私は必死だった。
親から受けた事を絶対に断ち切りたかった。
上の子が一歳になるまで、この気持ちで乗り切れた。しかし、考えていたよりも子育ては過酷だった。睡眠不足、自分のことは全く出来ず、みるみるボロボロになっていく自分。誰にも会いたくないと思った。でも、家の中で一対一での子育ては、苦しさよりも愛おしさが大きかった。きっと、私は記憶のない生まれたばかりの時、沢山の愛を受けたのだと思う。しっかりと愛情が溢れてくる自分の母性に安心した。しかし、反面大切に思うあまり、心配しすぎる面もあった。すぐに止めてしまっていた。そんな自分が母であることが申し訳なく感じていた。
市役所から、第一子を持ち、はじめての育児で不安を抱える母親と赤ちゃんの集まりがあると案内が来た。私は行ってみることにした。
その時、同じような悩みを抱えて頑張っている母親仲間ができた。みんなでLINEグループをつくって、連絡しあった。必死に返信しなきゃ!と思っていたので、育児が忙しい時はかえって負担になることもあったが、病気の時の対応など、少し月齢が上のママからきけるのはが、ありがたかった。すぐに2人目を授かったママ友がおり、羨ましく思えた。いつでも、兄弟はほしかった。
しばらくして、待望の2人目がきてくれた。
でも、忘れてしまっていたのだ、ものすごい悪阻を・・・
ずっと乗り物酔いか、すごい2日酔いそんな感じを繰り返してヘロヘロだった。
小さな我が子がいるのにそんな状況になり、私は長男の相手をしてやれない事で自分を責めた。
母の手を借りなくては、夫は残業もあってワンオペ育児だったので、やってられなかった。
これまで、私しか何でもダメだった長男は、母とならどこでも出かけられるようになった。
10ヶ月は、私にとって地獄のように辛かった。
長男の時よりも悪阻がつらかったし、長引いた。でも、長男には辛い思いをさせたくないし、生まれる前の大事な時間という思いもあって、必死で抱っこや添い寝を出来る限り頑張っていた。
何度か、出血があり、不安な日もあったが、長男と同じ頃に元気に生まれてきてくれた。
双子の様にそっくりな次男が生まれた。
以前にも増して安産だった。
でも、彼は生まれた時から豪快だった。長男は、繊細な所があり、私はどこかで自分の関わり方を責めていたが、この子が生まれてきてくれたことでかなり楽になった。
全く別の人間なんだ。ちゃんと、持って生まれた性質があるんだ。と知った。
しかし、その時の私の体調は最悪だった。寝不足、産後の体調不良、鬱傾向があった。
誰にも会いたくなく、何もしたくなかった。妊娠中、早々と上の子にYouTubeを見せる様になってしまっていた。「登録してね。」というフレーズをリズムに合わせて真似してるのを聞いて、胸が痛んだ。
ご飯も出来合いのものも出す様になり、必死に作った日に限って食べてくれず、絶望して、作る意欲をなくしていった。
私は頑なに精神病院に行くのを拒んでいた。
産後うつだったと思う。誰かの目を見るのも苦しくなっていた。
時系列が交差するが、叔母が死んだ。
精神の病を患っていた叔母のことを、母は将来みてほしいと頼まれており、ずっと負担に感じてきていた。いつも母は、この事を考えると憂鬱だった様だ。しかし、叔母は、パンを喉に詰まらせて、階段から転がり落ちて死んでしまった。
母は、心から悲しんでいた。が、安堵の思いもあったろう。母をこれまで憂鬱に落ち込ませてきた時間は、無駄な心配だった。私はこのことでいろんな事を感じた。
結局はなる様になった時にしかこたえは出ない。何か起きた時に、その都度精一杯対応して生きていけばいいのではないか、そう考えた。
そして、DV家庭の犠牲者の叔母は自分だけを傷つけて、(周りに妄想で迷惑はかけたがそれは病気だった。)歳をとって何も理解してくれない両親のもと、世間の恥のように扱われて死んでいった。祖母は、叔母が亡くなってから胸を痛めたが、生前に気付けばよかった。
彼女がどれだけ祖母にとって大切な人だったか。
他人に迷惑をかけたかもしれないが、嫁に将来の責任を押し付けたりするよりも、それでも母親だけは彼女に大切だと伝えるべきだった。
「自分なんて価値がない」そう思って死んでいったのではないかと思う。
母にしていた嫌がらせや、妄想で電話をかけ続けていたことは幼い頃から不快に感じていた。でも、叔母の優しさを知っていた。
親に壊されてしまった優しい子だと、私は思っている。人生をかけて親に訴えかけたけれど、悲しい終わり方だった。
このことから、私は親との完璧な和解を求めることは、不可能だと学んでいた。いちばん、子どもだけが不幸になってしまうと感じたのだ。
母は、私が2人目育児に追い詰まって、鬱傾向が強くなる中で仕事をしている合間で手伝ってくれていた。しかし、私は1人目の時には出さなかった声で子ども達を怒ってしまったり、感情的になることがあった。私は、自分が嫌だった。怖かった。
時を同じくして、夫は仕事で追い詰まっていた。
残業と、飲み会、お酒もあまり飲めないのにこれも仕事だと連れ回される。夫は、仕事を辞めたいと言った。
私は、仕事前に嗚咽してる姿をみていた。
何度か一緒に模索しながら、夫の決断に従った。次の職場は、収入を安定させたいと2人で話した。
県外だと、収入が安定する職が見つかった。
このことに、私は悩んだが、県外に夫が単身赴任する事を私からはOKだと伝えた。
それは、根底にあったのだ。仕事だけじゃなく、自分の試し行動が夫を蝕んでしまったのではないか?と。
私の両親は、私が最高の旦那さんと出会えたと思っていた。でも、私がひどく旦那さんを扱っている様に見えていた様で、実家に行くと◯◯くんは大丈夫か?とか、◯◯くんに優しくしてやれ。とか、◯◯くんの目が死んでる。と言われていた。
でも、それをのちに夫に伝えると、全力で否定してくれて、仕事が本当に辛かっただけで、私のことはまったく負担じゃないと伝えてくれた。少しだけ安心したのだった。
でも、私の中で両親の言葉がささり、夫と少し距離をとる意味でも夫が県外で働き、長期の休暇でうちに戻ってくる生活スタイルをとることにした。
私は、まだ両親の言葉にとても左右されていた。その時は気づかなかった。
でも、何より大切にしたい我が子に、1人で何もかもしようとして、ひどく接してしまう事が何より怖かったわたしは、母の近くに引っ越して、仕事として、我が子の子育てを助けてもらうことにした。
そして、母ともう一度むきあうことになった。
現在へ続く。