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大江戸散策徒然噺

大都市の中のお江戸の名残りを紹介します。江戸時代260年にまつわる日本全国の歴史散策をお楽しみください。

山手本通りから庶民的な商店街がつづく山元町の街区にさしかかります。一世代前の懐かしい雰囲気を漂わすアーケードが続きます。そんなアーケードが途切れるあたりに、でかでかと横文字で書かれた大きな看板が見えてきます。


大江戸散策徒然噺 米軍住宅の看板

COMMANDER U.S.FLEET ACTIVITIES YOKOSUKA
YOKOHAMA DETACHMENT
NEGISHI NAVY HOUSING COMPLEX


アメリカ海軍 横須賀指令官
横浜分遣
根岸海軍住宅


と見るからに米軍のベース(基地)らしい色合いの看板です。ようするに米国の横須賀駐留の海軍兵士の住宅地であることを示しています。距離的にはJR石川町駅からはさほど離れていない距離なのですが、こんなところにまだ米軍の住宅地が置かれているのですね。


大きな看板を見ながら「日米共同使用区域」である住宅地入口への坂道を上って行きます。突き当りに米軍住宅地の入口(ゲート)が置かれ、ガードマンの見張り小屋がゲートに置かれています。


大江戸散策徒然噺 米軍住宅のゲート


このゲートの右手に緑の芝生の大きな広場があり、その向こうにまるでヨーロッパの古城を思わせる堂々とした建造物が現れます。3つの塔を持つこの建造物が突然現れたことに驚きを覚えるとともに、この蔦が生い茂る異様な建物がいったい何なのか、ましてや米軍住宅に隣接し、近づきがたい要塞のような建物は初めて見るものにとっては奇異な景色としか思えません。


大江戸散策徒然噺 馬見所
大江戸散策徒然噺 馬見所
大江戸散策徒然噺 馬見所

実は前述の米軍住宅に隣接して広大な「根岸森林公園」が広がっています。この根岸森林公園はかつて日本初の洋式競馬場である「横濱競馬場」だったところで、3つの塔をもつ異様な建物はちょうど馬場の正面ストレッチを眺める一等観覧席として使われた「馬見所(うまみどころ)」と呼ばれたものだったのです。この建物は昭和5年(1930)に建設されたもので、ある種歴史遺産としてはたいへん重要なもののように思えます。


ちょっとした感動を覚えながら、米軍住宅に隣接する緑濃い根岸森林公園へと進んでいきます。この公園は前述のように日本初の洋式競馬が行われた場所なのですが、その前身はなんと江戸末期の慶応3年(1867)に当時の外国人クラブが競馬を主催していたのです。


大江戸散策徒然噺 根岸森林公園


その後、明治13年に日本競馬クラブに運営が移譲され、昭和13年に戦争で閉鎖されるまでここで競馬が行われていました。戦後は競馬場は米軍に接収され、米軍住宅やゴルフ場に姿を変えたのですが、昭和44年に一部が接収解除となり、昭和52年に森林公園として一般公開されました。広大な敷地の中には、かつてはゴルフコースであったことを偲ばせるなだらかな地形がうねるように続いています。


大江戸散策徒然噺 根岸森林公園


ここも日本というより、昔訪れたことのあるドイツ・西ベルリンにあったティアガルテンと呼ばれる市民公園を彷彿させる雰囲気が漂っています。素晴らしい環境というよりほかに言葉がでてきません。夏は濃い緑に覆われているこの公園は、秋には見事な紅葉を楽しめる場所に違いありません。


公園内のトレイルを歩き、ほぼ半周したあたりのレストハウスから森林公園を退出することにしました。

公園を出て道なりに進むと、今度は米軍消防署(米軍第5消防署)のベースを思わせる横文字が現れてきます。まさにアメリカといった雰囲気が漂っています。この消防署は米軍住宅専用のもので、日本の一般家屋の火災ではたとえ目の前で家が燃えていても絶対に消防車は出動しないらしいのです。逆に米軍住宅内での火災の場合は日本の消防車はよほどの要請がないかぎり出動しないと思います。


大江戸散策徒然噺 米軍第5消防署


この米軍専用消防署からさほど離れていない場所にもう一つ、有名な場所があります。それはあの人気歌手である「松任谷由美さん(当時は荒井由美)」の歌の中で出てくるレストランが今でも健在なのです。曲名は「海を見ていた午後」で歌詞の中に現れる「ドルフィン」というレストランがここなのです。今から38年も前に作られた曲なのですが、当時とはこのあたりの景色はかなり変わってしまったのではないでしょうか。


大江戸散策徒然噺 レストラン「ドルフィン」


山手のドルフィンは 静かなレストラン
晴れた午後には 遠く三浦岬も見える
ソーダ水の中を 貨物船がとおる
(荒井由実「海を見ていた午後」より)


ドルフィンを過ぎ、根岸の丘陵地帯を徐々に下って行くのですが、途中「白滝不動尊」の祠と断崖から流れ落ちる一筋の滝を見てからいったん下界へと戻ることにしました。


大江戸散策徒然噺白滝不動尊
大江戸散策徒然噺 白滝
大江戸散策徒然噺 急峻な石段


この後、本牧エリアにあるアメリカ坂、本牧山頂公園、本牧神社までは平坦な道がつづき、またそれほどの見どころはありません。白滝不動尊から歩くこと30分ほどで本牧山頂公園につづくアメリカ坂にさしかかります。歩き始めてからおよそ7キロほどでしょうか、ここにきてのアメリカ坂は体にこたえます。坂を上りきると本牧山頂公園の入口です。広い公園の敷地を進んでいくと本牧埠頭を一望できる見晴台に到着です。


大江戸散策徒然噺 アメリカ坂入口
大江戸散策徒然噺 本牧山頂公園

この見晴台から本牧神社へとつづくトレイルを下ると境内へと誘われます。比較的新しい本社殿は横浜の港を見下ろす高台の中腹に鎮座しています。


大江戸散策徒然噺 本牧神社


本牧神社から本牧通りに沿って進むと、本牧エリアへと入っていきます。バブル最盛期にはこの界隈はマイカル本牧と呼ばれ、いくつものショッピングモールが立ち並び、多くの人で賑わうお洒落な町だったようですが、バブル崩壊後はこれらのショッピングモールは撤退し、現在その跡はイオンやイトーヨーカドーといったスーパーマーケットに姿を変えています。


今から30年前頃の本牧は横浜とは隔絶されたある種独特の雰囲気をもった地域で、米軍住宅地を抱えるアメリカの香りが漂う場所だったようです。しかも本牧は江戸時代から横浜村とも一線を画した漁村で、言葉も違っていたと言います。


そんな本牧を有名にしたのがアメリカの文化がいち早く上陸し、特にアメリカのR&Bと言われる音楽やファッションの発信地となったことです。私たちの年代であれば一世を風靡した和製R&Bグループである「ゴールデンカップス」の故郷といえばピンとくるのではないでしょうか。当時はこの本牧はかなり「やばい」場所で、東京ナンバーの車はあっという間に「ボコボコ」にされたといいます。


大江戸散策徒然噺 クラブ「ゴールデンカップ」


あのゴールデンカップスが夜ごと活動していた伝説のクラブ「ゴールデンカップ」が今でも営業しています。本牧通りに面してその看板を見つけた時は、言い知れぬ感動を覚え、とっさにシャッターを落としました。「長い髪の少女」を歌うデイヴ平尾を思い出しながら、終着地点の山下公園を目指しました。


大江戸散策徒然噺 本牧と横浜を繋ぐ見晴トンネル


炎天下の下で、この年になって初めて見る横浜の顔にかなり感動し、さらに我が青春時代の淡い思い出をほんの少し回顧できた瞬間でした。


大江戸散策徒然噺

この秋に某旅行会社が企画する横浜ヒストリー・ウォークの下見を兼ねて、炎天下の港町「横浜」の中心地から近郊の隠れた見どころの散策を楽しんできました。


ちなみに散策ルートは下記の通りです。全行程およそ12kmとかなりの距離です。
山下公園出発~港の見える丘公園~外国人墓地~エリスマン邸~地蔵坂~山元町~根岸森林公園~ドルフィン~アメリカ坂~本牧山頂公園~本牧神社~本牧エリア~山下公園到着


当コースは市の中心の歴史散策ではなく、むしろ横浜市を取り囲む丘陵地帯に点在する町を結んで、アップダウンの地形を楽しみながら横浜の歴史に触れてみようというコンセプトなのです。


久しぶりに訪れる横浜ということで、まずはJR石川町駅から至近の中華街を抜けて出発地点の山下公園のマリンタワーを目指すことにしました。石川町からわずか数分で中華街の西門(延平門)にさしかかります。


大江戸散策徒然噺 延平門
大江戸散策徒然噺 善隣門
大江戸散策徒然噺 朝陽門

午前8時を回った時間なので中華街の人通りはほとんどありません。ひっそりとした中華街の店を眺めながら、山下公園側の東門(朝陽門)に至ります。いったん山下公園脇の道まで進み、そこからホテルニューグランド前を通ってマリンタワーに到着します。


ランドマークタワーと並んで横浜を代表するマリンタワーですが、以前は赤い色のタワーだったような気がします。現在はメタリックな色合いに変わっていますが、下の写真の姿はどことなくスカイツリーに似ていると思いませんか?


大江戸散策徒然噺 スカイツリー似のマリンタワー


さて、同行者と合流し9時10分にいよいよコースの下見が始まります。公私共に横浜には何度も訪れているのですが、その訪問先はかなり偏りがあり、それほど広い地域を歩いているわけではありません。今回、散策する箇所は私にとっては初めて訪れる場所ばかりです。


大江戸散策徒然噺 フランス山
大江戸散策徒然噺 フランス山モニュメント

まず山下公園から港のみえる丘公園を目指します。「横浜人形の家」から伸びる陸橋を渡り、前方に見える木々の緑に覆われたこんもりとした森へと進んでいきます。小高い丘になっているこの場所は横浜開港後の幕末文久3年(1863)にフランス軍が駐屯したことで「フランス山」と呼ばれています。山頂にはフランス領事官邸の遺構がうっそうとした木々に覆われるように佇んでいます。


大江戸散策徒然噺 フランス山の山頂
大江戸散策徒然噺 フランス領事官邸の遺構


現在の遺構は昭和5年(1930)に建てられ、その後昭和22年(1947)に焼失した建物の1階部分の跡です。


このフランス山から木製の遊歩道が「港の見える丘公園」へと続いています。ここもかつて幕末から明治にかけてフランスとイギリスの軍隊が駐留していた場所です。イギリス軍はちょうど公園の中心に陣取り、フランス軍は隣接する現在のフランス山に陣取っていたわけです。この公園に隣接するようにイギリス総領事官邸(現在のイギリス館)が建っています。


大江戸散策徒然噺 フランス山と港の見える丘公園を結ぶ遊歩道
大江戸散策徒然噺 港の見える丘公園のテラス
大江戸散策徒然噺 テラスから山下公園を望む

港の見える丘公園の正門からまっすぐ延びる道を進んで行くと、異国情緒溢れる外国人墓地の入口が現れます。横浜元町を見下ろす高台に置かれた墓地には十字架をあしらった墓石が並んでいます。


大江戸散策徒然噺 外国人墓地入口
大江戸散策徒然噺 外国人墓地
大江戸散策徒然噺 外国人墓地


墓地の縁に沿って進んで行くと左手に山手聖公会の塔が見えてきます。右手は緑濃い木々がうっそうと茂る元町公園です。


大江戸散策徒然噺


元町公園に沿ってつづく歩道にはこの景観に溶け込むようなデザインの白ペンキ塗りの電話ボックスが置かれています。内部の電話器もどことなくレトロ感を漂わせています。


大江戸散策徒然噺 電話ボックス
大江戸散策徒然噺 受話器

この電話ボックスに相対するように建つ建物が「山手234番館」です。かつては外国の貿易商向けのアパートとして昭和2年に建設されたものです。現在は山手の総合案内所を兼ねて、無料で内部の見学をすることができます。四世帯が暮らすことができるレイアウトになっており、一世帯約100平方メートルの広さを持ち、当時としてはかなり裕福な生活をしていたような気がします。


大江戸散策徒然噺 山手234番館
大江戸散策徒然噺 山手234番館内部


この「山手234番館」の隣に立つのが「えの木てい」と呼ばれる住宅です。これもかつては外国人向けの一般住宅として建てられたものです。


大江戸散策徒然噺 えの木てい


山手234番館からさほど離れていない森の中に佇むのが「エリスマン邸」です。建築年は関東大震災後の大正15年とのこと。横浜で絹糸貿易を営んでいたシーベルヘグナー商会の支配人をしていたエリスマン氏の私邸として建設されたものです。白ペンキの外壁に緑色の雨除けの美しいコントラストが木漏れ日に映えています。


大江戸散策徒然噺 エリスマン邸


山手本通りをゆっくりと散策するのは初めての機会なのですが、横浜の外国人居留地の名残りを色濃く残す場所として、平成の世にあってもここだけは日本にあって外国の瀟洒な邸宅が並ぶ閑静な住宅地を歩いているような気がします。


そしてエリスマン邸に隣接するように建っているのが「ベーリック・ホール」の美しいデザインの建物です。
立派な門を入ると綺麗に刈り込まれた芝生の向こうにスペイン風の建物がどっしりとした姿が現れます。


大江戸散策徒然噺 ベーリック・ホール


この建物はイギリスの貿易商であるバートラム・ロバート・ベリックの私邸として、昭和5年(1930)に建てられたもので、戦後はカトリック・マリア会に寄贈され、セントジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎に転用された経緯があります。このセントジョセフ・インターナショナル・スクールは2000年の春に閉校となり、その後、この土地と建物を横浜市が取得し現在に至っています。尚、内部の見学も無料で行われています。


ベーリック・ホールをあとに山手本通りに沿って静かな住宅街を進んで行くと、右手に代官坂が現れます。この代官坂があのアニメ映画「コクリコ坂」の舞台となったと言われています。この坂を下って行くと、お洒落な元町商店街へと繋がっていきます。


代官坂を過ぎてまもなくすると汐汲坂が元町商店街方向へと下っています。この汐汲坂を過ぎると右手一帯に横浜のブランドお嬢様学校である「フェリス女学院」の校舎が見えてきます。「山手」というぐらいで、小高い丘がつづく閑静な場所に、お嬢様学校らしい雰囲気を漂わせています。


大江戸散策徒然噺 フェリス女学院正門


そのフェリス女学院に隣接して中央大学の横浜山手中高の校舎が建っています。へえ~、こんなところに中央大学の付属中高があるんだ…。フェリスの隣の好立地であることを考えれば、おそらく中大付属中高もブランド校になっているのではないでしょうか。


そんなことを考えながら山手本通りの閑静な住宅街を進んで行くと、イタリア山庭園前のバス停が現れます。本通りからほんの少し入ったところにイタリア山庭園の入口があります。


大江戸散策徒然噺 イタリア山庭園入口
大江戸散策徒然噺 イタリア山庭園表札
大江戸散策徒然噺 外交官の家
大江戸散策徒然噺 外交官の家

この場所には明治13年(1880)から明治19年(1886)の6年間、イタリアの領事館が置かれていました。このため「イタリア山」と呼ばれているのですが、この敷地には瀟洒な洋館が一つ建っています。

「外交官の家」と呼ばれている洋館です。実はこの建物は東京渋谷の南平台にあったもので、明治時代の外交官である内田定鎚氏の私邸をここに移築したものです。


横浜山手地区の見どころはここイタリア山庭園を最後にこれ以降は洋館はありません。通常はイタリア山から大丸谷坂を辿ってJR石川町駅へと下って行くのが一般的なルートです。


しかし私たちのコースはまだまだ先が長いのです。イタリア山付近までが横浜で最も瀟洒な家並みがつづく地域で、富裕層の方々が住んでいることで知られています。


イタリア山を過ぎると本通りは地蔵坂の下り坂へとさしかかり、前方にそれまでのリッチな雰囲気ではなく庶民的なアーケード形式の商店街が現れてきます。この商店街を進んで行くと「こんな場所がこんなところにあったんだ」と驚きの景色が現れてきます。この続きは「横浜ヒストリーウォーク:其の二」をご覧ください。


大江戸散策徒然噺

お盆の休みを利用して山梨方面へ桃狩りと高原の涼を求めて日帰り旅行を楽しみました。午前中には甲府盆地に到着し、昼食前に観光農園での桃の食べ放題に挑戦。


甲府盆地に燦々と降りそそぐ明るい太陽の下で大きく育った桃の実がたわわになる木の下で、桃の食べ放題に挑戦したのですがそんなに食べられるわけがありません。農園の人によると木になっている桃はまだ固いので、すでに収穫済みの見事に熟した桃にかぶりつきました。

つるんと皮が剥け、みずみずしい果肉が顔をだします。すかざずかぶりつくと滴る果汁、噛まずに溶けてしまうほど熟した果肉はなんとも絶品。貧乏根性まるだしで次から次へと頬張るのですが、結局大きな桃を4つ食べるのが精いっぱいの戦績。でも大満足の桃の食べ放題でした。


みずみずしい桃はそれほど腹に負担がかかっていないような気がします。この後、石和温泉の町で昼食をとったあと、今回楽しみにしていた富士山麓の高原地帯にある「鳴沢氷穴」の見学です。富士山麓といっても気温は30度。木陰に入ると涼しげな風が体を包んでくれるのですが、炎天下にいると夏の陽射しが肌に突き刺さってきます。


大江戸散策徒然噺 鳴沢氷穴入口


そんな気温の富士山麓にあって、一年中氷に覆われている洞窟があるといいます。年平均気温が3度といいます。盛夏であるこの時期でも洞窟内の気温は11前後とほぼ冷蔵庫と同じくらいの温度です。ということは真冬の風のない穏やかな日の気温くらいなのですが、夏の時期の外気温と20度近い差があるわけです。


大江戸散策徒然噺


チケット売り場からゲートを抜けて細い道を進んで行くと、涼を求める大勢の人たちで長蛇の列。列が進んで行くうちに大きく口を開けた氷穴の入口へとつづく竪穴が目に飛び込んできます。竪穴の壁面に沿って石段が造られ、氷穴の入口へと遊歩道が続いています。


大江戸散策徒然噺 氷穴竪穴から見上げる木々
大江戸散策徒然噺 氷穴竪穴から見上げる木々


その石段から上を見上げると、鬱蒼とした木々が氷穴の竪穴を覆うように茂っています。徐々に石段を下って行くと、先ほどまでとは明らかに違う冷気が下から上がってきます。真夏のことなので、我慢できない冷たさではないのですが、一応ウインドブレーカーを羽織ってちょうどいい冷たさです。


大江戸散策徒然噺 氷穴入口


さあ、いよいよ氷穴への入口にさしかかります。かなりの混雑のため列はゆっくり、ゆっくり進んでいきます。人ひとりが一列になって進む程度の道幅で、加えて滑りやすい足元のため、一歩ずつ足元を確かめながら探検が始まります。


かなり肌寒いのかなと思っていたのですが、洞窟に入る前に冷気にも慣れていたので、寒さは感じません。予想以上に内部は狭く感じます。入口からわずかな距離にある溶岩トンネルでは腰をかがめながら蟹の横歩き状態が20mほどつづきます。


大江戸散策徒然噺 氷穴内部


溶岩トンネルが終わると更に下に降りる階段が現れ、階段を降り切ると狭い通路の両脇に氷の壁が造られています。壁といってもブロック状に氷が積み上げられているのですが、冷蔵庫がなかった時代に氷の貯蔵庫として使用されていたことを再現しているようです。


大江戸散策徒然噺 氷の壁
大江戸散策徒然噺 氷の壁

江戸時代には将軍家に献上する氷がここから切り出され、筵に包まれ江戸城へと運ばれていったいいます。ここから切り出された氷が江戸城に到着した時には、どれほどの大きさになってしまったのでしょうか。


氷の壁の反対側にはブルーの光に照らし出された「氷柱」が幻想的に浮き上がります。天井から滴り落ちる水滴が凍って、積み重なったものです。


大江戸散策徒然噺 ライトアップされた氷柱

真夏のこの時期にありながら、見事な氷柱が残っていることに驚きます。入口から出口まではおよそ150mとそれほど長い距離の洞窟ではありません。入ってしまえば「あっという間に」終わってしまいます。地上へと向かう階段を上るにつれて、冷気が薄まって「もわっ」とした生ぬるい空気に入れ替わってきます。そして最後に急峻な石段を上ると地上に戻ってきます。


大江戸散策徒然噺 信玄パフェ


地上に戻り、鳴沢氷穴の名物?らしい「信玄パフェ」を購入し食べてみることにしました。信玄パフェということで、山梨名物の「信玄餅」が数個にきな粉、黒蜜とソフトクリームのコラボです。個人的な感想ですが、きな粉、黒蜜がかかっているため、ちょっと甘さにしつこさを感じます。


外界の刺すような陽射しにあっという間に汗が噴き出し、ひとときの涼が懐かしく感じる一瞬です。


大江戸散策徒然噺

盛夏の今日(8月5日)下町江東区の亀戸に鎮座する香取神社の例大祭が賑やかに執り行われています。ここ香取神社は「スポーツ振興の神様」としてスポーツ大会や試合の勝利にご利益があるとされています。


大江戸散策徒然噺 香取神社本社殿


今まさにロンドンで行われているオリンピックで日本人選手の方々の戦勝祈願そしてメダル獲得を願って、遅ればせながらまずはご社殿に日本の男女サッカーの優勝とこれから活躍されるであろう日本選手の好成績を祈願させていただきました。


大江戸散策徒然噺 祭礼とスポーツ神の幟


そして今日は4年に一度の本社神輿渡御(神幸大祭)が行われる日です。香取神社の本社神輿は俗称「こんにゃく神輿」と呼ばれています。この神輿は屋根の部分・胴体の部分・台座の部分とそれぞれが別の動きをするまるで「こんにゃく」のように弾力ある揺れ方をします。この種の神輿は国内に2基(1基は九州)しか存在しない、たいへん珍しく、貴重な神輿です。その本社神輿が神輿蔵からお出ましになり、渡御を静かに待っています。


大江戸散策徒然噺 俗称「こんにゃく神輿」


香取神社を辞して本社神輿の渡御行列が始まる江東区の大島駅前に移動する途中に、香取神社末社の神輿が亀戸駅前の交差点にさしかかってきました。本社神輿に比べ、小振りなのですが揃いの袢纏をまとった担ぎ手の威勢のいい声が響いています。


大江戸散策徒然噺 末社神輿
大江戸散策徒然噺 末社神輿

本社神輿の渡御が始まるのは、最も気温が高くなる午後の1時。車の荷台に積まれた神輿がまず担ぎ手の男たちによって降ろされ、男たちの肩に担がれます。


大江戸散策徒然噺 荷台の上の本社神輿「こんにゃく神輿」


すでに新大橋通りの片側2車線が交通規制され、いつでも行列は出発できる状態になっています。神輿行列の一番先頭の大太鼓が打ち鳴らされいよいよ神輿の渡御が始まりました。


大江戸散策徒然噺 荷台から降ろされる本社神輿


威勢のいい、粋で鯔背な下町の神輿渡御はいつみても惚れ惚れします。行列は大島駅前から西大島駅に至り、ここから明治通りを北上し亀戸駅前を通り、最終的には香取神社境内に宮入し渡御が終了します。


大江戸散策徒然噺 神輿渡御
大江戸散策徒然噺 神輿渡御
大江戸散策徒然噺 神輿渡御
大江戸散策徒然噺 神馬
大江戸散策徒然噺 神輿渡御

江東区では8月中旬(8月11日と12日)に行われるお江戸の総鎮守・富岡八幡宮の例大祭が非常に有名です。今年は3年に一度の本祭りにあたり、50以上の神輿が行列をなし、担ぎ手に水をかける「水かけ」が深川八幡様の恒例になっています。


スカイツリーも人気だけど、今年は江東区の富岡八幡宮の例大祭が熱く燃えるはずです。是非、楽しみにしてください。


大江戸散策徒然噺

川越歴史散策の中で仙波東照宮と並んで見どころが多い「喜多院」は川越を代表する歴史遺産の一つです。


大江戸散策徒然噺 喜多院慈恵堂(本堂)


そもそもの喜多院の開基は奈良時代にまでさかのぼると言われていますが、正確な記録を紐解くと平安時代の830年頃、ここに慈覚大師円仁が勅願所として創建した場所に阿弥陀如来、不動明王、毘沙門天を祀り、無量寿寺と名付けた歴史があります。


その後、無量寿寺は元久2年(1205)兵火で炎上焼失の後、永仁4年(1296)伏見天皇の御世に尊海僧正が再興したとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。


正安3年(1301)に後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、さらに後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。しかし天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上焼失してしまいました。これにより無量寿寺はしばらくの間、寺勢が衰え、次の再興まで待たなければなりませんでした。


そしていよいよ再興の時期が訪れます。慶長4年(1599)あの天海僧正(慈眼大師)が第27世の法灯を継ぎ、家康公がほぼ天下を平定し徳川幕府の基礎ができあがる慶長16年(1611)11月に家康公が川越を訪れ、天海僧正と会見したことで寺領4万8000坪及び500石を賜り、寺名を喜多院と改め、壮大な伽藍が完成したと同時に寺勢が蘇ったのです。


しかし家光公の御世の寛永15年(1638)1月に発生した川越の大火により喜多院の伽藍はそのほとんどを焼失してしまいます。関東天台の本山として、更には家康公没後に執り行われた盛大な追悼供養などで、喜多院の重要性をしっている家光公は時の藩主である堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興に取りかかります。


江戸城から客殿や書院を移築したり、いち早く東照宮を再建したり、そのほか現在見ることができる慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門などを再建していきます。


大江戸散策徒然噺 慈眼堂へつづく石段


仙波東照宮から喜多院の境内に入ると、すぐ左手の小高い丘の上に現れるのが天海僧正を祀る「慈眼堂(国重要文化財)」です。丘の上へと石段がつづいています。木々の緑に覆われた石段を上るとほぼ四角の御堂が現れます。御堂の屋根は本瓦葺の四方へと美しい流れを見せる宝行(ほうぎょう)造りの様式です。御堂の中には厨子が収まり、この厨子の中に天海僧正の木造が安置されています。


大江戸散策徒然噺 慈眼堂
大江戸散策徒然噺 慈眼堂
大江戸散策徒然噺 慈眼堂内の厨子


再び石段を下りていくと前方に見えてくるのが「鐘楼門(国重要文化財)」です。2層造りの美しい姿の鐘楼門はもともと仙波東照宮の門として建立されたものです。


大江戸散策徒然噺 鐘楼門
大江戸散策徒然噺 鐘楼門の二層部分

そして境内の中でひときわその存在感を持ってどっしりと構える建造物が慈恵堂(県指定有形文化財)です。この慈恵堂は比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇なのですが、大師堂として親しまれ潮音殿とも呼ばれています。喜多院のご本堂らしく堂々とした姿を見せています。


大江戸散策徒然噺 慈恵堂(ご本堂)
大江戸散策徒然噺 慈恵堂(ご本堂)


この慈恵堂の裏手に明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで川越藩主であった松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所(びょうしょ)が置かれています。木々に覆われ夏の陽射しが木漏れ日となって射し込む場所に、まさに藩主の墓所らしく石の柵と立派な門が佇んでいます。


大江戸散策徒然噺 松平大和守家墓所入口の門


松平大和守家は、徳川家康公の次男結城秀康(ゆうきひでやす)の子直基(なおもと)を藩祖とします。同家が川越藩主であった7代100年の間に川越で亡くなった5人の藩主、朝矩(とものり)、直恒(なおつね)、直温(なおのぶ)、斉典(なりつね)、直候(なおよし)が葬られています。墓所には入ることができないので、石の柵の間から眺めることになります。墓所には五人の藩主の五輪塔が整然と並んでいます。


大江戸散策徒然噺 松平大和守家墓所
大江戸散策徒然噺 松平大和守家墓所


松平大和守家の墓所を辞して、再び慈恵堂前を通り庫裏へと進みます。その庫裏と慈恵堂の間の敷地には天海僧正のお手植えの槇の大木が聳えています。


大江戸散策徒然噺天海僧正のお手植えの槇の大木


庫裏は客殿と書院に渡り廊下でつながっており、家光公誕生の間や春日局化粧の間へと進むことができるのですが、現在修復中ということで見学を割愛しました。


大江戸散策徒然噺 庫裏とご本堂をむすぶ渡り廊下


この庫裏にほぼ隣接して建つのが美しい姿の「多宝塔(県指定有形文化財)」です。この多宝塔はもともとこの場所にあったのではなく、昭和48年(1973)に現在の場所に移築されたものです。高さ13m、上下2層に宝行造りの美しい屋根が特徴的です。


大江戸散策徒然噺 多宝塔
大江戸散策徒然噺 多宝塔
大江戸散策徒然噺 五百羅漢様


このあと五百羅漢様が鎮座する場所の前を通り、喜多院の山門(国指定重要文化財)へと進みます。典型的な四脚門で屋根は切妻造りで本瓦葺の建造物です。寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたもので寛永15年(1639)の川越の大火で焼失を免れ、喜多院では最古の建物です。喜多院の境内へとつづく道はさまざまあるのですが、この山門が正式な正門です。


大江戸散策徒然噺 喜多院山門(山門の脇には番所)


夏のぎらぎらした陽射しの下での広い境内の散策はかなり体にこたえます。乾いた喉を潤すために境内の茶屋の日陰でしばし休憩しながら眩しい太陽の下で青空を背景に浮き上がる堂宇を眺めていました。そして喜多院と深い関わりをもった家康公をはじめ、天海僧正の偉業、歴代の川越藩主の喜多院への崇敬の深さを頭に巡らした瞬間でした。


大江戸散策徒然噺