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大江戸散策徒然噺

大都市の中のお江戸の名残りを紹介します。江戸時代260年にまつわる日本全国の歴史散策をお楽しみください。

およそ7万坪といわれる池上本門寺の寺領はとてつもなく広く、江戸時代には徳川家菩提寺である寛永寺や増上寺に勝るとも劣らない規模を誇っていたのではないでしょうか。ちなみに本門寺のご本堂は大堂と呼ばれていますが、江戸時代には徳川家菩提寺の寛永寺の本堂は中堂、増上寺のそれは小堂と称されていたくらいに、本門寺の寺格は徳川家菩提寺に匹敵していたのではないでしょうか。


大江戸散策徒然噺-大堂 大堂


そんなとてつもなく広い境内の奥にあるのが日蓮聖人御荼毘所です。日蓮聖人御入滅の折の御荼毘所であることで、この場所は本門寺の中でも最も大切な区域になっています。


大堂の裏の道から細い石段が下方へ延びています。本門寺自体が山の上に建てられたものであることが改めてわかるのですが、かなり急な石段です。手すりにつかまりながら石段を下りてゆくと、右手にぽっかりと空いたような広い空間が現れます。その空間の彼方に鮮やかな朱で塗られた立派な宝塔が置かれています。


大江戸散策徒然噺 日蓮聖人御荼毘所にたつ宝塔
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木々の緑に囲まれたその空間に置かれた朱色の宝塔が妙に際立っています。心をときめかせながら宝塔へとさらに石段を下っていきます。都内にありながらまるで深い森の中に迷い込んだような空間は都会の喧騒とはまったく無縁な世界を造りだしています。


宝塔の建立は江戸時代の文政11年(1828)に遡ります。総高17.5m、基壇と蓮華座は石造、堂内は木造の歴史的建造物です。


この宝塔の背後にあるのが紀州徳川家の墓所なのですが、徳川家紋大名、とりわけ御三家の一つの紀州家の墓所があるとは思いもよらなかったのです。はやる気持ちを抑えつつ、宝塔脇のぬかるんだ道を進んで行きます。墓所へはさらに急な石段を上っていきます。静寂という空気が漂い、私以外には訪れる人はいません。


大江戸散策徒然噺 紀州徳川家墓所


墓所は宝塔を見下ろす高台に置かれ、その高台全体が紀州徳川家の墓地として整備されています。その墓地の中心をなす大きな基壇の上に宝篋印塔型の墓石が3つ並んでいます。


右から養珠院墓塔(頼宣公御母)、すなわち家康公の側室である「お万の方」、中央には天真院殿(光貞公正室)墓塔、左には瑤林院(加藤清正公の娘であり頼宣公正室)墓塔が整然と並んでいます。



大江戸散策徒然噺  
大江戸散策徒然噺
大江戸散策徒然噺
大江戸散策徒然噺
大江戸散策徒然噺
大江戸散策徒然噺


墓塔は前述の3墓を含んで全部で8墓あります。これら3人の他に8代将軍吉宗公正室の寛徳院以下、江戸藩邸で逝去した夫人たちの墓が並んでいます。


大江戸散策徒然噺


日蓮上人の荼毘所を見下ろす位置に墓所を置くという徳川御三家のご威光をまざまざと見せつけられた瞬間でした。


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過日、下総中山にある同じく日蓮宗の名刹「中山法華経寺」に参拝を兼ねて取材に訪れたことがあります。双方とも日蓮所縁の名刹であるのですが、どことなく雰囲気が異なるのは、中山法華経寺は荒行で知られる「男っぽさ」が感じられる反面、池上本門寺は日蓮入滅の霊地として崇高な雰囲気を感じ取ることができます。


大江戸散策徒然噺-本門寺三門 本門寺三門


ここ池上本門寺の開基は古く弘安5年(1282)のことです。この年に日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう途中、9月18日にここ池上の地の池上宗仲の館に到着し二十数日間を過ごすこととなります。この滞在中に池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源とされています。

病に冒された日蓮は弘安5年(1282)の10月13日にここ池上で没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進したことで当寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。


鎌倉、室町時代には関東武士の庇護を受け、江戸時代には加藤清正公や徳川家紋大名である紀伊徳川家の祈願寺となり隆盛を誇ります。一方、江戸幕府開幕後の1630年(寛永7年)に幕府は久遠寺・日暹(受布施派)と池上本門寺・日樹(不受不施派)との間で行われた「身池対論(しんちたいろん)」で負けた池上本門寺の日樹は信州の伊那へ流罪となります。日樹のあと、本門寺には受布施派の日遠(にちおん)が入山し、家康公の側室養珠院(お万の方)の帰依を受けています。

※身池対論(しんちたいろん)
寺領は国主の供養か仁恩であるかについて、受布施を主張する身延久遠寺・日暹と不受不施を主張する池上本門寺・日樹との対論で、幕府が両者を江戸城で対決させた論争をいいます。
※不受不施派(ふじゅふせは)
日蓮の教義である法華経を信仰しない者から施し(布施)を受けたり、法施などをしないという不受不施義を守ろうと、かつて存在した宗派の名称です。


大江戸散策徒然噺-本門寺総門 総門


本門寺に近い東急池上線の池上駅を降り、本門寺通りを10分ほど進むと前方に本門寺に入る最初の門「総門」が現れます。それほど豪勢な造りではないのですが、主柱間5.3メートルを測る壮大な門構えに古刹、名刹の風格を感じさせてくれます。この総門は戦災を免れた歴史的建造物で創建は元禄年間に遡ります。


大江戸散策徒然噺-此経難持坂 此経難持坂


この総門を抜けると前方に見上げるように続く長い石段が現れます。難解な文字で(シキョウナンジザカ)と呼ばれているのですが、実はあの有名な加藤清正公が築造寄進したものなのです。清正公は熱心な法華信者で慶長11年(1606)に慈母の七回忌の追善供養として祖師堂も寄進しています。この石段も同時期に築造寄進されたもので、この難解な名称も「此経難持の偈文96字」に因んで名付けられたことで、96段の石積み参道になっています。


長い歴史の中で、表面が摩耗した石段を一歩、一歩上って行くと広い境内が眼前に見えてきます。前方にはどっしりとした姿の三門が待ち構えています。この三門に行く前に、石段を登りきった右手にあるお堂に向かうことにしました。


大江戸散策徒然噺-長栄堂長栄堂
大江戸散策徒然噺-長栄堂の扁額 長栄堂扁額


お堂の名は「長栄堂」といいます。本門寺さんの山号が「長栄山」とついていることから、当然この長栄堂は子院か塔頭かと思いきや、実はかつては神社だったのです。現在は本門寺さんの境内のお堂の一つなのですが、明治の神仏分離策によって神社ではなくなっています。しかし、その名残なのか門前に「鳥居」が立ったままなのです。この長栄堂には長栄山の守護神「長栄大威徳天」を奉安しています。


長栄堂をあとにしていよいよ三門へと進みます。三門とは三解脱門の略なのですが、いかり、むさぼり、おろかさを解脱する門ということなのですが、この3種が解脱を求める者だけがこの門の通過を許されているとのことです。


大江戸散策徒然噺-本門寺三門 三門


三門の左右には仁王像が置かれています。なんとこの仁王像のモデルは「アントニオ猪木」の20歳頃を模したものだそうです。


大江戸散策徒然噺-左の仁王像
大江戸散策徒然噺-右の仁王像


尚、戦災で焼失した旧三門は慶長13年(1608)に徳川2代将軍秀忠公が五重塔と共に建立したもので、桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていました。


この三門の左手に日朝聖人像を奉安している日朝堂と鐘楼堂が置かれています。この鐘楼堂の脇に吊るされていない鐘が一つ置かれています。この鐘こそ加藤清正公の娘で御三家紀州藩祖徳川頼宣公の正室・瑤林院が正保4年(1647)に寄進したものです。昭和20年4月15日の空襲で火をかぶり、一部に亀裂と歪みが生じたため、現在は傍らに仮安置しています。


大江戸散策徒然噺-日朝堂 日朝堂
大江戸散策徒然噺-鐘楼堂 鐘楼堂

大江戸散策徒然噺-瑤林院寄進の鐘


この鐘楼堂の裏手に前述の信州伊那へ流罪となった「日樹」の五輪塔が置かれています。この五輪塔は日樹が流罪になったあとにここ池上の門徒たちが幕府にたてついたことを称賛するために建てたものだそうです。塔の石面に「日樹」の文字が刻まれています。


大江戸散策徒然噺-日樹の五輪塔 日樹の五輪塔
大江戸散策徒然噺-日樹の文字 五輪塔に刻まれた日樹の文字


そして境内正面に立つのが本門寺さんのご本堂である「大堂」です。、昭和20年4月15日の空襲で焼失後、昭和39年に鉄筋コンクリート造の大堂が再建されました。


大江戸散策徒然噺-大堂 大堂


この大殿の傍らに古さを醸し出している建造物が建っています。江戸時代の天明4年(1784)に建立された「経蔵」です。この建物は戦災を免れた数少ない本門寺の歴史建造物の一つです。


大江戸散策徒然噺-経蔵 経蔵


このあと境内を横切り、墓域へと向かいます。その途中に建てられているのが「加藤清正夫人(正応院日倚尼)層塔」です。江戸時代・寛永3年(1626)に逆修供養塔として建立したものです。清正公以来の、当山と加藤家の信仰関係を示す貴重な石造遺構です。


大江戸散策徒然噺-加藤清正夫人(正応院日倚尼)層塔 加藤清正夫人層塔


更にその奥にもう一つの層塔が立っており、近づいてみると「前田利家室の層塔」の案内板が傍らに置かれています。


大江戸散策徒然噺-前田利家室の層塔 前田利家室の層塔


この塔は利家の側室である寿福院が元和8年(1622)に自身の逆修供養のために建てた十一層の層塔です。寿福院は三代加賀藩主である利常の生母で、秀吉没後の徳川家との微妙な臣従関係を解決するために江戸に差し出され人質になったことで知られています。


※逆修供養

自分より先に亡くなった年長者に対して冥福を祈る法要を追善(供養)というのに対し、 生きている間に自分の死後に対してまたは自分より若くして亡くなった者(子や孫など)に 対して冥福を祈る法要を逆修(ぎゃくしゅ、逆修善・逆修法会)と称されます。


墓域を進んで行くと、前方に見えてくるのが当山のランドマークである「五重塔」です。関東に4基現存する幕末以前の五重塔のうち、一番古い塔です。


大江戸散策徒然噺-五重塔 五重塔


この五重塔の発願は徳川二代将軍秀忠公の病気平癒祈願にあったといいます。秀忠公が将軍に宣下される前、すなわち文禄2年(1593)のこと、15歳の秀忠公が悪性の疱瘡にかかり、一命も危うい容態におちいってしまいました。そこで、熱心な法華信者であった乳母岡部の局(のち正心院)が、大奥より池上へ日参し、あつく帰依していた第12世日惺聖人に病気平癒の祈願を託され、「心願が成就したあかつきには御礼に仏塔を寄進する」との念でひたすら祈ったそうです。そしてその甲斐あって病気は快癒し、将軍となった後、その御礼とあわせて武運長久を祈り、慶長12年(1607)に建立したものです。


墓域を訪れたついでに、昭和のプロレスのヒーローとして名高いあの「力道山」の墓参りをしてきました。墓域の一番奥の方にその墓はありました。墓前には力道山の「青銅の像」と「力道山之碑」が置かれ、在りし日の姿を彷彿とさせてくれます。


大江戸散策徒然噺-力道山の墓全景 力道山の墓
大江戸散策徒然噺-力道山の像
大江戸散策徒然噺-力道山之碑


また、本門寺さんの墓域には戦後の自民党政治家である大野 伴睦(おおのばんぼく)やフィクサーとして名高い児玉 誉士夫(こだま よしお)など右系の実力者の墓が点在しています。

広い境内と墓域を一回りしたあと、境内裏手の多宝塔と紀州徳川家の墓域へと進むことにしました。


大江戸散策徒然噺

予想にたがわず静岡市の発展した街並みに驚嘆。東海地区では名古屋についで発展している都市の感。そんな静岡(駿府)では大御所・家康公の居城として壮大な城郭を誇った駿府城址は是非訪れてみたい場所の一つです。


大江戸散策徒然噺-駿府城内堀と巽櫓


駿府城址はJR静岡駅から徒歩でも約15分ほどの距離にあり、自転車を利用すればものの5分もあれば着いてしまいます。市の中心の賑やかな繁華街を抜けるとかつて駿府城を囲んでいた外堀が現れます。そして更に外堀の内側には二の丸、三の丸、本丸そして天守を守っていた内堀が昔の姿のままに残っています。

駿府城址の中でも最も美しい姿を見せる巽櫓と東御門へと向かうことにしました。この建造物は平成8年に復元されたものでオリジナルではないのですが、駿府城址のランドマークとしてまるで絵葉書のように美しい姿を見せています。巽櫓はかつての二の丸の南東に位置する隅櫓で二層三階のL字型構造になっています。東御門は典型的な枡形門で、堂々とした風格を感じさせてくれます。


大江戸散策徒然噺-東御門

大江戸散策徒然噺-東御門と内堀

大江戸散策徒然噺-内堀

大江戸散策徒然噺-枡型の東御門

ここで駿府城の歴史をほんの少し紐解いてみましょう。
ここ駿河国は今から650年前(室町時代)には今川範国(のりくに)が守護に任ぜられてから今川氏の領土の一つになっていました。家康公の幼少の頃、すなわち松平竹千代の頃ですが、今川氏9代の義元の時代に人質としてになんと19年間も駿府で暮らしていました。

戦国騒乱の時代に、今川氏10代の氏真(うじざね)は甲斐の武田信玄に駿府を焼き払われ、掛川へと落ちていきます。その後、天正10年(1582)に徳川家康は駿府の武田を攻め、その結果、駿府の町は再び焼き払われてしまいます。天正13年に駿河の国を領土とした家康公は駿府城を自らの居城とするため築城を始め、天正17年に一応の完成をみます。がしかし、天正18年(1590)の小田原北条氏滅亡後、秀吉の命によって家康公は関東へ移封されたことで、駿府城は豊臣系の家臣である中村一氏(かずうじ)が城主となります。そして関ヶ原の戦いの後、家康公は1603年に征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いたのですが、わずか2年後には将軍職を秀忠公に譲り、大御所政治の拠点として駿府に戻ってきました。

その後、家康公は75歳で亡くなるまでの13年間、ここ駿府と江戸を頻繁に行き来しながら秀忠公のご政道を見守ってきたのです。

家康公没後は家康公の十男で紀州徳川家の祖となった徳川頼宣公、家光公の弟君である忠長公が城主となりましたが、忠長公改易後は大名は置かず城代が配置され、幕府の直轄地となっていきます。


大御所が住まう城として三重の堀に囲まれた駿府城の城下は「駿府九十六箇町」と呼ばれる街区が碁盤の目のように整備され、人口10万人以上を抱える大都市として発展していました。現在の静岡市内の地図を見ると江戸時代に計画された碁盤の目のような街区がそのまま残っているがわかります。

東御門から入城すると目の前に広々とした敷地が目に飛び込んできます。かつてはこの場所に二の丸、西の丸そして本丸の各御殿と五層七階の壮麗な天守が聳えていたのですが、今、その面影はまったくといっていいほど残っていません。わずかながら本丸御殿と天守を囲んでいた本丸掘がほんの一部分水を湛えているだけです。こんな風景をどこかで見たような気がして、ふと思い出すのがかつての江戸城の本丸と天守があった皇居東御苑なのです。


大江戸散策徒然噺-駿府城天守(模型)


ご多分に漏れず、ここ駿府城も度重なる火災や地震などで御殿をはじめ櫓が消失してしまいました。天守閣は寛永12年の火災で焼失し、その後再建されませんでした。想像するに、天守が聳えていた頃は上方からやってくる旅人の目には天守の背後に天高く聳える富士の高嶺がまるで借景のように見えていたのではないでしょうか。


まず平成8年に復元された巽櫓の中の資料展示室を見ることにしました。入口には晩年の家康公の坐像が鎮座し迎えてくれます。展示物はそれほど重要なものはないのですが、かつての天守閣の模型や二の丸堀から引き上げられた青銅製の鯱(オリジナル)、江戸時代の駿府城下の街並みを現した模型など興味ある展示がつづきます。また展示室の一角に家康公が幼年時代、勉学に励んだ小部屋が置かれています。


大江戸散策徒然噺-神君家康公
大江戸散策徒然噺-青銅製の鯱

大江戸散策徒然噺-家康公の甲冑
大江戸散策徒然噺-巽櫓から見る東御門


家康公が幼少の頃に過ごした駿河国、そして天下取りを果たした家康公が愛しそして没したた土地・駿府は徳川家にとっては愛知の岡崎に並ぶ故郷的存在でしょう。そんな土地に初めて訪れ、いまだに家康公、徳川を大切にする風土を肌で感じる思い出深い旅となりました。


大江戸散策徒然噺

下総船橋には日本一小さな東照宮と並んで、もう一つ「日本一小さい大神宮」が鎮座するという。
そうであればと、船橋東照宮からさほど離れていない場所に社殿を構える大神宮へと足を延ばすことにしました。


大江戸散策徒然噺-船橋大神宮本社殿


船橋東照宮が鎮座する御殿通りから、船橋の南を東西に貫く本町通りを東へと進むことわずか300mほどで裏参道と思われる鳥居が立つ神宮下交差点に突き当たります。


大江戸散策徒然噺-境内への石段


どれほど小さい大神宮なのか、と思いきやこんもりとした木々に覆われた鎮守の森が広がっているではありませんか。境内へとつづく石段を登っていくと、その傍らに「漁師町講中」と刻まれた石標が置かれています。


大江戸散策徒然噺-漁師町講中石標


ここ船橋は江戸時代から江戸湾に面した漁師町で、現在でも東京湾の汐の香りが漂う昔ながらの港町といった風情を漂わせています。そんな船橋の猟師たちが集まってつくった組合は「漁師町講中」と呼ばれていました。そして猟師たちが海辺に面した小高い丘の上にたつ当社を信仰の対象としていたことを覗わせる記念碑なのではないでしょうか。おそらく丘の上に鎮座する大神宮は海上に浮かぶ船からの目印であったり、更には遠見台としてたいへん重要な場所だったのでしょう。


石段を登るとやはり本社殿の裏側又は脇の参道がつづいており、その参道脇には祠や神輿蔵が並んでいます。


大江戸散策徒然噺-境内の祠
大江戸散策徒然噺-祠と神輿庫


その裏参道から回りこむように進むと、本社殿がこんもりとした木々の中に静かに佇んでいます。「日本一小さい大神宮」と称される当社ですが、立派な社殿を見るかぎり、なぜ「日本一小さい」のか理解に苦しみます。


大江戸散策徒然噺-船橋大神宮本社殿


当社の創建は遥か昔の貞観5年(863)に遡ります。正式な名は太陽神である「意富比神(大日神)」を祀っていたことから「意富比神社」が創建当時からの名称のようですが、時代の変遷で御神体として「天照皇大神」を祀るようになり、次第に意富比神社の社名が忘れられ、船橋神明又は船橋大神宮と呼ばれるようになったと言われています。尚、当社には神君家康公、二代将軍秀忠公も合祀しています。


船橋大神宮の長い歴史の中で、朝廷や将軍家からの崇敬を受け、あの平将門、源頼朝そして神君家康公からも社領の寄進や社殿の造営などがなされた由緒ある神社なのです。


社殿に向かって右手に進んでいくと、さらに小高い場所に立っているのがなんと「灯明台」、すなわち「燈台」があるではありませんか。境内の中の小高い丘は標高27mの高さがあるということなのですが、なぜここに燈台があるのかというと、前述のようにここ船橋は江戸の昔からの漁師町だったことから、海を臨む高台に位置する当社の境内には夜間に漁に出る猟師たちの航海の目安となる「常夜の鐘」がもともと置かれていたそうです。


大江戸散策徒然噺-灯明台
大江戸散策徒然噺-灯明台


しかし幕末の慶応4年(1868)の戊辰戦役によってこの「常夜の鐘」は焼失してしまったらしいのです。その後、明治13年(1880)に地元の猟師たちや有志らの手によりこの小高い丘の上に灯明台が建設され、現在にいたっています。


尚、この灯明台は設置後15年間にわたって使用していたのですが、なんと当時としてはかなり優秀な燈台で光は11km(6海里)先まで届く能力を持っていたそうです。外見をみると、1階と2階が和風造りで、3階の灯室が西洋風の和洋折衷様式の魅力ある姿を見ることができます。


大江戸散策徒然噺-外宮神域


かなり広い境内には「外宮」の神域が設けられ、表参道側の入口には大鳥居が構えています。


大江戸散策徒然噺-表参道大鳥居
大江戸散策徒然噺-意富比神社の石標
大江戸散策徒然噺-本社殿へつづく表参道


これほどの神社であれば、なぜ当境内に東照宮を勧請しなかったのかと疑問を持つと同時に、それなりの由緒、格式をもった当船橋大神宮がなぜ「日本一小さい大神宮」と呼ばれているのかの理由がわからないまま中途半端な気持ちで辞することにしました。


大江戸散策徒然噺

先日、都内及び近郊の歴史散策のネタ探しをしていたところ、なんと千葉県の船橋市に「日本一小さな東照宮」があるというではありませんか。船橋と神君家康公との繋がりも興味が湧くところではありますが、それ以上に「日本一小さい」と強調していることに居たたまれず、早速でかけることにしました。


大江戸散策徒然噺-船橋東照宮鳥居


久しぶりに気温10度を超え、風もない小春日和の中、東京メトロの東西線に乗り一路西船橋へと向かいます。西船橋でJRに乗り換えると次の駅が船橋です。東京の東に位置する江東区に住む私にとっては、西船橋まではものの20分程度の距離です。


賑やかな西船橋駅を下りて、海側に開けた繁華街をしばらく南下します。京成線のガードをくぐるとすぐ左に折れる狭い路地が現れます。この路地がかつて「御殿通り」と呼ばれていた道なのですが、なぜ御殿通りと呼ばれていたのでしょうか。


実はここで神君家康公とこの御殿通りが繋がってくるのです。開幕後、家康公は2年足らずで征夷大将軍を息子である秀忠に譲り、その後は大御所として二代将軍秀忠公の政を後見しつつ、駿府と江戸をしきりに往還する日々を過ごしていたようです。


将軍職を秀忠公に譲ったものの、元気そのものの家康公は秀忠を連れて大好きな鷹狩を行いながら、地方の巡検を精力的に行っていたようです。そんな鷹狩の場所は江戸川を越えた下総、そして更には上総にまで足をのばすのですが、当然のことながら大御所や将軍が休息や宿泊する場所をそのルート状に設けなければなりません。その場所のことを「御茶屋」又は「御殿」と名付ていました。


家康公は慶長19年(1614)に上総土気(とけ)そして東金で鷹狩を挙したことが記録で残っています。そして翌年の元和元年(1615)に家康公は再び上総東金へ鷹狩に出掛けるのですが、その時に船橋に設けられた「御殿」に宿泊しています。家康公が船橋御殿に宿泊されたのは、この時が最初で最後だったのですが、秀忠公はその後もたびたび船橋の御殿で宿泊されていたようです。


そんな歴史をもつ船橋御殿へと通じる道筋が現在でも「御殿通り」と呼ばれ残っているのですが、かつて御殿があったと思われる場所は、民家が連なる住宅地へと変貌しています。


尚、徳川将軍家の上総東金での鷹狩は家光公の御代である寛永7年(1630)頃には終わり、船橋御殿の敷地は船橋大神宮の宮司に与えられ、その後開墾されて畑となったと伝えられています。


神君家康公がこの地、船橋御殿で宿泊されたという縁があるがゆえに前述の船橋大神宮の宮司が貞享年間(1684~1687)に船橋御殿の跡地に造ったのが、船橋東照宮なのです。


住宅街の中につづく御殿通りを進んでいくと、特に東照宮を指し示す道標も見当たりません。おそらく誰もが道に迷うのではと思いつつ、私も道を折れずに直進し行き過ぎてしまいました。すぐに気がついて戻ると、自動販売機の陰に小さな道標が立っているではありませんか。


大江戸散策徒然噺-路地裏の船橋東照宮


やっと辿り着けるという思いでさらに細い路地を進んでいくと、前方にそれらしい鳥居が見えてきます。「日本一小さい」ということは最初からわかっていることなのですが、それにしても本当に小さいのです。敷地もさることながら、拝殿なんてものじゃなく、小さな祠といった感じです。


大江戸散策徒然噺-東照宮御社殿


ただ救われるのは徳川将軍家の葵のご紋が入った幕が祠にかかっていること。東照宮といえば、権現造りの御社殿をイメージするのですが、ここの東照宮はお稲荷さん程度の祠で極彩色の社殿なんて到底イメージできるものではありません。


大江戸散策徒然噺-東照宮

大江戸散策徒然噺-東照宮


祠の中を覗いてみると、なにやら文章が見えます。その文章はまごうことなくあの神君家康公の有名な遺訓。「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。 不自由 を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。」


大江戸散策徒然噺


猫の額ほどの境内の一角にある手水舎の柱に「東照大権現家康公、徳川二代秀忠公に感謝します」と書かれた木製の札が立てられています。


大江戸散策徒然噺