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大江戸散策徒然噺

大都市の中のお江戸の名残りを紹介します。江戸時代260年にまつわる日本全国の歴史散策をお楽しみください。

かつての旧東海道の道筋である現在の伝馬通りから駅よりに入ったところに山門を構えるのが、かつて二十八もの末寺を抱えた臨済宗妙心寺派の名刹「寶泰寺」です。


大江戸散策徒然噺-寶泰寺の通常門 通常門
大江戸散策徒然噺-寶泰寺の正門 正門


路地に面して「通常門」と「正門」が並び、それなりの格式と規模を今に伝えています。通常門から境内へと進むと立派な「客殿」が目に飛び込んできます。なかなかの建造物で京都の妙心寺の大庫裡を模して建てられたと言います。


大江戸散策徒然噺-客殿 客殿


ここ寶泰寺は江戸時代には東海道を旅して江戸へ下る朝鮮通信使や琉球使節団の正副司が宿泊や休憩に利用した寺で、朝鮮通信使たちからは「綺麗第一」と称賛された庭があります。そんな庭を代表するのが通常門を入って左手に造られた枯山水の石庭です。


大江戸散策徒然噺-枯山水の庭 枯山水の庭


その石庭に対峙して「上池」と「下池」の美しい2つの池が置かれています。おそらく前述の枯山水の庭やこの池を見た外国の使節団はその美しさに驚嘆したのでしょう。


大江戸散策徒然噺-上池 上池
大江戸散策徒然噺-下池 下池

上池と下池の間に架けられた石橋を渡るとご本堂が構えています。当寺はそもそも真言密教の道場として開かれた歴史を持っています。永徳元年(1381)に後醍醐天皇の皇子である無文天選禅師により、禅宗の寺となり、1557(永禄10)年、雪峰禅師により臨済宗妙心寺派の寺となりました。その当時の寺領はなんと1万平方メートルの広さを持ち、現在のJR静岡駅あたりまで含んでいたそうです。


大江戸散策徒然噺-ご本堂 本堂


そして寺勢は盛んとなり、巨龜山清見興国禅寺、駿府市内の臨済時と並んで「駿河三刹」と呼ばれるほどの名刹となったのです。

長い歴史の中で当寺も度重なる災難から逃れることができなかったのでしょう。境内の伽藍は比較的新しく、歴史を感じさせるようないぶし銀の輝きはありません。しかし、江戸時代には幕府直轄地としてのご威光を背景に駿府城下の禅宗寺院としてその寺勢を如何なく発揮していた名残りをわずかながら感じることができたひとときでした。


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駿府市内を横切る旧街道は現在は伝馬通りという名前に変わっています。その伝馬通りを東へ下ること徒歩約5分ほどの距離に古刹「華陽院(けよういん)」があります。


大江戸散策徒然噺-華陽院本堂 本堂


華陽院の創建は古く永正9年(1512)に遡り、知短(ちたん)上人開基による真言宗の寺で知源院(ちげんいん)と呼ばれていました。慶長14年(1609)、徳川家康が大御所として駿河に引退し、源応尼(げんおうに:家康の祖母)の50回忌の法要を営んだ際、その法名から寺名を改め華陽院としました。その際に宗派も真言宗から浄土宗に改宗しました。

現在の華陽院の佇まいは古刹らしい雰囲気は失われ、近代的なお堂の姿に神君家康公に所縁がある寺という風情があまり感じられないのが残念でなりません。山門らしいものもなく、傍らにある幼稚園の入口と併用している入口から境内へと進んでいきます。その境内の奥に墓所が置かれています。本堂の前あたりに家康公お手植えのみかんの木が植えられています。


大江戸散策徒然噺-家康公お手植えのみかんの木 家康公お手植えのみかんの木


寺の裏側は静岡鉄道の線路が走っています。目指す源応尼と一姫の墓はこの線路を隔てる塀の脇に置かれています。
源応尼の墓はやや小ぶりの宝篋印塔型でその墓石を四方囲むように立派な玉垣が組まれています。そして墓所には家康公お手植えのみかんの木が植えられています。


大江戸散策徒然噺-源応尼の墓 源応尼の墓
大江戸散策徒然噺-源応尼の墓俯瞰 源応尼の墓


さて家康公の祖母である源応尼は実名を「お富の方」又は「お万の方」といいます。今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼と名乗りました。この源応尼こそ竹千代(家康公の幼名)の生母である「於大の方」の実母で竹千代にとっては実の祖母にあたるのです。

源応尼は天文20年(1551)8月、当時今川家の人質となっていた竹千代の養育者として岡崎から招かれ、知源院の近くに住んでいました。永禄3年(1560)5月6日、成人した家康が今川義元上洛の先陣として浜松にあるとき、源応尼は駿府で逝去し、知源院に埋葬されました。

そしてこの源応尼の墓のちょうど隣には徳川家康の五女・市姫の墓があります。この墓も宝篋印塔型で源応尼の墓石よりも大きなものです。この市姫は家康公が66歳の時の子供ですが、わずか4歳で亡くなっています。市姫の墓の脇にはこれも家康公お手植えの松が植えられていますが、その枝振りからは数代目の松と思われます。


大江戸散策徒然噺-市姫の墓 市姫の墓
大江戸散策徒然噺-市姫の墓 市姫の墓
大江戸散策徒然噺-家康公お手植えの松 市姫の墓


華陽院にはこのほか駿府城代と定番を勤めた方々の墓が3基あります。


大江戸散策徒然噺-城代と定番を勤めた方々の墓


(中央)御城代・安藤伊予守直之、文化二年二月十九日(1805)仰付
文化二年八月十日(1805)城中に没す
(左)御城代・安藤出雲守広栄、文政八年四月二十八日(1825)仰付
文政十年二月二十七日(1827)城中に没す
(右)御定番・松平右近信之、天保五年六月二十四日(1834)仰付
天保九年七月十九日(1838)没

今回は駿府での滞在がそれほど長くなかったため、訪れる箇所が限られてしまいました。大御所・神君家康公の居城があった駿府であれば、家康公や徳川家所縁の名所・旧跡・史跡・古刹はいたるところにあるはずです。次回はさまざま駿府やその近在そして旧東海道筋を巡ってみたいと考えています。


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本来はお江戸の中の歴史散策が当ブログのテーマなのですが、実は暇を見つけては首都圏からさほど離れていない地方都市へ「お江戸の時代」を見つけに出掛けています。


本日は先日訪れた静岡(駿府)のお江戸散策をほんの少し紹介いたします。


大江戸散策徒然噺


そんな駿府(静岡)は室町時代から戦国にかけて今川氏の城下町として栄えていました。今川氏は京の都を模して街づくりを行い、当時は「東国の京」又は「東国の都」と称されるほどで、荒廃した京からはあまたの公家や文化人が駿府に住まい、戦国時代にあって「今川文化」が花開いた土地だったのです。

そして1560年の「桶狭間の戦い」で今川義元が討ち死にすると今川氏は衰退し、その後の武田信玄の駿府攻めで町は焼かれ荒廃していきます。そして戦国時代末期の1585年に徳川家康公は幼少時代に過ごしたここ駿府を本拠地と定め、すばやく城下の整備を開始します。これによりかつての繁栄が戻ってきます。


1590年7月、秀吉軍とともに小田原北条氏を攻め滅ぼした家康公は秀吉により駿府から関東に移封されたことで、家康公は一時的に駿府から離れることになるのですが、家康公が開幕後、秀忠公に将軍を継嗣するや再び駿府城に居住し大御所政治を展開したのです。元和2年(1616)に没するまで家康公はここ駿府で過ごされ、没後は久能山に葬られました。

こんな歴史に彩られた駿府は江戸時代を通じて大名ではなく城代が置かれ、幕府の直轄地として栄えてきました。しかしその繁栄は大政奉還後の明治2年以降、最後の将軍となってしまった慶喜様が住まわれる静かな地方都市へと変貌していきます。


大江戸散策徒然噺-浮月楼の門構え
大江戸散策徒然噺-慶喜様屋敷跡


そして慶喜様がお住まいになっていたのが本日のお題「浮月楼」です。現在は市内でも一二を争う高級料亭として人気があるのですが、かつてこのお屋敷はこの地の元代官屋敷だったそうです。慶喜様はこの屋敷を手に入れた後、丹精込めてお庭を造り、20年にわたってここにお住まいになっていました。

そんなお庭を拝見したくて現在の浮月楼の入口に立ったのですが、仰々しい門構えに入るのをためらっていると、当楼の方が親切にもどうぞお庭をご覧くださいと招きいれてくれました。


大江戸散策徒然噺-庭景その1
大江戸散策徒然噺-庭景その2
大江戸散策徒然噺-庭景その3
大江戸散策徒然噺-庭景その4
大江戸散策徒然噺-庭景その5


浮月楼の歴史を顧みると、そもそも料亭として開業したのが明治24年のこと。しかし翌年の明治25年には大火に遭い、その後、昭和15年の静岡大火、更には昭和20年の戦災と波乱の歴史を辿ってきました。こんな禍に遭いながらも、庭と池は原型をとどめているといいます。

慶喜公が四季折々に楽しんだ庭は静岡市の中心にありながら、静かな佇まいの中に凛とした空気が流れています。きっと慶喜公は池に舟を浮かべたり、草木を愛でていたんだろう、と池畔の新緑の木々の下で想いに耽った瞬間でした。


浮月楼
〒420-0852
静岡県静岡市葵区紺屋町11-1
TEL: 054-252-0131


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