「終わりなき旅」っていうミスチルの歌が思春期の頃からなぜかずっと好きでした。
人生そのもののような気がしたのです。
例えばお金に目がくらんで、お金を求めていくと、それは「お金に関しての終わりなき旅」になる。
異性に目がくらんで、異性を求めていくと、それは「異性に関しての終わりなき旅」になる。
成長に目がくらんで、成長を求めていくと、それは「成長に関しての終わりなき旅」になる。
幸せに目がくらんで、幸せを求めていくと、それは「幸せに関しての終わりなき旅」になる。
とうとう行き着いて、悟り(スピリチュアリティ)に目がくらんで、悟りを求めていくと、それは「悟りに関しての終わりなき旅」になる。
そのあまりにも終わらない感じに絶望感すらただよったこともある僕。
でも、どこまでも深い次元で見ていけば、結局のところ、始まっても終わってもいなくて、いつでも今この瞬間が連続しているだけだということに気づくのです。
終わりなき旅は、始まってもいなかったし、終わることもなかったっていう矛盾。
そうか。
求めることを手放したら、目覚めていることになる。
でも目覚めながら、求めることもできるし、それはそれで楽しい。というか人間として生きる以上、「求めない」は行き着かないのかな。
「求めていることに気づいて生きる」そして「手放す」この繰り返し。繰り返しという意味で、終わりなき旅という面もあるんですね。
というわけで鹿児島に帰ってきました。また愛に溢れた日常の始まりです。
葉山での体験を通して、また少し自分の認識が変わりました。今回の変化は言語化がしずらくて、こんな文章になってみました。
ああ、世界はどこまでも深く、美しく、そして何もない。
おやすみなさい。