めた家に生まれ、のちに郷里において牢死した国学者の父をモデルに『夜明け前』を執筆しました。大磯町には最晩年に疎開のため移転し、地福寺の墓所近くにある白梅の古木を愛したといいます。


地福寺をあとにして国道1号を進んでいくと、大磯町消防本部の道路向い(右側)の中南信用金庫の前に「大磯小学校発祥之地・尾上本陣跡」と刻まれた石標が立っています。


尾上本陣跡を過ぎて照ヶ崎海岸入口交差点の手前に明治24年創業の老舗の菓子店「新杵(しんきね)」が店を構えています。


大江戸散策徒然噺 和菓子「新杵」


古い商家の佇まいを見せる新杵の名物は藤村や吉田茂にも愛された伝統の虎子饅頭と西行饅頭です。虎子饅頭はこの地の出身の遊女・虎御前に因んだ饅頭で、見返り姿の虎の焼印が押してあります。
虎子饅頭(1個110円)、西行饅頭(1個120円)
電話: 0463-61-0461
定休日: 火曜日、水曜日


照ヶ崎海岸入口交差点までくると、道が分かれていく間に樹木の生える一角があります。
植込の中には「新嶋襄先生終焉之地」と刻まれた石碑が立っています。
帝国四大私塾のひとつに数えられる同志社を創立し、自身明治六大教育家に数えられた新島襄終焉の地。

大江戸散策徒然噺 新島襄終焉の地碑
大江戸散策徒然噺 徳富蘇峰筆の新島襄終焉の地碑

大学設立準備中に結核を患った新島襄は、明治22年(1889年)徳富蘇峰の勧めで大磯町の百足屋旅館別館愛松園(現愛宕神社下)に滞在し、療養生活を送りました。

しかし、翌明治23年(1890年)1月21日、各方面に口述筆記で遺言を託し他界。
享年46歳。碑は徳富蘇峰の筆によるもので、旧百足屋旅館の玄関があったといわれる場所に建てられました。百足屋旅館の主人宮代謙吉は大磯町5代目町長を務めた人物で、松本順の支援者でもあり、松本順もこの百足屋に宿泊しています。
松本順は日本で初めて大磯を海水浴場に指定した人です。


尚、来年のNHK大河ドラマでは新島襄の奥様である「八重夫人」を描いた「八重の桜」が予定されています。そんなことで大磯町役場には同志社大学が編集した小冊子を無料で配布していました。


大江戸散策徒然噺


「新嶋襄先生終焉之地」から100mほどのさざれ石交差点の左手に、明治11年創業の老舗「井上蒲鉾店」が店を構えています。そして「井上蒲鉾店」から120mほど行った旧街道の左側に「西行法師」ゆかりの「鴫立庵(しぎたつあん)があります。


大江戸散策徒然噺 鴫立庵入口
大江戸散策徒然噺 鴫立庵


西行法師は東国行脚の際に、この場所で「心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮」の句を詠んだと言われています。


鴫立庵はそもそも江戸時代の初期に小田原の外郎(ういろう)の子孫と言われる「崇雪」という俳人が西行を慕って、ここ大磯之鴫立沢(しぎたつさわ)のほとりに草庵を建てたことに始まります。その後「鴫立庵」と呼ばれるようになったのです。

崇雪は鴫立庵の脇に「著盡湘南清絶地(あきらかにしょうなんはせいぜつをつくすのち)」という標柱(寛文4年・1664年建立)を建てたことから、この付近を湘南と呼ぶ様になったとの説もあります。


大江戸散策徒然噺 湘南発祥之地碑


湘南という地名は中国湖南省にある洞庭湖のほとり 湘江の南側を湘南といい, 大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれるようになりました。

そしてここ鴫立庵は京都の落柿舎(らくししゃ)、滋賀の無名庵(むみょうあん)と並び日本三大俳諧道場の一つとして知られています。庵は瀟洒な味わいの造りで、風情に溢れています。歴代俳諧重鎮が江戸時代より現在に到るまで、この庵に在住してここを守っています。現在の庵主は22世鍵和田氏という方です。 ※入庵料:大人100円・子供50円


鴫立庵をあとに左手の大磯町役場を見ながら東海道を進むと、左手に黒門を構えるのが料亭「翠渓荘」です。かつて岩倉使節団に随行した林董(はやしただす)の邸宅だったところです。そしてその先の統監道(とうかんみち)バス停の歩道脇に「上方見附」の解説版が立っています。ここで大磯宿は終わり次の宿場町である小田原へと街道がつづいていきます


大江戸散策徒然噺 料亭「翠渓荘」の黒門
大江戸散策徒然噺 料亭「翠渓荘」への道


※統監道(とうかんみち)
伊藤博文公は晩年、朝鮮総統を務めましたが、伊藤邸(滄浪閣)と大磯駅との間の道路を住民が整備して造った専用道路の名称です。


大江戸散策徒然噺

師走の恒例行事であるお江戸下町の浅草観音(浅草寺)境内の歳の市として知られる羽子板市が昨日17日から開催されています。


大江戸散策徒然噺 雷門
大江戸散策徒然噺 雷門から仲見世通り


昨夜来の雨も上がり、寒さも和らいだ今日18日の中日に早速歳の市へと出かけてみました。縁日にかぎらず多くの人で賑わう浅草は雷門から仲見世通りはいつもながらの老若男女と外国人でごった返しています。


仲見世通りには初春を迎える縁起飾りがすでに取り付けられて、まもなくやってくる新年の準備が着々と進んでいるようです。


大江戸散策徒然噺 飾り付け1

大江戸散策徒然噺 飾り付け2


賑やかな仲見世通りを抜けると大きな宝蔵門と美しい姿の五重塔が迎えてくれます。ここも人、人、人で溢れ返っています。


大江戸散策徒然噺 宝蔵門
大江戸散策徒然噺 宝蔵門と五重塔

まずはこの一年間つつがなく無病息災で過ごせたお礼に観音様がいらっしゃるご本堂にお参りを済ませ、羽子板市の露店が並ぶ境内の一角へと進んでいきます。


大江戸散策徒然噺 浅草寺ご本堂
大江戸散策徒然噺 羽子板市の露天


いくつもの露店が集中して並ぶ一角は大勢の人たちで溢れかえり、処々で羽子板職人との威勢のいい掛け合いと商談成立の手打ちが聞こえてきます。


大江戸散策徒然噺 羽子板市1
大江戸散策徒然噺 羽子板市2
大江戸散策徒然噺 羽子板市3
大江戸散策徒然噺 羽子板市4


お江戸の風物詩である羽子板市は江戸っ子が好む「縁起物」として愛されてきたのですが、併せて女子が生まれた家に羽子板を贈る風習も江戸後期頃からできたようです。


毎年、羽子板市にはその年に起こった出来事や、活躍した人物などをデザインしたものが並ぶのですが、今年はそれほど目立ったものもなく、オーソドックスなデザインのものが並んでいます。


大江戸散策徒然噺


先日の選挙で政権交代となった大きな出来事をデザインしたものがあるかと思ったのですがありませんでした。おそらく羽子板造りが間に合わなかったのでは……?!


大江戸散策徒然噺

平成19年(2007)から始まった東京駅丸の内駅舎の保存・復元工事がほぼ終わり、期間中駅舎の周囲に張り巡らされていた目隠しが取り払われ、流麗、華麗な貴婦人のような姿がお披露目されました。


大江戸散策徒然噺


大正3年(1914)に創建された旧駅舎は昭和20年(1945)の米軍の空襲で、駅舎のシンボルでもあった南北のドームと駅舎全体の屋根さらには内装すべてが焼失するという不幸に見舞われました。戦後、駅舎の復興が行われたのですが、かつての姿は失われ、創建当時の美しい姿は忘れ去られていました。


大江戸散策徒然噺


明治ご維新後、都が京都から東京へ遷都され、帝がお住まいになる帝都として「東京」の顔であったかつての赤煉瓦造りの東京駅の姿は陛下がお住まいになる皇居の南を守る神獣「朱雀」のような存在だったのではないでしょうか。


大江戸散策徒然噺


そして戦災で傷ついた朱雀は60年以上の長きに亘ってその傷を癒し続け、今まさにフェニックス(不死鳥)のごとく蘇ったのです。


大江戸散策徒然噺
大江戸散策徒然噺
大江戸散策徒然噺


東京駅丸の内側の丸ビルや中央郵便局が高層ビルへと変貌し、その景観を大きく変貌しました。近代的な高層ビルに囲まれた丸の内駅舎は古き良き時代を今そして未来へと伝える貴重な歴史的建造物として存在感を増していくのではないでしょうか。

秋・9月、10月、11月の歴史散策コースの日程を発表しました!大江戸散策徒然噺