これまで、恋愛においては触れてこなかった。それに、成人するまでは特定の人と付き合ってはこなかった。しかし、後に「隠れビッチやってました!」というエッセイコミックを読んで、まさに私だった。空っぽの自尊心に、見た目だけは変に褒められて、自信があった私は、告られることをステイタスにしていた。10代の頃は、モテるということだけが、自分を評価してくれるものだった。
でも、成人を前にしてB子という友人をなくし、自分がどれだけ空っぽで、自分に自信がないかとことん向き合った。
だからこそ成人して、やっとお付き合いした人に依存するのが怖かったし、異常なほど心の距離を付き合った人にもとっていた。でもそれは、本当の自分は、愛されているか試そうとしてしまうし、何も考えずに近づくと相手を壊してしまうと、自分を信用出来なかったし、恐れていた。

その反面、私は全力で母にぶつかっていた。遅い、長い反抗期だった。
その中で、私は父や母の生い立ちを知りたいと思った。
そこで始めて知るのだ。
母は、毒親育ちということを。祖母は、いつも自分の意見をはっきり言う人だとは思っていた。でも、それは自分に自信があるわけではなかった。祖母は兄妹が多く、親のために早々と働いていた。なのに、兄達からは学歴がないと馬鹿にされて育っていた。だからこそ、人一倍馬鹿にされる事が嫌いで、母には頭のいい子になれ!と学歴を求め、早く大人になれと願った。ある時は、ごめんなさいの言い方を、もっと伝わるように言葉を考えろと何度も母に強要したという。
今でも、母のことを支配している祖母の存在に気がついた。祖父は、辛い生い立ちを持った人だったが、冷静であろう、子どもを理解しようとしてくれる人だったという。しかし、私が生まれて間もなく亡くなってしまっていた。

母は、頼る人がいなかったのだ。



そして、私の父の生い立ちにおいては、先述したように、祖父はDV野郎だった。酒乱だった祖父が祖母の腰の骨を折るまで殴った事もあるし、血の海を何度も見て育ったという。
私の父は、最高に恐ろしいと思っていた。でも、父なりに負の連鎖を止めようとあがいていたのだ。母と怒鳴り合いもしたし、たまには突き飛ばしたり、髪をひっぱったのを一度見たことがあったが、父は幼い頃の強烈な思いを我が子にさせたくなかった。幼心に女を殴らないと決めて生きてきていた。全力で母を殴ることはしなかったのだ。
でも、父は凄まじい怒りを抱えて生きていた。私はそれを常に感じていた。
父なりに必死だったことを、私は父の口から聞いたのだった。

それは、母とだけでなく、ずっと恐ろしかった父とも私は向き合おうとしていた。
何度か殺されるかもしれないと思った。
でも、それでも、親として期待し始めていた。

父は今だに飲むことはやめられない。また、酒に酔って、自制心をなくし、弟に絡む事があった。
私は、成人を迎えてから、それだけは許せなかった。私は酔った父に震えながら怒鳴った事があった。弟を守ろうとして。
それは、幼い頃に弟を傷つけた償いをしたかったのだ。女を殴らないと決めていたが、弟に対して手をあげる事があった。私は恐ろしくて、守ってやれなかった事がトラウマだった。
だから、全力でぶつかった。
その時、父は子どものように涙を流して、生い立ちの話をしてくれたのだ。
私はDVが、どれだけ子どもの心に闇を与えるのか痛感した。

父は長い年月をかけて、私に歩み寄ろうとしてくれたが、とてつもない闇がある。私は、父が飲みすぎて1番下の弟にも絡んだ際、私が全力で父を否定したら、父は暴れ出し、壊れそうになった。死のうとした。私は、正直期待していたからこそ言葉を選んだりせずにそのままぶつかっても、受け止めて欲しかった。でも、父の限界を感じた。父は自分自身に、本当は自信がなく、ずっと自分を責めて生きてきたのだ。自分の母親を守れなかった自分を。
私は、もう、父を責めることはやめた。北風と太陽を思い出し、大人になって、父には言葉を選ぶようになった。父の心の限界を知ったのだ。

でも、母に対しては、母にだけは限界なんて言ってほしくなかった。私は真っ向からぶつかって、泣き叫んだ。
母は、すごくプライドが高かった。でも、違った。祖母に、自尊心を粉々にされて、祖母以外の誰かに傷付けられないように、盾と剣を手に入れたのだ。
でも、その盾と剣を私にも振りかざしてきた。
私が、母から受けたことは虐待だと伝えた時は、私のことを憎そうに睨んだ。
私は、たびたび母の麻痺した時の目、蔑む時の声のトーン、私のことを映さない目、何度も辛かった時にフラッシュバックした。

私は、とことん心に闇を抱えて、病名なんかもらっていれば分かりやすかったとさえ思った。
私は、なんだか中途半端なのだ。
でも、父の姉、叔母の精神病を抱えてもなお、報われず、あがいている姿を幼い頃から見ていただけに、精神病院に頼ることだけは人一倍恐れていた。
幼い頃、よく人格を分けて遊んでいたといったが、多重人格一歩手前だったのでは?と思う。また、成人して、私は高校と大学に行ったのだが、そこで「境界性パーソナル障害」を知った。今思うと、これだったと思う。
そして、私の持って生まれた性質は巷に今では溢れているHSCで、HSPだった。人一倍敏感だったのだろう。
母が、心から謝ってくれたのはずいぶん後になってからだった。
私はずいぶんと長い時間、母と向き合おうとした。それは、ちゃんと母と向き合わないまま、私は自分の夢も叶えられないと思ったし、家庭なんて絶対に持ってはいけないと思った。
辛い虐待、毒親の連鎖を私で断ち切りたかったのだ。

私は、人生の中でたくさん逃げた。
不登校もした。アルバイトをしたが、コロコロ変えた。始めは全力で頑張るのだ。お金をこんな私がもらうんだから!と必要以上に自分の限界を超えて頑張る!そしてばたり。急に辞める事もあり、会えない人も沢山いる。(ご迷惑をかけた方々、ごめんなさい。)
実はこれ、未だに拭えない。「仕事」となると、こんな私が!が出て来る。120%でやらなきゃと思い込む。トイレもいかない。
若い頃に比べて、周りに迷惑をかけない辞め方を覚えたし、嘘も上手くなった。

でも、私は逃げるのは悪いことではないと、親友には言うだろう。
よく働いて欲しい雇い側の思いを必要以上に汲み取ってしまい、背負おうとしてしまうのだから。
トイレに行きにくい雰囲気、休憩を取りにくい雰囲気の職場から、自分を守ってあげることは必要だったと。
ただ、小さな子どもが私は好きだった。幼稚園でのボランティアから始まり、ベビーシッター、託児所のアルバイト、これだけはずっと続ける事ができたのだ。


話は逸れてしまったが、私は成人してなお全力で母に向き合うことをやり続けた。
母という人間を、変えることは出来ない。
でも、母の生い立ちを知り、私との関係を修復してほしいと思った。私たち親子は時間をかけて、自分自身と向き合ってきた。
その中で、自分の好きな事も見つけた。
自分を少しずつ発見していったのだ。
カラオケが大好きだったから、始めたボイストレーニングは、初めて長く続けられた習い事だった。
そうして、自分が心からの好きを見つけていった。

私は、やっと自分から学校へ行きたいと思い始めていた。働きながら、23歳の時に夜間高校へ通った。そして、そこで自分より歳下の友人達が家庭での問題を抱えながら必死に生きている姿に出会った。私は、クラスのかーちゃん的存在になっていた。辛い時はとことん、寄り添った。私は、初めて自分が受けた事や逃げてきた事、歩んできた道が強みになった。傷ついている心への寄り添い方を自分が傷ついた分、知っていたからだ。
そして、私はその中で夢を持った。
幼稚園のボランティアを10代の頃していた時、私はフィリピンの児童福祉施設に行った事があった。そこで、言葉は通じなくても、心を通わせた体験が以前にもあったのだ。
この頃、心の中の目標にした人は、マザーテレサだった。この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも自分は必要とされていない、と感じることです。
この言葉が、10代の私の心にささって、忘れられなかった。


私は、自分にとっての弱みが強さになる、児童福祉の世界で働きたいと願った。
県内の児童福祉施設に片っ端から、アルバイトを申し出たが、どこも話しも聞いてもらえなかった。
最低でも保育士が必要といわれた。私は、福祉系の大学に行くことにした。
ただそれには、全く学力が足りなかった。勉強に力を入れるために定時制に切り替えて、学業に専念しようと思った。が、勉強の仕方すらよく分からなかった。
でも、ここからは天のお助けとしか思えないエピソードがある。

学校からの推薦枠を争うため、学力テストがあった。その日、私は日程を間違えてしまったのだ。結局、推薦枠を取れなかった。(きっと、私は全力でやってもとれなかったとおもう。)
落ち込んでいる矢先、希望の大学の入試方法に社会人枠がある事をみつけた。
レポートと面接、私はこれにはペーパーテストより、自信があった。
高校の先生に、すぐに報告して、レポートの書き方を学んだ。
そして、奇跡的に福祉系大学に社会人枠で入学する事が出来たのだ。また、以前は断られた児童福祉施設でのアルバイトも、大学に入学できたことを伝えると、雇ってもらえることになったのだった。

学業の傍ら、土日と長い休みには泊まり込みで児童福祉施設へ通った。

私はそこで、試し行動という言葉を大学で学び、また、体験として子ども達から学んだ。

私は、必死で子ども達と向き合った。
虐待を受けてきた子ども達の、この大人を信じられるのか?!のテストはかなり長い間続いた。必死で向き合い続けた時間だった。

大学4年間をかけて、少しずつ子どもたちが成長して、変化してくれてきたことを私は感じていた。もちろん、私の接した時間なんて生活を共にする先生に比べればちっぽけであった。だが、私は傷ついた体験が強みだったのだ。問題行動のうらに、どんな切ない思いが隠されているかつたわってきたからだ。卒業時、施設の主任の先生が私に言葉にして子ども達の変化と感謝を述べて頂いて、胸がいっぱいになった。
私は、その子ども達をこれならもみていたいとおもった。主任の先生もすすめてくれた。だが、反面、その4年間すごく辛かったのは先生達との関係だった。優しい先生方もいたが、私より年齢が若く、私が遊んでいた子ども達を担当していた先生にとって、疎ましいこともあったのだと思う。
その、先生達との関係性を思うと、長い夏休みにはパニック障害を起こしたりしていた。
私は、やっぱり人一倍繊細で面倒臭い自分を抱えながら生きていた。

恋愛面ではなかなかやらかしていた。定時制の高校の時付き合った男性にも、あれほど人との距離を保とうと決めていたのに初めて男性に依存してしまっていた。大学1年の時に、相手を思いやれない行動が続き、仕事でいじめを受けていた彼は私にはそれを言い出せず、追い詰まり、別れが来た。その後はしばらくクソビッチをやっていた。
結婚はもう、しないつもりだった。
負の連鎖を断ち切りたかったのだ。
母に変わって欲しいと願い続けていたこの頃は、母との関係も辛いものになっていた。

きっと、大学で虐待や心理学を学ぶうちに、自分の状態を知り、施設で子ども達と向き合う中で、母に対して、どうして?という気持ちが出てきていたのだと思う。


そして、私は今の旦那さんと出会う。


大学の友人が好きな人が、社会人だった。その人にあってほしいと言われ、その友人(先輩)も連れて来るという話だった。友人同士はくっつかなかったが、私たちがくっついた。先輩という話だったが、私の4つ下だった。
初めて、こんなに人を好きになった。
私は、たぶんずっと自信も無く、自分もなかった。でも、この数年で私は自分の夢を持ち、自分という存在にとことん向き合ったのだろう。
私は、自分を少しずつ愛し始めていたのかもしれない。心から人を愛せたのだった。

でも、そう甘くない。

私は、彼に対して全力で向き合おうとした。そして、私の依存する所も隠さなかった。全てを話した。今までのことも、今の自分のことも。
彼は、全て曝け出した私を知っても、全く今までの人とは違った。
私に、「今まで生きてくれて、ありがとう。」と言った。
私は涙が止まらなかった。
私は、母にずっとそう言って欲しかったんだ。
彼は、私をまるごと受け入れてくれた。

私ははじめて、自分の最低な部分として隠してきた所も全てが私で、その私丸ごと愛されている感覚を覚えた。

私は結婚も子どもも、私の人生にはないと思っていた時だった。

でも、大学を卒業する頃には、私の中で彼との結婚、家庭を持つことが夢になっていた。

そして現在に続く