【長文ですがあまり意味のない投稿です】
23歳のとき、当時の職場のすぐ近く、赤坂の歯医者さんに言われました。
「これは抜かないとだめかもしれません」
痛いことが大の苦手だった僕は、歯医者さんに抵抗し、そこから12年、先送りしてきました。
水星の逆行がそろそろ終わる今日
、先送りに終止符を打ちました。
左の歯の、上下の親知らずを抜いたのです。
麻酔を打たれるときの恐怖、長年連れ添った自分の歯が2本も抜かれるという恐怖。
久しぶりに身体が強張りました。
深呼吸してリラックス。わかっているけど身体は強張ります。
目隠しされている僕の内側に浮かんできたのは、2つの場面でした。
一つ目は、壮絶な闘病の末、亡くなった母の、治療に立ち向かう姿。
二つ目は、出産に立ち向かう奥さんの姿でした。
僕の身近にいる最も愛しいこの女性たちの力強さ、生命力に比べて、なんとひ弱な僕の「痛みを嫌う心」。
痛みとともにいよう。そう心に決めて、ただ治療を受けてみました。
一瞬で上下の歯は抜かれました。
10年前から指摘された左下の親知らずは、根のあたりが膿んでいたそうです。
10年分の僕の膿が出た瞬間とも言えそうです。
治療を終えて家に帰り、血だらけの口の中の気持ち悪さに辟易としながら不思議と穏やかな気持ちで過ごしています。(しゃべれませんが)
この体験は、大げさに言えば、一種の死でした。
僕の一部が死んだのです。
でも僕という生命全体は変わらず続きます。
人間1人も同じかもしれません。
生命の一部である人間1人が死んだとき。
そこに部分的な喪失感は生じるけれど、全体のプロセスは周り続ける。
そして生命全体は何も変わらず体験を続けるのです。
僕の二本の親知らずは、亀井弘喜という人間のストーリーの体験から文字通り分離しました。
これまで一緒に生きてくれてありがとう。
二本の愛しき奥歯に伝えたいと思って投稿してみました。