大学の卒業を前に、彼から結婚の話が出るようになって、親に会わせたいと言われた。
お父さんは早くに亡くなって、女で一つで3人の男の子を育て上げたお母さんということだった。
この時は大好きな彼のお母さんだから、当然仲良くなりたかった。
この後の義母とのエピソードは、色々とあって長すぎるので割愛して、また別に思う存分書き出したいと思う。
私は、すごく人当たりだけはいいので彼の母からも好かれたし、(上っ面の自分で、好かれすぎてしまったのだが)とんとん拍子に結婚の話は進んだ。
大学卒業と同時に籍を入れた。
私は児童福祉施設で働きたい夢があったが、夏休み中に、先生たちとの関係で上手くいかず、自分の精神力の弱さではやってはいけないのではないかと思っていた。
どこかで、世間一般のゴールとされている結婚に逃げるような気持ちがあった。卒業時、私は29歳だった。
彼の仕事は、公務員だった。
私は、ずっと母方の祖母に公務員と結婚するように言われてきていた。
私は、知らないうちにどこか意識していたのかもしれない。
結婚することで、私は母と向き合い続けた時間に終止符を打とうと思っていた。
毒親育ちの母は、今でも祖母に支配されている。母が、私の気持ちが満たされるくらい寄り添ってくれることは難しいのだとずっと感じてきたからだ。
籍を入れてから、新婚生活が始まった。
優しい彼との生活に幸せを感じていた。
でも、それは依存する対象を母から夫に切り替えただけだった。
施設で学んだ様に、まさに自分が夫に対して試し行動の嵐。
家事を頑張って、奥さんしているかと思えば夫の何気ない言葉に反応して、罵ったり、家から飛び出したり。
やばい奴です。はい。
でも、それでも泣きながら追いかけてきてくれたり、諦めずにずっとそばにいてくれる彼に、少しずつ私の試し行動は落ち着いてきていた。
私の中に、子どもが出来たら、絶対に虐待の連鎖を断ち切りたいと思っていた。
でも、自信がなかった。
今だにメンヘラな自分を、自分自身がどうしょうもなく嫌いだったし、信頼できていなかったんだと思う。今のままでは、ダメだと感じていた。まだ満たされていない自分を少しでも満たして、子どもに向き合いたいと思っていた。
父と母と、結婚して距離が出来てから、表面上は上手くいっている様だったが、実際に会うと、言葉の端々に傷ついてしまう自分がいた。
子どもを産んだら、私は自分の事ばかり訴えるのをやめると心に決めていた。
結婚式の日取りを決めた矢先、赤ちゃんがお腹にいる事が妊娠検査薬で分かった。
正直、幸せな思いと、とうとう大人として、子どものために生きる時が来たと肩に力が入った。
産婦人科でみてもらってすぐ、悪阻が始まった。想像していた以上に辛く、ずっと乗り物酔いをしている気分だった。
家事が何も出来なくなる自分に、価値がなくなった様に感じた。
私は、妊娠する以前は夫に対して全力で試し行動をする反面、全力でいい妻を演じていた。
毎日褒められる料理を出して、見られてもいいように弁当を持たせた。いつも家を綺麗に保った。父親と母親が、汚い家で揉める姿を見て育ったことも大きかった。公務員の社宅で古かったが、少しでも快適に過ごせる様に工夫した。いい妻でなくては、自分の価値がなくなった様に感じたのだった。
私は、想像以上の具合の悪さ、でも、病気でもなんでもない悪阻というものを、受け入れられなかった。
どうしても、具合が悪くて動けないことを心のどこかで許せなかった。いつもイライラしていた。
情緒もすごく不安定だった。
母親になったら、絶対両親の様にはならない!そんな思いだけが胸の中で渦巻いていた。
その矢先、パタっと悪阻が楽になった。
私は、やっと体が楽になった安堵感があったが、念のため産婦人科へ夫と向かった。
いつもの様に待ち合い室にいた夫を残して、診察台に私だけ上がった。エコーをみていたのだが、いつもの様に小さく真ん中で鼓動を打つ動きが見えない。静まり返った診察台のカーテン越しに、先生が「動いてないね。」と言った。
胸が苦しくなって、何も言葉が出ない私の元に、看護師さんが夫を連れて来てくれた。
2人で、動きがないことを確認して、私は呆然としながら、診察台を降りて先生の説明を聞いた。
ぼーっとする頭で説明されたのは、お腹で赤ちゃんが死んでしまったので、それを取り出す手術を受けなくてはならないことだった。
とてつもない悲しさが襲った。赤ちゃんが死んでしまって、手術を受けるなんて。出産ならなんだって頑張れるけど、赤ちゃんに会えないのに手術なんて。
車に戻って、私は大きな声で泣いた。夫に気付いたら謝り続けていた。「ごめんね。私のせいでごめんね。赤ちゃん、ごめんね。産んであげられなくてごめんなさい。」泣き続ける私の横で主人も静かに「◯◯◯のせいなんかじゃないよ。」と言い、涙を流した。
しばらくは急に涙が出て止まらなくなる事を繰り返した。すれ違う赤ちゃんをみては、涙が込み上げた。
妊婦さんをみては、羨ましく思う日々だった。
私は、以前にも増して不安定だった。
私が取り乱すたびに、夫はそばで慰めてくれていた。
ある日、私は使うことのなかった母子手帳をしまおうと開いた時、パパノートが出てきた。
夫の字で、生まれてこられなかったあかちゃんへのメッセージだった。
「パパとママは君に会えなくてたくさん泣きました。とてもとても辛かった。でも、またいつかパパとママのところへ生まれて来てください。会えるの楽しみにしているよ。」
と書いてあった。
私は、自分ばかりが辛いと思っていたけど、こんなに優しい夫が辛くないはずがなかったと、胸が痛んだ。そして、こんな事を書いてくれる夫と結婚して、心から幸せだと思った。
私は死産から、初めて前を向けた。結婚式、新婚旅行と、人生で1番思い出になる晴れ舞台と楽しみが待ち受けていた事もあり、それからは何も考えずに目の前の事を楽しんでいた。
しばらくして、赤ちゃんが私達のもとに来てくれた。
私は心から幸せを噛み締めた。命は当たり前に授かるものじゃなく、奇跡だと教えてくれるために前の子は来てくれたのではないかと、今は思う。
私は、命の尊さを学んだ。
だが、以前にも増して悪阻はひどいもんだった。何も出来なくなる自分の事、やっぱり全肯定は出来なかった。でも、自己否定ばかりの妊娠生活にはしたくないし、夫も死産があってから、すごく私の体調に理解を示してくれてなんでもやってくれていた。
私は命を育むという大仕事をやっているのだと、そんな気持ちになれるようになってきていた。お腹が大きくなっても、以前の経験からずっとどこか不安を抱えていたが、すくすくと育ってくれた。
夏の暑い日、私は長男を出産した。周りが驚くほどの安産だった。私は、出産前にある本に書いていた事を出産中思い出していた。母親よりも出産時、赤ちゃんは辛い思いをしているということを。ずっと生まれてくる赤ちゃんの名前を呼び、励ましながら産んだ。自分の事だけだと、出てこない子どもを守る気持ちが、気持ちを強く持たせた。やばい痛みだったからこそ、それ以上痛い思いをする我が子に気持ちがいっていた。
子育て奮闘記へと続く