さいたまのおばあちゃんに会いに来ました。
老人ホームで暮らすおばあちゃんは、明日で91歳。
お祝いにバラの花束を渡すととても喜んでくれていました。
いつも30分くらいの短い再会。
おばあちゃんは、長期記憶がどんどんなくなっていっている感じで、30分の間に同じ会話を5-6回繰り返します。
そして毎回、僕の回答や話を初めて聴いたかのようにびっくりしてくれます。
「弘喜くんは何歳になったの?」
「36歳だよ。」
「大きくなったねぇ。まだ20代だと思ってたよ。」
「弘喜くんはどこに住んでいるの?」
「鹿児島だよ。」
「そんな遠いところからよく来てくれたねぇ。」
「仕事は順調なの?」
「ヨガスタジオって言ってね。体操教室みたいなのをしてるんだよ。」
「そう。すごいわねぇ。身体だけは壊さないようにね。」
「子どもは何人いるの?」
「4人だよ。」
「4人も!大変だわねぇ。でも家族がたくさんいていいね。」
会話は、いつ来ても同じです。
僕はおばあちゃんの目を真っ直ぐ見て、微笑んで会話をします。
おばあちゃんはうっすら目に涙を溜めて、微笑んで会話をします。
なんどもそのやりとりを繰り返しているとき。
そこに起きているのは「会話」ではなく「魂の交流」だと感じることがあります。
その深い深い交流を終えたころ、僕はいつもおばあちゃんのもとを立ち去ります。
去り際、毎回、この世の別れのように手をさすってくれるおばあちゃん。
「わざわざ大変だから、こんなところまで来なくてもいいんだからね。」
涙ながらにそう話すおばあちゃん。
記憶がなくなっても、孫を気遣うおばあちゃん。
記憶があるとかないとか、関係ありません。
何回話したかも関係ありません。
過去も未来もなく、今この瞬間100%全力で孫を気遣ってくれるおばあちゃんを見たとき。
僕はいつも涙が込み上げるのを抑えられません。
人間ってなんて優しいのでしょう。
僕にお小遣いを毎回渡してくれるおばあちゃん。今日も会うなりくれました。
帰ろうとすると、もう一度お小遣いを渡そうとするおばあちゃん。
「もうもらったから大丈夫だよ。ありがとうね、ばあちゃん。」
そう伝えると
「こんなことくらいしかできなくてごめんね。」
と答えるおばあちゃん。
お金には、おばあちゃんの愛情と気遣いがたっぷりと詰まっているように感じられました。
人間ってなんて優しいのでしょう。
僕もその優しさの循環の一部でありたいな。
そう思ったさいたまの秋晴れの1日でした。