3歳のグレーな娘・律と、0歳の息子・樹を育てています。
【律(りつ)】
1歳半健診様子見→2歳の心理士さんとの相談で更に様子見→2歳半の保健師さんからの電話で様子見終了。
その一方で、発達支援センターでの相談や言葉の教室参加、保育園での加配等、支援は増加する一方のグレーオブグレーな娘です。
【樹(いつき)】
2023年10月誕生。今の所は定型発達?
詳しくはこちらをお読みください。
タイトル通り、あまり気分の良い内容ではないと思います。ドン引きされたらすみません
私は自分では子ども好きな人間だと思っていますが、「実はそうではないのかもしれない。」と思う瞬間がたまにあります。
その一つが、タイトル通り。
「手がかかる子を放置したくなる現象」です。
具体的に言うと、
健康面だと体調不良でこまめに様子を見たりケアする必要がある場合や、精神面だと不安定だったり癇癪を起こしていたり対応や言葉がけに配慮が必要な場合に我が子を放置してしまいたくなる現象です。
多分、普通の親なら子どもの体調が心配になって自然と手をかけたり、癇癪をどうにかしなければと必死になったりするのではないかと思います。
が、私はそんな我が子を目の前にすると、どんどん子育てに対するやる気がそがれ、現実から逃げたくなってしまいます。
単純に「相手をするのが面倒くさい」、だけではないと思います。
自分の思い通りにならない我が子に苛立ち、「自分を不快にさせるならもう勝手にすれば良い」というネグレクトに近い感覚が出て来てしまいます。
たとえば発熱した娘を家で看病する時、心配する気持ちの一方で、「いつ熱性けいれんが起こるか分からない。かと言って予防薬も処方されてないし。」という、うんざりした気持ちで娘のそばにいる事があります。
そんな時、表面上は「しんどいよね、早く良くなると良いね。」と言いながら娘の頭をなでつつ、反対の手ではスマホをいじり、娘の看病よりも没頭してしまう事がよくあります。
癇癪に関しては言わずもがなで。
親身に接してみたり、気をそらせようとしたり、一生懸命関わるのは最初の30秒で、あとは「じゃあもう泣いてなさい。」と放置している事が多いです。
旦那が近くにいる時は旦那に任せる事が多いです。
何とか娘を落ち着かせようと頑張る旦那を見て、「もう放っておけば良いのに。」と思いつつ、「どうにか泣き止ませたいと頑張るのが普通の親の愛情なのかな。」と羨ましくなる事もあります。
どうしてこんなブログを書こうと思ったのかと言うと、最近産まれた赤ちゃんに対してもそんな気持ちになってしまうからです。
憂鬱のきっかけは便秘です。
赤ちゃんにしてはうんちが固くて回数も少なく、本人も顔を真っ赤にしてうなるので毎日綿棒浣腸をしています。
綿棒浣腸ですぐにうんちが出れば良いのですが、中々出ずにうなり続ける息子を見ると、段々イライラしてきて構うのが苦痛になります。
仕舞いには、ウーウー苦しそうな声をあげる息子を放置して他の家事やスマホに没頭する自分のキャパの低さにうんざりしてしまいます。
0歳の赤ちゃんが便秘になって辛そう、そんな状態でも「可哀想」よりも「思い通りにならなくてイライラ」する気持ちが強い自分に引いています。
よく、2人目が産まれた時に上の子の赤ちゃん返りにイライラする事を「上の子可愛くない症候群」なんて呼んだりしていますが、私の場合は「両方可愛くない症候群」もしくは「1人になりたい症候群」を発症しそうです。
産後うつかな?とも思いましたが、育児が上手くいってる時には娘も赤ちゃんも普通に可愛く思えるので、やはり自分の性格上の問題のような気がしています。
すごく性格の悪い言い方ですが、「手のかからない子」ならむしろ手をかけたいんです。
これまでの話と少し変わりますが、娘の発達の遅れが分かる前は、色々な知育を試したり早期教育や幼児教室について調べたり、「手をかける」ために一生懸命でした。
娘の発達の遅れが分かってからは、遅れを改善するために言葉のかけ方を変えたりはしたものの、知育や早期教育への熱はすっかり冷めて調べなくなってしまいました。
せっかく買ったおうちモンテッソーリの本も途中で読むのをやめてしまいました。
心のどこかで、「手をかけた所で大した成果は得られないだろう」「思い通りの反応が見られないなら最初からしたくない」という考えで我が子に接していたんだとおもいます。
ちなみに、この現象はあくまで我が子にのみ起こるもので、支援学校の教員としての仕事中には全く出て来ません。
むしろ、支援学校では「手のかかる子」にガッツリ手をかけるタイプです。
理由は、2つあります。
1つは、仕事の時は「子どもの命を守る責任を強く感じているから」です。
学校で関わる子ども達1人1人の背景には、「学校を信頼して預けてくださっている保護者」がいます。
子どもが学校に到着した時点で、その信頼に応える義務があります。
小さな気の緩みや失敗が大きな事故や事件を引き起こすかもしれない事は、支援学校や障害児に関わるニュースを観て、嫌と言うほど実感しています。
もちろん、気を引き締めていればあらゆる事故や事件が防げるという訳では決してありませんが、自分の行動に責任を持って働く事は大切なのでしょう。
もう10年近く前の話になりますが、初任だった頃に初任指導の担当の先生から言われた言葉で、今も常に意識している事があります。
それは、「保護者や他の先生に説明できる事をしなさい。」です。
それは、「何かあった時に『自分はこういう対応をした』ときちんと説明できる教員らしい行動をしなさい。」という戒めの意味もありますが、
逆に、「自分が『これが正しい・やりたい』と思った事は自信を持ってやりなさい。」という前向きな意味もあり、常に教員としての自分の行動を考える基準となっています。
なので、仕事をしている時にトラブルが起きた子を放置する事はありません。(放置したい気持ちになってしまう事はありますが…。)
もう1つの理由は、仕事に関しては「手がかかる子の相手をしている方がやりがいを感じる」部分があるからです。
仕事であれば、保護者や他の先生と連携して「手がかかる子」の支援を考えて試す面白さや、問題行動を改善したり、無事に1年を終えて達成感を感じたりする機会があります。(周囲の先生との相性次第では泥沼にはまる事もありますが。)
それは一種の「仕事へのやりがい」で、それを求めて支援学校で働いている部分もあります。
あとは、「手がかかる子」の相手をしていると、他の先生から心配されたり労われたりする事があるので、それが単純に気持ち良いのかもしれません。
我が子に関して事情が違います。
家の中の子育ては基本孤独だし、誕生日や卒園等の子育ての節目はあってもすぐに次のステージや課題がやって来るし、仕事のようなやりがいを感じる機会は中々ありません。
そんな訳で。
仕事の時はどんな状態でも放置したりする事は決してないので、万が一ブログ読者さんの子どもさんの担任をさせていただく事があっても心配しないでほしいです
(常にリアルの知り合いに読まれる事を想定して保険をかけるチキンな私です、すみません。)
最後に、なぜ我が子に対してのみ「手がかかると放置したくなる」厄介な性格を持ってしまったのか。
原因を考えるとやっぱり、自分のグレーな部分に突き当たるのかなと思います。
ASD的な共感力の低さや、ADHD的なコツコツと集中し続ける事の難しさ、後は不器用さから来る家事全般への苦手意識があるのかもしれません。
育児にエネルギーを注げる時はワーッと注ぎ、そうでない時は力を抜きすぎている気がします。
自覚があったら変われるのか?
正直、「何事も程々に頑張る」「コツコツとルーティンをこなす」事が大事と頭では分かっていても、その通りに動くのは私には厳しいです。
大きな声では言えませんが、ネグレクトをしてしまう親の気持ちがよく分かります。
幸い、娘も赤ちゃんも手がかかりすぎる事はないのでそれなりにやれていますが、私のキャパを超えた時点で「もう生かしていればいいや。」と投げやりになって、とんでもない育児をしてしまう可能性は低くないでしょう。
虐待の背景には、親の発達障害や子どもの発達障害も大きく関わっていると思います。
この話を上手くまとめる事はできませんが…
これからも躁鬱のような波の中で子育てをしていく事になると思いますが、「エネルギーが低い」「やる気が出ない」時こそ、何らかの失敗や事故が起こらないように最低限気を付ける事を忘れないようにしたいと思います。