こんにちは!鹿児島の就活コーチ、亀井弘喜です。
今日も鹿児島は快晴。娘たちはおじいちゃんの家がある山中の温泉街に来て、畑を耕しに行きました(^^)。明日は子どもたちと一緒に僕自身も畑を耕してきます。
おじいちゃんの家は本当に田舎です。どのくらい田舎かっていうと最寄りのコンビ二が車で10分くらいかかって、且つそのコンビニが来週末で閉店しちゃうくらい(笑)。もう少し近くにあるスーパーも19:30には閉店しています。
夜は本当に真っ暗で、山に囲まれ虫の鳴く声しか聴こえず、空は星が輝いている。鹿児島に住みたくなったのはこんな環境にどこか心が落ち着く自分がいたからです。今日の夜、奥さんと娘2人と向かいの温泉に行くとき、またもやしみじみと幸せを感じました。
さて、本題ですが、昨日のこの記事の続きです。
新入社員時代の劣等感を、素直さとがむしゃらさで乗り切った僕。
実は、それ以降「得意のパターン」にしてしまいました。そしてどんな困難が来ても、「まあいつもの感じで素直にがむしゃらにやってれば何とかなるだろう」というような感じで少し自信過剰になってしまったのです。
大切なバランスである謙虚さを欠いていました。
大変なプロジェクトが続くと、僕の立ち位置の重要性が増していきます。僕しか出来ない仕事が増えてきて、他の誰もできなかった機能の作成などを任されるようになっていくのです。
そうすると、出来ない人を馬鹿にしてしまう自分が出来上がっていました。さらには、今の仕事の先にある大変なこととか、まだまだ自分が知らない未知の領域の仕事に対する準備・勉強などを全くしなくなってしまったのです。
結局のところ、新入社員時代の僕は、比較の罠から抜けていませんでした。
それどころかむしろ比較の力を利用して自分自身を奮い立たせて、比較対象のところまで何とかよじのぼることを美徳にしてしまった。
比べる相手が、自分の努力で何とかなるうちはそれでもよかったのです。
でも神様というか宇宙はちゃんと試練を用意してくれるものです。
その外資系の会社で4年目の最後のプロジェクト。僕は上司と二人きりのプロジェクトに配属されました。初めて、比べる相手がいなくなってしまったのです。(上司とは比べていましたが、役割も違うし、そもそも比べようがなかった)
比べる相手を基準にして、そこに追いつくことで安心感を得るというのが僕の得意パターン。でもその比べる相手がいなくなってしまうと…?
安心感を得ることができなくなってしまったのです。
そこからの僕はいつも不安な日々でした。比較対象がいない。だから自分で自分の仕事に自信が持てない。自信が持てない僕の仕事の成果物はいつも上司から酷評される。
僕はその上司を逆恨みすることで凌いでいました。「なんでこんなにわかってくれないんだ?」って。
誰かを逆恨みしながら毎日を過ごすと、人は誰でも精神面の健全さを損ないます。僕がメンタル不全に陥るのに時間はかかりませんでした。
最後の最後までその上司に対してはほとんど憎しみの気持ちしかなかったような記憶があります。
その後しばらくは、僕は「ひどい上司がいるプロジェクトに配属になってしまった可哀想な人」という悲劇のヒーローの立場を取りました。
でも今は違うとらえ方をしています。
原因は、自分にあった。
常に比較しなければ安定を得られない当時の自分ならば、この上司じゃなくても、このプロジェクトじゃなくてもいつか同じ結果を手にしていたように思うのです。
だから新入社員が同期との比較で、劣等感を感じて悩んでいるとき。
「なんとか努力で追いつく」
という方法を僕はあまりお勧めしません。
なぜならば、比較にはきりがないから。
今回追いついたとしても、また追いつかない先を行く相手が現れます。
そしてなんとか努力しても追いつかないとき、人はあきらめます。いい意味でのあきらめにつながればいいのですが、ひどい場合は僕のように精神を病んでしまうことにつながってしまうこともあるのです。
では比較しないでどうしたらいいのか?
このシリーズものの最終回でお伝えしますね(^^)。