「家事をしてあげてる」から「家事を"好きで"している」へ | 世界一の天才ライフコーチかめちゃんの日常

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霧島と沖縄と代官山で3拠点生活しながらセミナー講師しています。2021年までは鹿児島でヨガスタジオを経営してました。2022年セミナー講師業で5億円を売り上げ、セミナーに様子をYouTubeで配信しています。

「~してあげた」とか「~してあげてる」っていう認識が生まれると、その後、不満を持つという僕のパターンに気づきました。

例えば、今うちの奥さんは出産後、退院して間もなく、まともに歩くことすら難しい状況です。

そんな中、炊事洗濯、育児と奥さんが動けない分も結構一生懸命やっている僕。そんなときに限って仕事もたまってきたりするものです。

このとき「炊事洗濯や育児をしてあげた」とか「してあげてる」っていう認識が生まれると、「感謝されてしかるべきだ」という"期待"が生まれます。

感謝されれば、この期待が満たされ、幸せになります。ひょっとしたらさらに炊事選択や育児をしようと思うかもしれません。

感謝されなければ、この期待が満たされないため、不満を持ちます。ひょっとしたら「もう二度と炊事洗濯や育児をするもんか」と拗ねるかもしれません。

これが例の二極の世界です。

この二極の世界を脱するために、「自分軸」という考え方を利用して、「炊事洗濯や育児をしないで、自分の好きなことをして生きる」、という発想に陥ったことも以前ありました。

これは、実際は自分軸ではなくて、ただの自己中、現実逃避でした。

炊事洗濯や育児は、明らかに「すべき」現実。
※ここでいう「すべき」というのも、僕の一つの立場に過ぎないわけですが。

でもそれを「してあげてる」という認識を持てば、そこに「期待」が生まれて、期待が満たされるかどうかで幸せ/不幸せに振れてしまう。

じゃあどうしたらいいのか。

僕の助けになったのは、去年教わったヨガの教えでした。

「カルマヨガ」という考え方があります。

詳しくはググってもらうとして、まあ要するに「無私の奉仕」という発想です。

行為の成果を期待するな。
行為の評価を期待するな。
行為の感謝を期待するな。

行為をただ、行為として行え、と。

無私の奉仕なので、そこに「私」は「無い」のです。

「私」がなければ「してあげてる」存在はいない。

さらに深く見れば、誰もそこに存在はしていない。

ただの行為者としての僕(という生命)と、行われる行為があるだけなのです。

それは誰に対する奉仕かと言えば、奥さんでも子どもでも自分でもあるわけですけど、最終的には、この世界全体というか宇宙全体に対する奉仕なのでしょう。

「僕は料理をしてあげてる」から「僕は料理をしている」へ。

「僕は洗濯をしてあげてる」から「僕は洗濯をしている」へ。

「僕は子どもたちと遊んであげている」から「僕は子どもたちと遊んでいる」へ。

さらには

「僕は料理をすることを"好きで"している」

「僕は洗濯をすることを"好きで"している」

「僕は子どもたちと"好きで"遊んでいる」

へ。

こうやって自分の目の前のことを言い換えるだけで、「確かに好きでやってるな」と一杯一杯になって余裕のなさそうな自分のことがちょっと笑えてくるのです。

「被害者」から、「楽しむ人」への瞬間移動、完了です。

何かの環境や、他人によって虐げられているような感覚(被害者感覚)に陥ったときに役立つと思います。

良かったら試してみてください(^^)。