今日、かねてから危篤が伝えられていた、姫路の叔父が亡くなったという知らせが届いた。
良くも悪くも豪快な人で、色々とお世話になった。
胃がんを発病して入院してから体調が不良で、入退院を繰返し、そのたびに復活してきた人だったが、ついには寿命がつきたようだ。
闘病17年、家族も大変だっただろう。
本人も、ここまで頑張れば、納得できたことだろう。
自らの死を悟った時、人はどんな気持ちになるのだろう。
もちろん、本能的に「死にたくない」と思い、生にすがりつく気持ちはあって当然だ。
それが病院で毎日暮らし、他人の死に触れたり、家族の苦労を目の当たりにする内に、心の中はどんな風に変化していくのだろう。
自分が誰かに迷惑をかけていると知った時、それでも生にしがみつく気持ちってあるのだろうか。
口では「もう死にたい。治療はやめてくれ」と言うかも知れないが、やはり心のどこかに、「続けて欲しい。死にたくない」いう執着はあるのだろうか。
老いるということを、人は避けては通れない。
受け入れるとか入れないではない。
何をしても、それは現実としてやってくるものなのだ。
そんな時、「俺の生涯は立派だった。俺は悔いがない。」と本当にそんな風に思うのだろうか。
自分自身を考えてみた時に、たくさんの後悔がある。
最近、一人のときによく考える。
今まで、後悔なんて考えたこともなかった。
僅かばかりの「反省」はあっても、日々押し寄せる仕事や時間に、押し流され続けていたから、そんなことを考える暇もなかったし、考える気持ちもなかった。
時間は無限に続いていて、自分の未来も無限に広がっているかのような錯覚にとらわれていたからだろう。
自分が老いるということに、目を背けてきたのか。
いや、考えてもいなかったということか。
他人の死を眺める時、自らの死を省みるというのは、やはり年老いてきたということなんだろう。
人生80年として、終わりが視野に入ってきたということなのだろう。
わが生涯、どのように生きるか。
残された時間をどのように使うか、考え始めたことは、おろかなことではないだろう。