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大江戸散策徒然噺

大都市の中のお江戸の名残りを紹介します。江戸時代260年にまつわる日本全国の歴史散策をお楽しみください。

本丸御殿と三芳野神社のある場所から再び小江戸巡回バスに乗って、川越の街を代表する景観を楽しめる蔵の街へと進みます。
バスは氷川神社前そしてかつての川越城の大手門があった場所を経由して、時の鐘の塔の真下を通って蔵の街バス停に到着します。

蔵の街の通りは南の仲町交差点から北の札の辻交差点までの間に昔懐かしい蔵造りの家並みがつづくことで知られています。特に景観が優れているのはこの通りには電柱と電線が地下に埋設されているため、空がものすごく広く感じられ、蔵造りの家々が青空を背景にくっきりと浮かびあがるのです。


大江戸散策徒然噺 川越時の鐘


まずは蔵の街のシンボル的存在の「時の鐘」に向かうことにします。平日に訪れたこの日、日本人もさることながらどういうわけか中国人とおぼしき人たちが結構多いことに驚きました。その中国人とおぼしき人たちが時の鐘の下に大勢たむろしている姿に、川越の歴史景観地区もかなり国際化してきたんだなあ、と一人つぶやいた次第です。


大江戸散策徒然噺 川越時の鐘


川越の時の鐘の始まりは江戸時代の寛永年間(1624~44)に川越城主酒井忠勝が城下多賀町 (いまの幸町)に建てたものが最初といわれています。オリジナルの時の鐘の塔は明治26年(1893)の川越の大火で焼失してしまい、翌年の明治27年に再建されたものです。
とはいえ蔵の街にひときわ高くそびえる時の鐘の塔は歴史景観に色を添えるばかりか、現在でも1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)に時を告げてくれています。


大江戸散策徒然噺 川越時の鐘


時の鐘の周辺にも蔵造りの家々が並んでいますが、やはり通りに面して建つ蔵造りの美しい景観を見なければここに来た甲斐がありません。通りにはひっきりなしに車が行き交い、ここぞと思う場所で写真を撮ろうとすると車が入り込み、蔵造りの家を邪魔してしまうのです。


大江戸散策徒然噺 鐘つき通りの道標


車の流れが途切れた瞬間にシャッターチャンスが訪れます。とはいってもゆっくり三脚を使って撮ったものではないので、若干不満の残る画像ですがご覧ください。また、逆光にならないように撮ったため、方角がすべて同じになってしまいました。


大江戸散策徒然噺 蔵造りの家
大江戸散策徒然噺 蔵造りの家並み


それでも東京都心ではまったく見ることができない町家の姿に、かつて日本橋本町界隈にはこのような蔵造りの町家が軒を連ねていたことを頭に浮かべながらそぞろ歩きを楽しみました。


大江戸散策徒然噺 人力車と蔵造りの家並み
大江戸散策徒然噺 路地裏から見た蔵造りの家
大江戸散策徒然噺 蔵造りの家
大江戸散策徒然噺 蔵造りの家


この蔵造りの家並みの裏側の路地にも興味が沸いたので行ってみることにしました。江戸の町づくりを思い返すと、通りに面して店(たな)が並び、店の裏側には長屋が軒を連ねているなんて光景を江戸の町のイラストで見た覚えがあります。だからといって平成の世に江戸の町と同じように、店(たな)の裏手に長屋が並んでいるなんてことはありません。

大江戸散策徒然噺 養寿院山門


その路地を進んでいくと由緒ありげなお寺の山門が現れました。ほんとうに見事な山門です。寺名を確認すると「曹洞宗養寿院」とあります。山門は扉を固く閉じているため、右手に回り境内へと進みます。正面にご本堂、右手に客殿とおぼしき古めかしい建物がたっています。境内は綺麗に整備され、緑濃い木々が境内に彩りを添えています。


大江戸散策徒然噺 ご本堂
大江戸散策徒然噺 客殿
大江戸散策徒然噺 境内俯瞰


境内の裏手に板東八平氏の一つで秩父氏の出の川越太郎重頼の墓があると看板がでていました。川越氏のなんたるかは存じ上げなかったのですが、興味本位に行ってみることにしました。本堂の左手の細い道を進んで行くと左前方にほんの少し土をもったような場所が現れます。その盛り土の奥に小さな五輪塔が立っています。


大江戸散策徒然噺 川越太郎重頼墓所


これが川越太郎重頼の墓なのだそうですが、一応、言い伝えということらしいのです。重頼のことを調べてみると、時代は源平の頃に遡ります。源頼朝が挙兵した当時、川越氏は平家方だったようです。しかし重頼の妻が頼朝の乳母である比企禅尼の娘だったことで、ついには頼朝方について平氏追悼に加わり、鎌倉幕府に尽力した方と言われています。


尚、重頼の娘はなんと義経の正妻に選ばれ、そして上洛することとなったのですが、頼朝と義経の仲たがいでどういうわけか重頼は誅殺され、所領まで没収されてしまったのです。そんな悲運の重頼の五輪塔は木漏れ日の中に静かに佇んでいました。


大江戸散策徒然噺 川越太郎重頼五輪塔


養寿院をあとに、さらに路地を進むと川越の観光名所の一つである「菓子屋横丁」の入口に辿りつきます。平日の午後ということで人影もまばらで、お店も開店休業状態のようです。


大江戸散策徒然噺 菓子屋横丁
大江戸散策徒然噺 菓子屋横丁


今回の川越の旅は一人旅のため、どこかで美味しいものを食べるにしても一人では心もとないので、菓子屋横丁のバス停から小江戸巡回バスに乗り川越駅へと戻ることにしました。夏の陽射しで火照った体にバス車内の冷房はなんとも心地よいものです。炎天下の川越観光には是非、小江戸巡回バスをご利用されることをお勧めいたします。


大江戸散策徒然噺

川越城本丸御殿のちょうど目の前に、なんとあの「通りゃんせ」で知られる童歌の発祥の地があるではありませんか。


大江戸散策徒然噺 三芳野神社ご社殿


通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神様の 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ


という文言の中にでてくる天神様が本丸御殿の目の前にその社殿を構えています。


大江戸散策徒然噺


その天神様が三芳野神社です。創建は古く平安時代初期の大同2年(807)に遡ります。川越城が築城される前から社を構えていたことになるのですが、神社の場所はそれこそ本丸御殿のすぐ脇ということは、この神社はお城の中に取り込まれていたことになるのです。


このため川越城築城当初から城内の鎮守として歴代の城主たちから崇敬されてきたことになります。ということはこの三芳野神社は一般庶民がおいそれと参詣に訪れることができない場所に鎮座していたことになります。


説明書きによると、江戸時代にこの天神様にお参りするには、川越城の南大手門から入り、田郭門をとおり、富士見櫓を左手に見てさらに天神門をくぐり、東へ向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細い道を通ってお参りしたそうです。この細い道が「通りゃんせ」の歌詞の発祥の地であると言われています。この道程を本丸住居絵図に照らしてみるとかなりの距離になることがわかります。


大江戸散策徒然噺 天神様へつづく細道(参道)
大江戸散策徒然噺 三芳野神社社殿

そんな長い距離があるにもかかわらず、「通りゃんせ」の歌のように庶民が「子供の七つのお祝いに御札を納めに行く」ために城内を歩くことが許されていたことに面白さを感じるとともに、城主の粋な計らいに感心してしまいます。


大江戸散策徒然噺 わらべ唄発祥の所碑


尚、「行きはよいよい 帰りはこわい」の意味はさまざまに解釈されるようですが、一般的には城内の様子を見てしまったはずの庶民にとって、見てはいけないものもあるはずなのです。そんな城内の秘密めいたものや、参詣客に紛れた敵の間者が簡単に城外へ出てしまわないよう出口で厳しく取り締まったことを「帰りはこわい」で表現したのでは、と一人想像をめぐらしたしだいです。

大江戸散策徒然噺

仙波東照宮のご社殿への参拝を終えてから隣接する川越大師こと「喜多院」の境内へすすみ、つぶさに見学とご本堂への参拝を済ませた後、かねたから訪れてみたいと思っていた「川越城本丸御殿」へ小江戸巡回バスに乗って向かうことにしました。


大江戸散策徒然噺 本丸御殿玄関


喜多院から狭い道を何度も曲がりながらおよそ10分弱のバスの旅で本丸御殿に到着します。巡回バスの停留所は本丸御殿の脇にあるので、これまた長い距離を歩かずに正面玄関(入口)に行くことができます。


大江戸散策徒然噺 本丸御殿全景


重厚な佇まいを見せる御殿正面の姿はさすが関東の雄藩である川越の城といった雰囲気を漂わせています。


大江戸散策徒然噺 本丸御殿玄関


見事な唐破風屋根が設けられている間口3間の幅を持つ玄関はさすが17万石の大名御殿らしい威厳と風格を感じさせてくれます。玄関で靴を脱ぎ、廊下をほんの少し左へと行ったところにチケット販売所が置かれています。入館料は大人一人100円です。


大江戸散策徒然噺 本丸御殿廊下
大江戸散策徒然噺 本丸御殿廊下

さて現在みることができる川越城の本丸御殿は幕末の嘉永元年(1848)に建てられたもので、その当時の本丸部分の建物の数は16棟を数え、その広さは1025坪に及んだといわれています。すなわち藩の政治を行う「表」、藩主の私的空間であった「中奥」そして女性たちスペースであった「奥」もあったのではないかと思われます。


しかし維新後はこれら本丸の建物の多くが移築されたり、解体されたりして大きく姿を変えてしまいます。明治4年の廃藩置県で川越に入間県の県庁が置かれた際に、本丸御殿の玄関と大広間が県庁舎として利用されることになります。その後、入間郡の公会所となったり、煙草工場になったり、武道場になったり、戦後は中学校の仮校舎や屋内運動場として使われ、御殿であったことすら忘れ去られてしまうほどに姿を変えていきました。


そんな川越城本丸御殿は昭和42年に本来の姿を少しでも復活すべく大規模修理を行い、当時の規模とは比べ物にならないのですが本丸御殿の一部として現在、一般公開されています。


かなりの復元大修理のお蔭で、現在は往時の屋敷らしさをほんの少し感じます。玄関からつづく幅の広い廊下とその廊下に面していくつもの部屋が並んでいます。これらの部屋もかつての「本丸住居絵図」をみるとほぼ正確に復元されています。そして各部屋にはそれぞれなんのための部屋だったかを記しています。


大江戸散策徒然噺 家老詰所棟
大江戸散策徒然噺 家老詰所の畳廊下


前述の本丸住居絵図を見る限り、現在みることのできる本丸御殿はほんのごく一部にすぎません。広々とした廊下は御殿の各部屋を取り囲むようにつづいています。その途中に継ぎ足されたような棟へつづく廊下を渡ると、一応「家老詰所」と呼ばれている建物へと進んでいきます。この棟もいくつかの小さな部屋に区切られています。奥へ奥へと進むうち、ふいに3人の人影が現れます。一瞬、「ドキッ」とするのですが、これは人形でご家老が家臣2人となにやら会議をしている様子を表しています。


大江戸散策徒然噺 御家老と家臣


ふたたび元の棟へ戻り、廊下を進んで行きます。その途中に現れるのが36畳敷きの大広間です。かつての御殿の中でも2番目に大きかった部屋で、来客が藩主に会うまで待機するために使用されたものです。藩主との対面は今は残っていませんが、大書院で行われていたようです。


大江戸散策徒然噺 大広間
大江戸散策徒然噺 廊下から見た大広間

日本全国に点在する「城郭」でかつての遺構として本丸が残っているのは極めて僅かなのです。なおかつ掘割に囲まれた内郭に本丸が残っている例は京都二条城を除いては彦根城くらいなものでしょう。維新後、明治政府は廃藩置県、版籍奉還の名のもとに旧封建社会のシンボル的存在である天守や本丸はては大名屋敷までをも解体し、あたかも徳川幕藩体制の恨みを晴らすかのごとく徹底した粛清を行ったように思えます。


大江戸散策徒然噺 本丸御殿外観


とはいえもし天守や本丸を当時の明治政府が残したとしても、おそらく第二次世界大戦の米軍の空襲で燃えてしまったのかもしれませんが…。それでも川越が在りし日の本丸の姿を僅かながらでも残していることは称賛に値するものではないでしょうか。


大江戸散策徒然噺

これまで日本各地に点在する代表的な東照宮詣でをしてまいりましたが、灯台下暗しともいうべきか東京からさほど離れていない川越の東照宮が取材先から漏れていました。


江戸の風情に溢れている川越の中で最も取材をしてみたい場所が日本の三大東照宮と言われている「仙波東照宮」だったのです。


先の中院からは徒歩で数分の距離に神君家康公は鎮座しています。中院からまっすぐに延びる道を歩いていくと、ふいに仙波東照宮と書かれた看板が目に飛び込んできます。


大江戸散策徒然噺 仙波東照宮参道入り口


私にとっての東照宮は尊敬する神君家康公を祀る社であると同時に、徳川将軍家の心の拠り所としても、江戸時代を通じて幕藩体制を堅固にした象徴的な特別な存在として威厳をもって迫ってくるのです。


川越の東照宮は元和3年(1617)、徳川家康の遺骸を久能山から日光に移送する途中、喜多院に4日間とう留して家康公の政策ブレーンであった天海僧正が大法要を営みました。そのことにより寛永10年(1633)に喜多院の境内に東照宮が創建されたのです。


そんな川越の仙波東照宮の佇まいは日光や久能山に比較するとかなり地味な装いで私を迎えてくれました。参道入り口からは東照宮の社殿を見ることができませんが、一直線にのびる参道の向こうに朱で塗られた門が置かれています。これが随身門と呼ばれる門です。


大江戸散策徒然噺 随身門


これまで詣でた東照宮の中ではかなり地味な色合いと華美にならない簡素な門といった印象です。かつては門の左右にはそれぞれ随身が置かれていたようですが、今はその姿を見ることができません。どこへ行ってしまったのでしょう?


夏の陽射しを背中に受けながら随身門をくぐると前方に石造りの鳥居が建っています。三大東照宮にしてはその鳥居の規模も地味なのですが、長い歴史を刻んでいるような佇まいを見せています。鳥居には「寛永15年9月17日」の文字が刻まれています。かつては「東照大権現」の扁額も掲げられていたと思いますが、現在はその扁額すらありません。どうしてどうしょうか?この鳥居は寛永の大火の後、三大将軍家光公の命により東照宮の再建に当たった当時の川越城主であった堀田正盛が奉納したものです。


大江戸散策徒然噺 参道と鳥居
大江戸散策徒然噺 鳥居に刻まれた文字


鳥居をくぐるとその向こうにはこんもりとした東照宮の杜が見えてきます。先ほどの随身門から鳥居を一直線に結んだ先に東照宮ご社殿へと通じる長い石段が見えます。


大江戸散策徒然噺 社殿へとつづく石段


周囲の木々の緑に覆われた石段をのぼって行く瞬間は、いずこの東照宮参拝でも気持ちが引き締まる思いです。石段をのぼりきると大きな葵のご紋が掲げられた鉄扉が迎えてくれます。この葵のご紋に迎えられる気持ちは家康公好きの私にとっては何にもまして代えがたいものです。


大江戸散策徒然噺 門に掲げられた葵の御紋


いよいよ東照宮社殿が居並ぶ神域へと入ってきます。ご社殿はまず拝幣殿、そしてその背後に平唐門とそれに付随する瑞垣、その瑞垣に囲まれた本殿の順で配置されています。全体的な雰囲気としては愛知県の鳳来山東照宮や同じく瀧山東照宮の佇まいに似ているような気がします。


大江戸散策徒然噺 拝幣殿
大江戸散策徒然噺 拝幣殿


現在見る東照宮の各殿の建物は寛永の大火後の再建の際に、江戸城内にあった空宮を解体しここに移築、再建したもので拝殿の向背部分の装飾は非常に地味で極彩色の彩りはありません。


大江戸散策徒然噺 拝幣殿の向背部分


拝殿の後方の唐門と本殿には近づくことができませんが、唐門とそれに付随する透塀、更にはその背後の本殿の姿はさすが三大東照宮の一つと言われる風格を感じさせてくれます。遠目でしかわかりませんが、本殿はきっと極彩色の彩りと見事な彫刻群で飾り立てられているのではないでしょうか?


大江戸散策徒然噺 平唐門と本社殿


拝殿が置かれている敷地の左右にはたくさんの石灯籠がたっています。これらの石灯籠は歴代の川越城主が寄進したもので全部で26基並んでいます。


大江戸散策徒然噺 石灯籠群


特に歴史上の人物として名高い松平信綱(知恵伊豆として有名)をはじめ、歴代の川越城主であった松平輝綱、松平信輝、柳沢吉保、秋元喬房、秋元涼朝、松平直恒、松平斉典が奉納寄進した灯篭は拝殿後方の唐門手前にずらりと並んでいます。


大江戸散策徒然噺 唐門前の石灯籠


尚、現存する東照宮の随身門、鳥居、拝幣殿、平唐門、瑞垣、本殿すべてが重要文化財に指定されています。


住所:埼玉県川越市小仙波町1-21-1
電話:049-224-3431
拝観時間:9時~16時
拝観料なし
通常は拝殿手前までは入場できます。


大江戸散策徒然噺

本格的な夏の到来で連日猛暑がつづき、炎天下での取材に二の足を踏んでしまう昨今なのですが、そうも言ってられず今日は覚悟の上で川越の歴史散策を敢行した次第です。


東武東上線の川越駅を降りた途端、肌にまとわりつくような熱気に「散策に耐えられるだろうか」という不安が頭によぎります。午前中にもかかわらず気温はもう30度を軽く超え、さすが関東内陸の猛暑地帯を実感。こんな環境ですべてを徒歩で巡ることはあまりにも無謀。それではと川越市内の見どころを効率よく巡ってくれるバスサービスを利用することにしました。


今回選択したバスサービスは「小江戸巡回バス」。レトロ感が漂うボンネットバスで知られるイーグルバスという会社が運行しています。小江戸巡回バスは区間ごとに乗車賃を支払いながら利用することができるのですが、お得な「1日フリー乗車券」を500円で購入すれば、何度でも乗り降りができるものです。1区間ごとの料金は170円ですから3回以上の乗り降りを予定している向きにはこの「1日フリー乗車券」が断然お得です。


川越駅の西口の6番乗り場にボンネットバスが出発を待っています。最初の目的地を喜多院とその周辺にさだめ、いよいよ小江戸・川越の歴史散策というよりか、ボンネットバスの旅を始めることにします。


まずは喜多院や仙波東照宮からさほど離れていない場所に伽藍を構える「中院」へ向かうことにします。川越駅からボンネットバスでおよそ10数分の距離です。中院のバス停留所は川越総合高校のグランド脇を走る道に、それこそ中院の山門の真ん前に置かれています。


大江戸散策徒然噺 中院山門


中院は今から1200年前の830年頃にに慈覚大師、すなわち円仁が開基した天台宗の古刹です。その時に朝廷から賜った勅号が「星野山無量寿寺仏地院」すなわち中院なのです。しかしながらそれから110年後には天慶の乱(941)で寺運が衰え、その後の元久の乱で堂宇は灰燼に帰してしまいます。


中院が再び復興するには三百数十年の時を待たなければなりません。時は永仁4年(1296)に尊海僧正により仏地院が再建されます。その後、寺勢は盛んになり朝廷から関東天台の本山の勅許を得るまでになります。尊海僧正はその後、仏蔵院(北院=現喜多院)と多聞院(南院)を建立しています。ということはかつては3つの寺院が北から順番に中、南と並んでいた訳です。


大江戸散策徒然噺 赤門


山門はバス通りに面してどういうわけか2つ並んでいます。一つは色は若干褪せていますが朱色に塗られた門で、門柱に400年前に建立されたものであることが記された木札が貼ってあります。400年前といえば江戸時代の初期のころにあたるのですが、それ以上の詳しい記述がないのでこの朱色の門がここに置かれている由来がわかりません。


大江戸散策徒然噺 中院山門


この朱色の門から左へわずか進んだところに中院の正門である「山門」が構えています。門の前には「天台宗星野山中院」の石柱が立っています。山門をくぐると境内に広がる手入れされた庭が現れます。綺麗に剪定された植え込みの緑がが夏の陽射しに映えて輝いています。


大江戸散策徒然噺 境内から見る赤門と山門


ご本堂は境内の一番奥にどっしりとした姿で構えています。美しい庭と適度に配置された木々の緑が静かに佇むご本堂にアクセントを加えています。


大江戸散策徒然噺 ご本堂
大江戸散策徒然噺 ご本堂


境内の庭園の一角に「不染亭(ふせんてい)と書かれた額が掲げられた建物が置かれています。実は中院は島崎藤村と浅からぬ関係があり、この建物は藤村ゆかりの「茶室」だそうです。境内の墓地には藤村の義母である加藤みきの墓があります。「不染亭」の前には、藤村の書による「不染之碑」が立っています。


大江戸散策徒然噺 不染之碑
大江戸散策徒然噺 不染亭


さらに境内を奥へ進むと木々の緑に覆われた場所にもう一つのお堂が建っています。釈迦堂と呼ばれている建物で比叡山延暦寺の西塔にある釈迦堂を模して建立されたものです。


大江戸散策徒然噺 釈迦堂


釈迦堂の傍らに置かれているのが「狭山茶発祥の地」の記念碑です。中院を開山した慈覚大師(円仁)は京都からお茶の実を持参し、この場所で茶の栽培を始め、このことで後世にお茶の栽培が普及し、埼玉県の代表茶である「狭山茶」が誕生したと言われています。


大江戸散策徒然噺 狭山茶発祥の地碑


こんな歴史に彩られた中院を辞して、次に神君家康公を祀る仙波東照宮へと向かうことにします。その途中の路傍に寂しく佇んでいるのがかつて南院があった場所に置かれた石塔婆の姿です。


大江戸散策徒然噺 南院跡の石塔婆群


前述のように無量寿寺には北院、中院、南院があり、永禄年間(1558~1570)頃までは3院が存在していました。ところが江戸時代はじめに川越大火があり多くの寺院が焼失し、かつて中院のあった場所には仙波東照宮が建てられた為、中院は200m南に移動し、一方南院は明治の初めに廃院となり、その場所には現在数十基の石塔婆がかつての栄華を偲ぶように置かれています。


住所:埼玉県川越市小仙波町5-15-1
電話:049-222-2170
アクセス:【電車】西武新宿線「本川越駅」より徒歩20分/【バス】川越駅西口、小江戸巡回バスで喜多院先回りコース「中院」下車
拝観:拝観料なし


大江戸散策徒然噺