昨日の東京でのグループセッションを終えて、実家の仙台に来ています。最近、ブログを書くことに意欲が上がってきて、珍しく夜にブログを書いています。
昨日のグループセッションでは、1つのテーマが浮上しました。
それは
「自作自演」
というものです。
一般的にはネガティブなイメージで使われると思うのですが、ここではネガティブな意味ではないのです。
「子どもが遊びでやるかくれんぼ」のようなものです。
隠れておきながら、本当は見つかりたい。
うちの子どもたちはいつも僕が家に帰ると、隠れています。
そして僕が探すそぶりを見せないと、わざわざ大きな声で「パパ、ど~こだ?」と「探して!」というメッセージを送ってきます。
かわいらしい自作自演です。
大人になったら自作自演はもうしないのでしょうか。
大人になったら自作自演はしてはいけないのでしょうか。
僕はそんなことないと思います。
自作自演って楽しいですから。
自ら隠れておいて、でも見つかるようにヒントを出す。
これって実は人生でやっていることも同じ。
例えば、毎日を楽しく生きている人がいたとします。
趣味もあるし、仕事もそこそこ充実しているし、好きな人もいるし、お金も困らない程度にはある。
それなのに、真面目な顔して
「やりたいことがわからないんです…。」
と相談してきたりする。
(もちろん、構わないわけですが)
そんなとき、最近僕はすぐに「自作自演を見抜く」というモードに入るのです。
やりたいことやりまくってるのに
「やりたいことがわからない。」と言う。
来たくて僕のワークショップに来ているのに
「やりたいことがわからない。」と言う。
何だったら、やりたいことやってる最中に
「やりたいことがわからない。」と言うのです。
大いなる自作自演です。
いわゆる「エゴ」の仕業とも言えるでしょう。
でも少しスケールを広げてみてみたら、
人生全体が自作自演とも言えないでしょうか。
もともと完全で自由な存在から、
わざわざ不完全で不自由な体験をする。
その不完全性や不自由性の中に、完全性や自由性を垣間みたとき、人は無常の喜びを覚えるのです。
不完全に見える幻想や、不自由に感じる幻覚があってこその、完全性、自由性なのです。
自作自演の賜物なのです。
でも人間の意識は進み過ぎたのか、自作自演であることすら忘れてしまうことがあるようです。
遊びで、かくれんぼを始めたのに、本気で迷子になってしまった子どものような状態です。
本気で迷子になってしまったら、まずは親のところに連れていって安心させるのが大事ですよね。
でも、実は親はずっと遠くから見守り続けてくれていたりするのです。
実は本気で迷子になんてなってなかったのです。
だからかくれんぼを安心して続けましょう。
安心して、自作自演の先にある喜びを感じていきましょう。
僕も、今日もこうして自作自演を楽しみつつ、ブログを書いたりしてるのです。