大江戸散策徒然噺 -3ページ目

大江戸散策徒然噺

大都市の中のお江戸の名残りを紹介します。江戸時代260年にまつわる日本全国の歴史散策をお楽しみください。

本日の歩行距離である9.8kmのまだ半分にも至らない場所である境木からはだらだらとした下り坂がしばらく続きます。


大江戸散策徒然噺 境木地蔵尊前交差点の石柱


境木地蔵尊前交差点の左角に立つ大きな石柱には「右 環状二号線」、左手の道は「左 旧東海道」の文字が刻まれています。そして左手に進む下り坂が旧東海道筋の「焼餅坂」です。


大江戸散策徒然噺 焼餅坂


焼餅坂を下り、品平橋を渡ると道はそれほどの急坂ではありませんが再び登り坂に変わります。この坂が次の「品濃坂」です。坂を登り切った所の右手にこんもりとした森があり、その脇には「品濃一里塚」と題した解説板が置かれています。


大江戸散策徒然噺 品濃一里塚


ここ品濃の一里塚は日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれています。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけです。


大江戸散策徒然噺 一里塚の裏手

大江戸散策徒然噺 反対側の一里塚


見上げるような造りの一里塚なのですが、かつては東海道と一里塚はほぼ同じ高さだったのですが、後世になって東海道を掘り下げたため、一里塚が山のようになりまるで切通しのようになってしまいました。

せっかくなので進行方向右手の一里塚の裏手から登ってみることにしました。たしかに盛り土をしたような形をしており、根っこが地表にあらわになるくらいな大きな木が植えられていました。


一里塚を過ぎ、住宅街がつづく地区へと入ります。一里塚から約260mほどで福寿観音堂に到着です。このあたりがおよそ4km地点にあたります。観音堂から右へ進むとJR東戸塚駅です。この辺りでトイレ休憩です。


休憩の後、再び旧東海道を戸塚宿へと進んでいきます。道に沿って右側が住宅街そしてまもなくすると左手には果樹園が広がってきます。こんなところに果樹園が…。路傍に置かれた果樹園の案内板をみると8軒の農園がこの付近一帯に点在しています。


そんな果樹栽培の直販所が街道脇に店を構えています。果物は「梨」が盛りのようで、この辺りは「豊水」という銘柄の梨が栽培されているようです。


大江戸散策徒然噺 果樹園の直販所


この果樹園を見ながら進んで行くと、旧東海道筋は極端に狭くなり、狭い石段と姿を変えていきます。その石段を下ると、環状2号線に架かる品濃坂歩道橋です。旧東海道はここでいったん寸断され、歩道橋の向こう側へとつづいていきます。


大江戸散策徒然噺 環状2号線に架かる品濃坂歩道橋


歩道橋を渡ると、比較的急な坂がつづく、しばらくすると平坦な道へと変わっていきます。バイパス下の坂下バス停を過ぎ、住宅街を抜けていくと柏尾川の流れが目に飛び込んできます。柏尾川に沿って国道1号線と交わる東戸塚駅入口信号までは閑静な住宅街がつづきます。信号を渡り、国道1号線を横切り、旧街道を進んで行きましょう。旧街道は赤関橋信号で再び国道一号線と合流したのち、ほんのわずかな距離でまた分岐します。


上柏尾歩道橋を過ぎると国道一号線の右側に「山崎パン工場」が見えてきます。柏尾小入口信号を過ぎると今度は「森紙業」の工場が右手に現れます。この辺りが歩き始めてほぼ6.5キロの地点です。そして次に右手には「ポーラ化粧品」の工場です。左手には王子神社の境内が広がります。


王子神社を過ぎて前方のファミリーマートの先に街道の風情を醸し出すような白壁の蔵が現れます。

蔵を過ぎてすぐ国道一号線の右側には「大山道道標」が現れます。「柏尾の大山道入口 ここを入る」の看板が立っていて、右手に分かれていく道を指しています。


※大山は江戸時代から広く関東一円の人びとのあいだに信仰されていました。大山道はこうした参詣者の道で、旧東海道から大山への入口が柏尾です。


王子神社を過ぎて先へ進んで行くと、国道一号線の傍らに大きな「モチノキ」が現れます。高さはなんと19mもあり、神奈川県下で最大の大きさです。


大江戸散策徒然噺 益田家のモチノキ銘板


《かながわの名木100選・ 益田家のモチノキ》
樹形が整い樹勢も旺盛な県下最大のモチノキの巨木である。古くから「相模モチ」の愛称で親しまれている。県の天然記念物に指定されている。
樹高19メートル、胸高周囲2.4メートル、樹齢約300年(推定)


大江戸散策徒然噺 益田家のモチノキ


モチノキを過ぎるとすぐに「不動坂交差点」です。この交差点から国道一号は二手に分岐します。右へと向かう国道一号はバイパスで、まっすぐ伸び国道1号は戸塚駅へと向かいます。私たちは一番左側の旧東海道へと進むことにします。なだらかな勾配を上ると、道はゆるやかな下りへと変わります。そんな坂の名前が「不動坂」です。


この道筋を進んで行くと、右手に比較的大きな煉瓦造りの建物が見えてきます。じつはこの建物はあの有名な「鎌倉ハム」を手掛けている斉藤肉店所有のもので、以前はハムを貯蔵するために使われていました。現在はハムの貯蔵庫ではなく、どこぞのペンキ屋さんが倉庫として使用しているそうです。


大江戸散策徒然噺 煉瓦造りの倉庫


この煉瓦造りの建物に隣接して、歴史を感じる蔵造りの家が建っています。この建物こそ鎌倉ハムの創業者である斉藤家の建物です。そしてこの蔵造りの建物の隣に「サイトウミート」の看板を掲げる肉屋さんがあるのですが、実は鎌倉ハムの斉藤家ではなく、偶然に同じ名前の斉藤さんが肉屋を経営しているとのことです。


大江戸散策徒然噺 蔵造りの家


道は舞岡川に架かる舞岡橋へとでてきます。このあと国道1号線に合流すると、本日の戸塚駅までは国道1号線に沿って歩くことになります。今日の行程では目まぐるしく景色がかわる楽しみを味わうことができるのですが、戸塚付近の国道1号線に沿った景色は昔ながらの雰囲気を漂わせ、大都市に近い戸塚の街とは思えないほど田舎じみています。


舞岡川に架かる五太夫橋を渡ると右手にブリジストンの工場が現れます。そしてダイエーの隣のファミリーレストラン「フォルクス」の店の前に「江戸方見付跡」と刻まれた石碑が置かれています。ここが戸塚宿の江戸側の入口にあたる江戸方見附があった場所になります。ここから吉田町・矢部町・戸塚町の三町にまたがる街並みが東海道の宿場町として整備されたのは慶長9年(1604)で、隣の保土ヶ谷宿よりも3年ほど遅れて成立したようです。


大江戸散策徒然噺 江戸方見付跡碑


戸塚江戸見附跡を過ぎると、保土ヶ谷宿を出発してからおよそ7.5キロの地点にさしかかります。国道一号線の左側のセブンイレブンを通り過ぎると「戸塚一里塚跡」の標識が立っています。江戸日本橋から10番目の一里塚ですが、今ではその遺構などは残っておらず、標識が立っているだけです。


一里塚跡を過ぎると柏尾川に架かる「吉田大橋」に到着です。橋の欄干にはただ「大橋」と記されています。吉田大橋交差点から左手へと柏尾川沿いに分かれていくのは鎌倉道で、旧東海道はこの吉田大橋を渡っていきます。橋の袂には広重が描いた戸塚の景が掲げられています。


大江戸散策徒然噺 吉田大橋
大江戸散策徒然噺 吉田大橋


吉田橋を渡ると600mほどでJR戸塚駅に到着です。その道筋にレトロ感漂う建物が一軒建っています。伊東医院と看板がでていることからお医者さんの建物のようです。門を入ると簡単な説明書きがあり、その説明によると大正時代に建てられたものと記されています。どうりでロマンを感じさせるような雰囲気を漂わせていると思いました。


大江戸散策徒然噺 レトロ感漂う建物


保土ヶ谷駅から戸塚駅までの9.8kmを踏破したのですが、暑さの中での山越えで足は棒のようになり、汗まみれの体は疲労困憊。駅前のコーヒーショップでガムシロップをたっぷり入れたアイスコーヒーが疲れ切った体に浸み込んでいきました。


秋・9月、10月、11月の歴史散策コースの日程を発表しました!

大江戸散策徒然噺

樹源寺を後に旧東海道の旅を続けていきましょう。元町橋バス停を過ぎていくとT字路に突き当たります。その脇には「歴史の道」の道標が立っていて、左手の道は「権太坂」、今来た道は「上方見附1km・一里塚1km・本陣跡1.5km」となっています。T字路を左折して元町橋を渡っていくと、正面に歩道橋が見えてきます。その手前から右手へと延びる道が権太坂へとつづいていきます。この右手の坂道を辿ると、江戸から上方へ向かう東海道で最初に出会う難所の「権太坂」です。


大江戸散策徒然噺 権太坂入口


戸塚宿までの行程ではこの権太坂の一番坂、二番坂をはいじめ焼餅坂、品濃坂と起伏の多い地形が続きます。年始に行われる「箱根駅伝」では旧東海道の権太坂は通りませんが、国道1号線の坂を権太坂と呼び、往路2区の難所として知られています。旧街道の権太坂の頂点付近まで約1.5km、標高差60mの結構きつい坂道です。


それまで平坦であった旧東海道は権太坂入口から突如として急勾配の坂道へと変貌します。登り始めてから1分ほどで赤い鳥居が現れます。この鳥居の奥に「権太坂改修記念碑」が置かれています。この辺りが最初のきつい坂です。


大江戸散策徒然噺 権太坂改修記念碑


いっきに登りつめるような急な坂道がしばらくつづき、保土ヶ谷バイパスに架かる権太坂陸橋が見えてきます。このあたりもまだ坂がつづきます。陸橋をすぎるとやや勾配は緩やかになるのですが、これまでの急坂でかなりエネルギーを消耗してしまった体には、緩やかな勾配であっても体に負担がかかります。


いわゆる一番坂と呼ばれる坂が終わるころ、路傍に「権太坂」と刻まれた石柱が置かれています。その脇に案内板が置かれ、権太坂の名の由来が記されています。


大江戸散策徒然噺 権太坂の石柱


その由来とは、「あるとき、旅人がこの坂の近くにいた老人に坂の名前を尋ねたところ、耳の遠い老人が自分の名前を聞かれたと思い込み、「ごんたでございます」と答え、それから権太坂と呼ばれるようになった。と記されていました。


権太坂の石柱を過ぎて緩やかになった道を進むと、右手に保土ヶ谷の進学校として有名な光陵高等学校の校門が現れます。そしてこの校門を過ぎると、再び登りの傾斜が増してきます。これが権太坂の二番坂です。


大江戸散策徒然噺 権太坂の二番坂


この二番坂を登りきると、ほぼ権太坂の頂上地点に到着です。標高差が約60m~70mの権太坂はかつてはかなりの難所で多くの旅人や牛馬もそのきつさに「行倒れ」になってしまったと言われています。そんな哀れにも行倒れになった人たちや牛馬を埋葬した場所が「投げ込み塚」の名で旧街道からちょっと逸れた場所に残っています。


大江戸散策徒然噺 投げ込み塚


「往時旅人の行倒れせし者多く、之を埋葬せる処也。」ということで塚がここに建てられています。「偶々当地区開発に当り多数の白骨を発掘、現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建て、之が菩提を弔ひ在者也。 昭和三十九年四月建之」の文字が刻まれています。


投げ込み塚から再び旧街道に戻ると、境木(さかいぎ)という地名に変わります。そんな境木には江戸時代に権太坂を登ってきた旅人や、はたまた反対側の品濃坂や焼餅坂を登ってきた旅人のための「立場茶屋」があったところで、多くの旅人が疲れた体を休めた場所でもあります。江戸時代には「牡丹餅」が名物でかなり評判になっていたようです。


そして現代版の茶店ではありませんが、ここ境木には現代の旅人の疲れを癒す「おじぞうさん最中」なる和菓子を売る店があります。こんな下見をしていて楽しみなのはその土地土地の名物を食してみるということもたいへん重要なことなのです。


大江戸散策徒然噺 おじぞうさん最中の店


さっそくメンバー共々、店に入り名物の「おじぞうさん最中(1個190円)」を購入して食べることにしました。私は「つぶ餡」を食べたのですが、疲れ切った体に、餡の甘味が一気に染み渡っていったように感じました。「おじぞうさん最中」はこのつぶ餡とこし餡の2種類がありますが、どちらの最中もたいへん美味しいです。


大江戸散策徒然噺 おじぞうさん最中


また最中以外に「権太坂むしどら焼き」もあり、これもふわふわ生地の中につぶ餡が入っていてたいそう美味しく感じました。


大江戸散策徒然噺 権太坂むしどら焼き
大江戸散策徒然噺 権太坂むしどら焼き


ちょっと寄り道をして、エネルギーを補充した後、境木立場跡へと向かうことにします。立場とは宿場町と宿場町との間に設けられたもので、そこには旅人が体を休めるための「茶屋」が置かれていました。その境木の茶屋の一つであった「若林家」の門が旧街道に面して今でも残っています。この若林家は明治の中ごろまで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物だったと伝えられ、なんと参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。


大江戸散策徒然噺 境木立場跡
大江戸散策徒然噺 若林家の門


さて、境木という地名の由来ですが武相(武蔵と相模)の国境があったところです。江戸時代にはその標(傍示杭(ぼうじぐい)あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱)が建てられていて、境木の地名はそれからきたといわれています。


そして境木を有名にした言い伝えが残っています。『いつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち、「俺は江戸の方へ行きたい。運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので、漁師達が江戸へ運ぶ途中、この境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからは村が繁昌したということです。』


大江戸散策徒然噺 境木地蔵尊
大江戸散策徒然噺 境木地蔵の祠
大江戸散策徒然噺 祠の中のおじぞうさん


そんな噂を聞きつけた江戸の人たちもたくさんここを訪れ、境内には寄付された燈籠が残っています。境木地蔵尊前の広場には「武相国境之木」と記された記念碑が建っています。私たちの東海道の旅もいよいよ武蔵野国から相模の国へと進んでいきます。


大江戸散策徒然噺 武相国境之木の記念碑


其の参へつづく


秋・9月、10月、11月の歴史散策コースの日程を発表しました!

大江戸散策徒然噺

9月に入りいくぶん暑さも和らいだかな?と思われた9月4日(火)に某旅行会社主催の東海道五十三次街道巡りの「保土ヶ谷宿から戸塚宿(約9.8km)」間の下見に出かけてきました。保土ヶ谷宿の出立時間を正午に設定していたため、9月初めとはいえ真夏を思わせる陽射しが真上から降りそそぐ時間帯です。


出立場所は保土ヶ谷の江戸方見附から1kmほど先のJR保土ヶ谷駅なので全長2kmの保土ヶ谷宿内のうちほぼ半分の区間は割愛させていただきます。


さあ!いよいよ江戸から数えて4番目の宿場町である「保土ヶ谷宿」の中心部分へと進んでいきましょう。

JR保土ヶ谷駅の北口のローターリーを抜けると、旧東海道の道筋にあたる「さつき通り商店街」の入口にさしかかります。活気のある商店街とは言えない佇まいがつづきます。これまで歩いてきた各宿場町の商店街で見るような「街道らしさ」をそれほど感じない街並みです。


大江戸散策徒然噺 さつき通り商店街


ときおり現れるかつての助郷会所跡にいたっては、標柱はあるものの自動販売機の脇に置かれた「ビン缶・ペットボトル入れ」に赤字で「助郷会所跡」と記され、ご丁寧にも自動販売機とボトル入れの下部には「海鼠塀」らしき模様まで描かれています。それなりの努力は認めつつも、ほんのちょっと街道の雰囲気を考えた意匠にしてもらったほうがいいのではないでしょうか?


大江戸散策徒然噺 助郷会所跡の自動販売機


そんな「さつき通り商店街」を進んで行くと、金沢横町の小さな四つ角にさしかかります。進行方向左手の角に街道らしさを感じさせてくれる4基の道標が往時を偲ぶようにひっそりと佇んでいます。


大江戸散策徒然噺 金沢横町の道標4基


右から

①円海山之道〔天明三年(1783)建立〕
②かなさわ、かまくら道〔天和二年(1682)建立〕
③杉田道〔文化十一年(1814)建立〕
④富岡芋大明神社の道〔弘化二年(1845)建立〕


大江戸散策徒然噺 道標脇にあるお休み処


金沢横町を過ぎるとまもなくJR線の踏切にさしかかります。踏切を渡ると旧街道は国道1号線に突き当ります。この合流地点には保土ヶ谷宿の本陣跡があります。ここで旧東海道は大きく右へ折れ、難所と言われる「権太坂」方向へと進んでいきます。


保土ヶ谷本陣は苅部本陣(かるべほんじん)と呼ばれていたもので、現在は通用門だけが残っていますが、往時建坪が270坪もあり部屋数18、畳数140は東海道の本陣の中でも十指に入るほどの規模でした。通用門前の塀が崩れ、修復中なのですが、実は昨年の東日本大震災で塀が壊れてしまったそうです。


大江戸散策徒然噺 苅部本陣跡の門


国道1号線を進行方向に向かって左側の歩道を歩いていくと、次に脇本陣の藤屋跡、そして脇本陣の水屋跡、更に旅籠屋の本金子屋跡とつづきます。宿場時代の唯一の建築物である本金子屋が今でも残っています。ただし、江戸時代のものではなく明治になって新築されたものです。


大江戸散策徒然噺 本金子屋跡


江戸時代には先の本陣から本金子屋までの区間に14軒ほどの旅籠、水屋が軒を連ねていたようです。そんな時代があったことなど忘れ去られたように、現在ではマンションが連なっています。


本金子屋を過ぎてしばらく歩くと左手に金色の擬宝珠を備えた今井川に架かる仙人橋が見えてきます。その仙人橋の袂には「歴史の道 一里塚跡・上方見附跡」の解説板が置かれ、その脇には「東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚」と題した解説板もあります。


大江戸散策徒然噺 歴史の道 一里塚跡・上方見附跡
大江戸散策徒然噺 歴史の道 一里塚跡・上方見附跡
大江戸散策徒然噺 歴史の道 一里塚跡・上方見附跡


この辺りが保土ヶ谷宿の京都側の出入口にあたる上方見附だった所のようで、小振りの一里塚も復元されています。保土谷宿の一里塚は江戸から8番目にあたり、かつては五間(9m)四方の塚が築かれ、塚の上には榎が植えられ旅人の休憩場所としても利用されていました。


そして今井川に架かる仙人橋を渡り、なだらかな傾斜の向こうに佇むのが「外川神社」の社です。外川神社は、保土ヶ谷宿内の羽州湯殿山の講中の先達であった清宮興一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝し、明治2年、この地に羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請したもので、以来、小児の虫封じ、航海安全に利益があるとされていました。明治初年、神仏分離令の発布によって祭神を日本武尊とし、外川神社と改称しました。


大江戸散策徒然噺 仙人橋の擬宝珠
大江戸散策徒然噺 外川神社
大江戸散策徒然噺 外川神社石碑

外川神社から再び旧東海道筋へ戻り、進むと岩崎ガード交差点に保土ヶ谷歩道橋が架かっています。歩道橋を渡って、国道1号を更にその先へ進んでいきます。反対側の保土ヶ谷町2丁目バス停を過ぎた所で道が二手に分かれている保土ヶ谷2丁目交差点があります。角には「歴史の道」の道標が立っています。


大江戸散策徒然噺 一里塚からみた松並木


国道一号線からいったん分岐して旧東海道を進むと樹源寺バス停が見えてきます。このバス停の先の右手に折れる石段を上って行くと樹源寺です。鎌倉時代に建てられた医王寺が焼失した後、江戸時代初期の1628年に、あの本陣を経営していた苅部家により身延山久遠寺の末寺として開山したようです。


其の弐へつづく


秋・9月、10月、11月の歴史散策コースの日程を発表しました!

大江戸散策徒然噺

先日の8月14日に引き続いて横浜散策のコース見直し作業のため、またまた炎天下の横浜山手地区をブラブラと歩いてきました。


大江戸散策徒然噺 イタリア山庭園・外交官の家


前回はかなり広範囲に散策ルートを設定したため全行程12kmとかなり長距離となってしまったのですが、今回は大幅に散策ルートを見直し、前回の半分の6kmと身体に優しい距離となりました。


大江戸散策徒然噺 イタリア山庭園から眺める横浜市内


散策序盤の山手地区は前回とまったく同じルートを辿ります。山手地区らしい閑静な住宅地に点在する教会や瀟洒な装いの洋館に立ち寄りながらイタリア山庭園の先の地蔵坂交差点にさしかかります。前回はこの交差点を直進し根岸森林公園へと進んだのですが、今回は地蔵坂交差点を大きく左へ折れて、桜道と呼ばれる道筋を辿り「山手公園」へと向かうことにしました。


桜道を進んで行くと、前方にこんもりと茂った森が現れてきます。この森全体が「山手公園」です。高台全体が木々で覆われ、照り付ける陽射しが木々の葉で遮られ、ひとときの涼を満喫することができます。そんな山手公園の入口脇に「近代下水道記念碑」なるものが置かれています。


大江戸散策徒然噺 近代下水道記念碑


碑には「旧横浜外国人居留地(関内・山手)では、近代的な下水道が明治10年代までに整備されました。この山手公園沿いの桜道などには当時の石造下水管(内法幅0.6m、高さ約0.8mの防州石造の暗渠約130mとこの碑の左側にはブラフ溝(石造側溝)が、100年以上経た今日においても使われています。この碑は横浜市の下水管の総延長が、平成7年11月に1万kmに達したことを記念して、この地に建立するものです。」と記されています。


そもそも山手公園は明治3年(1870)に、横浜の居留地に住む外国人の手によって造られた我国最初の洋式公園です。以来80年間外国人専用の公園として利用され、園内には外国の公園で目にする「ヒマラヤスギ」の大木が見事な枝振りを見せています。どことなく異国情緒を感じる場所です。


外国人専用の公園であったここ山下公園にはもう一つ、外国から導入されたスポーツである「テニス(庭球)」の日本における発祥地でもあるのです。テニスコートの傍らに「日本庭球発祥之地碑」が置かれています。


大江戸散策徒然噺 日本庭球発祥之地碑


碑には山手公園は 1870年(明治3年) 横浜の居留地外国人の レクリエーションの場としてつくられた。 1878年 レディース ローン テニス アンド クロッケークラブ, 現在の横浜インターナショナルテニスクラブが この地に 5面のテニスコートを建設した。この地は 日本のテニス発祥の地 とされている。
昭和53年10月15日
横浜インターナショナル テニス クラブ
と記されています。


幕末から明治にかけて多くの外国人が住んでいた横浜ならではの文明開化の証を見たような気がします。その文明開化の足跡はここ山手公園からさほど離れていない寺にも残っていました。


山手公園に隣接する小高い丘の中腹に山門を構えるのが「妙香寺」です。当寺の開基は弘仁5年(814)に真言宗の開祖である空海の手によるものです。その後、真言宗から日蓮宗に改宗され現在に至っています。


大江戸散策徒然噺 参道脇の「君が代由緒地碑」


見上げるような長い石段へとつづく参道入り口に「君が代由緒地」と朱色の文字で刻まれた大きな石が置かれています。まぎれもなく我が国の国歌である「君が代」と何らかの関係を持つお寺なのです。


大江戸散策徒然噺 山門へとつづく石段
大江戸散策徒然噺 妙香寺山門
大江戸散策徒然噺 妙香寺ご本堂

長い石段の上に山門が構えています。山門をくぐると境内には真新しいご本堂が現れます。そして境内の奥には「国歌君が代発祥の地碑」と「日本吹奏楽発祥の地の碑」が置かれています。


〒231-0841
横浜市中区妙香寺台八番地
電話:045-623-8726番
FAX :045-625-0726番
HP : http://myokohji.jp


それでは何故、妙香寺が国歌君が代と由緒があるのか?なのですが、実は私たちが愛する国歌「君が代」は明治3年(1869)に英国陸軍常備歩兵隊第十番大隊付軍楽長であったジョン・ウィリアム・フェントン(Fenton)によって古歌君が代に曲をのせたものが最初だったのです。このフェントンをはじめとする軍楽隊の宿舎として使われていたのが妙香寺だったのです。しかしフェントンが妙香寺に滞留中に造った曲調は現在の君が代とは違い、欧州風のコラール調であったため、明治9年にフェントンの曲調の「君が代」は廃止されてしまいます。


大江戸散策徒然噺 国歌君が代発祥の地碑


※君が代の歌詞は古歌君が代・古今和歌集第7巻「賀歌の部」に詠み人しらずで記載されています。

その後、明治13年の国歌作曲改訂により日本人の手で壱越調の新たな曲調の「君が代」が完成し、現在に至っています。


さらに明治初期には「薩摩藩洋楽伝習生」がフェントンの指導を仰ぐために横浜にやってきて、ここ妙香寺を宿舎として滞在しています。そして彼ら薩摩藩士たちが日本で最初の吹奏楽隊となったことで、妙香寺は「吹奏楽発祥之地」と呼ばれる所以なのです。


大江戸散策徒然噺 日本吹奏楽発祥の地の碑


横浜山手地区巡りは終盤にさしかかります。次に訪れたのが妙香寺からさほど離れていない場所にある「日本のビール発祥の地」です。


大江戸散策徒然噺 麒麟園門柱


ことの始まりはなんと維新後の明治2年(1869)。この時期に居留地の外国人向けに山手居留地46番地でローゼンフェルトが日本初のビール醸造所「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」の操業を開始したのです。


そして翌年明治3年(1870)には横浜・山手の外国人居留地123番にウィリアム・コープランドがビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」を設立し、日本で初めて産業としてビールの醸造と販売を行いました。


その後、明治18年(1885)に「スプリング・バレー・ブルワリー」の建物と土地は日本在住の外国人が経営するジャパン・ブルワリーに引き継がれ、明治21年(1888)に「キリンビール」が発売されました。そして明治40年(1907)にジャパン・ブルワリーを引き継いだ「麒麟麦酒株式会社」が創立し、関東大震災が起こった大正12年(1923)まで、ここ山手の地でビールが造られていたのです。


かつて麒麟麦酒の醸造所があった場所は小さな公園として残され、その一画に大きな石碑が建てられています。


大江戸散策徒然噺 麒麟麦酒発祥の地碑


このあと本牧方面へと下り、山下公園方面へと繋がる美晴トンネルを抜けて出発地点へと戻ることにしました。今回のルートの中で「日本ではじめて」の地が次から次へと現れてきます。維新から文明開化の時代を迎えた横浜は当時の日本の中では外国文化が最初に根付き、そして日本全国へと波及していく発信地であったと思います。そんな横浜には「日本ではじめて」の場所がたくさんあります。


大江戸散策徒然噺 今回の散策ルートマップ

ちなみに
①パンの発祥地
②塗装発祥の地
③貸し自転車発祥の地
④機械製氷発祥の地
⑤クリーニング業発祥の地
などが点在しています。


大江戸散策徒然噺

前評判の通り、すざましい人出の銀座中央通りです。パレード開始時間が午前11時にもかかわらず、1時間前の午前10時には中央通りの両側は歩道いっぱいに見物客で溢れ、歩行もままならない状況です。

ギラギラと輝く夏の陽射しが容赦なく歩道の見物客に照り付け、パレード開始までの1時間の間耐えられそうにありません。幸運にも10時30分頃から天空に大きな雲が現れ、暑い日差しを遮ってくれたことに感謝。


いよいよ午前11時。パレードが始まります。パレードを早く見たい気持ちから銀座1丁目あたりでカメラを構えて待つことにしました。


大江戸散策徒然噺 1台目のバス
大江戸散策徒然噺 1台目のバス
大江戸散策徒然噺 1台目に乗るメダリスト
大江戸散策徒然噺 2台目のバス
大江戸散策徒然噺 2台目に乗るメダリスト
大江戸散策徒然噺 2台目に乗るメダリスト

パレードの出発地点が銀座1丁目ということで、先頭を行く2階建てバスはあっという間に目の前を通過します。先頭車には誰が乗っているのかよくわかりません。メダリストはお揃いの赤いジャケットを身につけているので、遠目では同じようにしか見えません。


大江戸散策徒然噺 3台目のバス
大江戸散策徒然噺 3台目のメダリスト(女子バレー)
大江戸散策徒然噺 3台目のメダリスト(女子バレー)


沿道の見物客の歓声に応えるようにメダリストたちは一生懸命に手を振ってくれるのですが、なにせ2階建てバスのスピードが速くカメラのシャッターを落とすのに精いっぱい。


何とかカメラの連射モードでメダリストの様子を撮りまくりました。満面に笑みをたたえ、見物客に手を振るメダリストを眺めながら「よくやった。ご苦労様。」という気持ちが湧き上がってきます。


大江戸散策徒然噺 2020年には東京で!


時節柄、日の丸を背負って闘い、素晴らしい成績を携えて凱旋したメダリストの姿に「国威発揚」を意識してしまうのは「私」だけでしょうか。そしてこのような時節でありながら、見物客全員が秩序を守り、政治・外交的なスローガンも叫ばず、礼儀正しい行動を貫ける日本人の一人として誇りを感じた瞬間でした。

そして改めて、すべての日本選手の方々に「感動をありがとう」と申し上げます。


大江戸散策徒然噺