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1 沖縄

 

 6月27日から7月1日まで、沖縄にいってきました。

 沖縄については、常に気になっています。それは、近現代史の研究をしてきたものとして、「琉球処分」、沖縄戦、そして戦後の米軍支配など、沖縄が歴史的に経験してきたことが余りにも無視できないためです。

 また、沖縄県民が普天間基地の辺野古移設に反対の意思を示し続けて粘り強く闘い、それは中央に対する自立的な姿勢として日本の地方自治の橋頭堡となっているためです。

 そして今日、沖縄は米中・日中対立の最前線に置かれ、再び戦場になる危険性が高まっているためです。

 そんな折、秋から東京農工大学で国際平和論を講じることになりました。現在に平和を語る上で、日本に住んでいるものとして沖縄を欠かすことはできないと考えていたところに、「沖縄にいきたい。一緒にいってもらえないか?」という母からの頼みがきました。「沖縄の現在の状況を気に病んでいたところに、沖縄の友人からの誘いがあり一念発起したが、これまで一度も飛行機に乗ったこともなく不安なので」、という話でした。

 私はちょうど、三上智恵監督の新作「沖縄、再び戦場へ(仮)」のスピンオフ映画会を見た後で、沖縄の現場を見なければいけないと感じていました。それで「これはタイミングだ」と思い、沖縄行きを決断しました。

 

2 素敵な予感

 

 那覇空港に到着したのは午後3時半過ぎ、空港ビルに降りるとそこはもう羽田とは違う南国特有の空気が漂っていました。学生の頃、バックパッカーとしてアジアの国々を旅してきた私には懐かしい感覚です。

 ゆいレール(モノレール)に乗って県庁前駅で降りて、母の友人の経営する「ゆかるひ」というお店へ。「ゆかるひ」とは沖縄の言葉で「好き日」を意味します。そこはヴィーガンレストランでした。

 喉が渇いていたのでオーガニック・ジンジャーエールを注文。その美味しいこと!長旅の疲れが和らぎました。

 

 

 

 

 それからホテルにチェックインして荷物を預けた後、友人から勧められて「民謡ステージ歌姫」という民謡酒場に行きました。ここは我如古より子さんという民謡歌手の経営しているお店です。

 オリオンビールを飲みながら沖縄料理を楽しみ、ステージを鑑賞。「安里屋ユンタ」「ちんさぐの花」「豊年音頭」など沖縄の民謡を披露しながら、その合間に「涙そうそう」「花」「島唄」「さとうきび畑」など客のリクエスト曲にも答えて歌ってくれました。

 よかったのは、ステージが進むにつれ、興が進んできた客が立って前に出てきて踊り始めたことです。促されて私も思わず踊りました!

 

 

 こうして、沖縄の旅は素敵な予感を感じさせて陽気に始まりました。

 

3 「米軍基地キャンプ・シュワブのゲート前」はどこか?

 

 翌日は早朝7時に県庁前にある県民広場から、沖縄平和市民連絡会が運行する「辺野古バス」に乗車して辺野古へ向かいました。

 

高里鈴代さん 

 

 そこで一緒に乗り合わせたのが、沖縄平和市民連絡会共同世話人で「強姦救援センター・沖縄」代表や、「軍事主義を許さない国際女性ネットワーク」沖縄代表をされている高里鈴代さんでした。高里さんは那覇市議会議員を4期務められた女性です。

 私が政治活動をしていると聞いて、ご自身の経験を語ってくださいました。那覇市の婦人相談員をしていた時に検察・行政の不条理を感じ変えたいと思って政治家になられたということや、1期目は支持者の寄附金で選挙をしたこと、任期中は市民相談のために事務所を構えたことなどを話してくれました。また亡き翁長雄志さんが2期目の那覇市長選挙に出馬した時、無所属・革新統一候補として立候補して翁長さんと競ったという興味深い話もしてくれました。なにより私が議員になることを励ましていただいて感激しました。

 

新基地建設阻止行動

 

 バスに揺られて1時間半ぐらいして、米軍基地キャンプ・シュワブのゲート前に到着しました。ゲート前には陽射しや雨を防いで休憩したり新基地建設阻止行動に参加する人同士が交流するために仮設のテントが作られていました。そこで少し腰を落ち着けると、1回目の土砂搬入の時刻が来たのでゲート前に簡易椅子を置いて座り込みをしました。

 

 

 辺野古新基地建設現場では、午前9時と正午、それに午後の3時に、キャンプ・シュワブのゲートとは別に道路沿いに設置された搬入口から、埋め立ての土砂が運び込まれます。「座り込み」とはその時間になると、その搬入口の前に「座り込む」ことを言います。

 私は1日3回の座り込み全部に参加しました。そのうち、午前9時の座り込みに参加したのは約35名、正午は約50名、そして午後3時は約35名でした。

 定刻前に座り込み、幾人かが挨拶をしたり、歌を唄ったりしました。その歌がどれも振るっているのです。例えば、「沖縄今こそ立ち上がろう」は「美しき五月のパリ」の替え歌、「ゲゲゲのゲート」は「ゲゲゲの鬼太郎」の替え歌といった具合です。これらの歌のお陰で、シビアな状況のなか、勇気をもらって楽しく阻止行動に参加することができました。

 

 

 2回目の座り込みのときには私も挨拶をさせていただき、冒頭に書いた沖縄に対する思いを話させていただきました。

 

 

 やがて定刻になると、沖縄防衛局の職員が退去の勧告をして、従わない人間を排除します。排除が完了すると、搬入口のフェンスが開いて、1列に並んで待機していた土砂を運ぶダンプカーが基地内に、一斉に流れ込みました。

 

 

 印象に残ったのは、搬入口の前に上司の指揮のもとに隊列を組んで並んだ民間警備会社のガードマンや、土砂を搬入するダンプカーの運転手たちの表情でした。座り込みをしている人たちの個々別々の身振りや表情に対して、無表情かつ一律の動作が特徴的でした。

 

 

 阻止行動参加者の想いに満ちた表情や言葉やパフォーマンスとは対照的に、淡々と作業をしているという風でした。

 座り込みの合間を縫って、特にお昼時間には参加した市民が料理されたお昼ご飯をいただきながら、参加者と交流しました。全国各地から、新基地建設が続けられる現状を憂えて阻止行動に参加されていることを知ることができたり、また沖縄に移住されてフリーペーパーを出されている人と会うこともできたり、有意義な時間でした。 カヌーで新基地建設阻止行動にたびたび参加されている北杜市の中島さんともお会いすることができました。

 

 

テント村

 

 また、新基地建設阻止行動の合間に民宿クッションと辺野古漁港の南にあるテント村に行きました。それは、クッションが単なる宿泊施設ではなく、沖縄平和サポートの事務所のような機能も果たしていて、たくさんの資料が置いてあったり、抗議行動に参加している人がいて、いろいろな情報を聞くこともできると聞いていたからです。

 あいにく私が訪ねた時にはあまり人はいませんでしたが、たくさんの資料が置いてあって、ここが新基地建設阻止行動に参加する人たちにとっての情報交換や交流の場になっていることを窺うことができました。

 テント村を訪ねると、そこには浦島悦子さんというかたが1人でいらっしゃいました。浦島さんは1990年に鹿児島から沖縄に移住され、沖縄の環境を守る活動にかかわり、文筆活動を続けていらっしゃるフリーライターです。その浦島さんが「新基地建設阻止行動をしている人も高齢化が進んで今は少なくなってしまった。」と寂しそうにポツリ呟いたのが心に残りました。市民運動で高齢化が進んでいることは私の住んでいる北杜市でも課題ですが、辺野古新基地建設阻止行動でも同様の課題があるようでした。

 テント村の東を見ると、基地建設が大浦湾を埋め立てて行なわれている様子が遠くに見えました。なるべく近づいてみようと思って、張りめぐらされているフェンスに近づくと米軍海兵隊太平洋基地の警告板があり、建設中の新基地工事現場を背に警備員が私に警告の呼びかけをしてきました。

 

 

「米軍基地キャンプ・シュワブのゲート前」はどこか?

 

 私が新基地建設阻止行動に参加した日は、ゲート前の座り込み抗議3279日目、テント村座り込み7010日目です。とてつもなく長い間座り込みが続けられてきているのですが、逆に言えば新基地建設は止まらずに続けられている訳です。それを可能にさせているのは、沖縄で起こっていることに対する本土の人たちの無関心だと思いました。辺野古新基地建設問題、ひいて沖縄の基地問題は沖縄の問題ではなく、日本全体の問題であるのに、政府は問題を矮小化し、沖縄だけに閉じ込め隠そうとして、それを本土の人たちは受け入れ、さらにこれ幸いとしてはいないでしょうか。「沖縄に住んでいないから。当事者じゃないから」という理由付けで他人事としようとするならば、それは大きな間違いです。

 当事者は辺野古でも、名護市でも、沖縄県だけでもありません。「安全保障のため」と謳って正当化する米軍基地は日本に住んでいるすべての人間が当事者であり、そう思わないとしたら、それは意識的、無意識的に厄介な問題を避けようとしているからです。それによって沖縄を犠牲にしているのは本土の私たちです。それだから、「米軍基地キャンプ・シュワブのゲート前」は実は辺野古にあるだけではなく、私たちの住んでいる各現場にあります。

 辺野古と自分の住む場所がつながっていることが確かめられ、「よし!私の住む現場で頑張ろう!」と思いました。

 

4 戦場の記憶

 

 3日目は、母の友人から紹介された平和ガイドの井出さんの案内で主に南部戦跡を見学しました。

 

沖縄陸軍病院南風原壕群

 

 沖縄陸軍病院南風原壕群から始めて、「飯あげの道」と呼ばれる看護婦やひめゆり学徒、衛生兵らが、炊事場から病院壕まで砲弾の飛び交う中食料運搬する時に通った道の説明を受けた後、陸軍病院20号壕に移動、壕内見学と周辺のモニュメントの説明を受けました。病院とは名ばかりの手掘りの人口壕を利用したもので、中は不衛生で悪臭が充満し、医薬品も足りず、負傷兵はまともな措置を受けることはできませんでした。そういう環境の中でひめゆり学徒も看護にあたっていました。

 

 

 

 

山城本部壕

 

 その後、糸満市山城にある「山城本部壕」というガマ(石灰岩で形成された鍾乳洞)に入りました。日本軍の南部撤退に伴い、南風原陸軍病院も南部へ移動し、ひめゆり学徒や病院関係者は6つの壕に分かれて身を潜めました。山城本部壕はそのうちのひとつで、ここには病院の本部の人たちが入っていました。もともとは近隣住民が避難していた壕でしたが、日本軍が使うということで住民は追い出されてしまいました。この時点ではもう医療行為はできず、それぞれの壕でただ隠れているだけだったそうです。ここには6月14日に米軍の艦砲弾が落ちて、院長、衛生兵、ひめゆり学徒らが犠牲になりました。6月18日には6つの壕に解散命令が出され、ひめゆり学徒たちはガマを出て、戦場をさまようことになります。解散命令までは19名だった犠牲者は、その後数日で100名を超えました。

 

 

 ガマに入ると苛烈な当時の戦場の空気が感じられ、艦砲弾が落ちた時の凄惨な光景を想像しました。

 

 

 

 

魂魄の塔

 

 次に行ったのが糸満市米須にある魂魄の塔です。ここは戦後、一番最初に住民の手によって作られた慰霊塔でした。米軍によってこの場所に強制収容された旧真和志村(今の那覇市)の住民が、周囲に散らばる遺骨を拾いあげ、最終的に35000柱の遺骨を集めました。

 ここに収められている遺骨はすべて身元不明者です。戦場で行方不明となった犠牲者の家族にとってはここがお墓のようなもので、毎年6月23日の慰霊の日には多くの参拝者が訪れます。

 塔の手前で売られていたお花とお線香を買って供え、静かに手を合わせました。

 現在は遺骨のほとんどが平和祈念公園の摩文仁の丘にある国立戦没者墓苑に移されています。

 

 

24師団小池隊

 

 午前中の最後に行ったのが糸満市糸洲にある「鎮魂の塔」と「ウッカーガマ」です。長野県佐久市の医師・小池勇助氏が率いた第24師団小池隊最後の場所で、ふじ学徒隊(積徳高女学徒隊)が勤務していたガマでした。小池隊長は解散命令を引き伸ばし、周囲の状態を見計らって少女たちを外に出しました。「必ず生きて家族のもとに帰れ。絶対に死んではいけない」という小池隊長の言葉が支えとなり、ふじ学徒隊は25名中23名が生き延びました。小池隊長自身はこのガマで自決しました。

 

ひめゆりの塔

 

 午前中の見学はこれで終わって井出さんと別れた後、同じく糸満市にあるひめゆりの塔に向かいました。ひめゆりの塔は、沖縄戦で亡くなった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒や教師のための慰霊碑です。沖縄戦の翌年に、両校で最も多くの犠牲者を出したガマの上に建てられました。

 併設する「ひめゆり平和祈念資料館」は、1989年6月23日に、ひめゆり同窓会によって設立されました。入館すると、当時の貴重な証言や資料が展示されていました。

 それらを辿って改めて確認したのは、彼女たちは勉強やスポーツに打ち込み、友だちと楽しく遊ぶ現在の私たちと変わらない「普通の」学生でしたが、沖縄が戦場となったことでその人生が一変したということでした。明治維新以来、間断なく日本は戦争を行い、彼女たちが学生生活を送っていた当時もアジア太平洋戦争の真只中であったのにもかかわらず、彼女たちは戦争の本当の姿を知らず、実際に体験して初めてその恐ろしさ、命の尊さ、平和の尊さを知ったのです。

 戦争は常に身近にあるのに、その本当の姿を知らないというところで、現在とも通じていると感じました。ウクライナをはじめとして今も世界には戦場があります。日本もウクライナ戦争に加え、台湾有事の危機が叫ばれ、昨年末には日本政府は安保3文書を決定、沖縄では自衛隊増強が進みます。しかし私たちのうちのどれくらいの人が戦争の本当の姿を知り理解しているでしょうか。今この時期こそ、沖縄戦の歴史を、もう一度学び私たちの日常に照らし合わせて検証する必要があります。

 

沖縄平和祈念公園

 

 次に、沖縄平和記念公園に行きました。平和記念公園は、全戦没者の追悼と平和を発信する公園として、沖縄が日本に復帰した1972年に沖縄戦終焉地の摩文仁の丘に開園しました。 

 

  でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た

  くり返す悲しみは 島渡る波のよう(宮沢和史「島唄」)

 

 真っ青な空の下、丘から向こうに広がる深い青色の海を眺めると、この海が軍艦に埋め尽くされ、やがて空から「鉄の暴風」とたとえられるほどの無数の砲弾が降ってきたことがありえないことように思われ、気を遠くさせるような悲しみに襲われました。

 

  でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ
  ささやかな幸せは うたかたの波の花
  ウージの森で歌った友よ
  ウージの下で八千代の別れ(宮沢和史「島唄」)

 

 エメラルド色に輝く海原に向かってツイタテ型に波打った黒御影の石碑が公園には幾重にも並んでいて、石碑の表面には沖縄戦の犠牲になった戦没者の生命が刻まれていました。太平洋に向かって扇形に広がった石碑の波は、沖縄から世界に向かって発信される「平和の波」を意味しているのだそうです。

 「島渡る波のよう」と歌われた悲しみは、今度は「平和の波」となって世界に返されんとしているように思えました。

 

  島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
  島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を
  海よ 宇宙よ 神よ いのちよ このまま永遠に夕凪を(宮沢和史「島唄」)

 

 

黎明の塔

 

 公園内には、慰霊園路に沿って国立沖縄戦没者墓苑や各県の慰霊塔碑がありました。その道を歩いていくと、吉田茂によって「黎明の塔」と揮毫された碑が、摩文仁丘の頂上に立っていました。この岩山の洞窟壕で自決した沖縄守備隊司令官牛島満中将と長勇参謀長をまつる塔でした。

 

 

 摩文仁の丘の一番高い場所に牛島司令官と長参謀長が祀られた塔が立って、その下の周囲に各県の戦死者慰霊塔が並んでいるのは、米須海岸に立つ“無縁墓”「魂魄の塔」と好対照をなしていました。

 「平和の礎」には242,046名(2023年6月23日現在)の名前が刻まれていますが、その大部分は沖縄県民です。ときの指導層が起こした戦争による犠牲者は、圧倒的に一般住民が多いことを示しています。

 沖縄戦の真実を明らかにするためには、軍隊中心の戦史ではなく一般住民の目線から戦場の実相を明かにしていく必要があります。

 その目線を大切にして建てられたのが、「平和の礎」の隣の平和祈念資料館でした。「沖縄県民の視点から沖縄戦の真実をリアルに伝える展示」と評価されている資料館には、残念ながら時間の都合で入ることができませんでした。次に沖縄を訪ねるときにはぜひ入館したいと思っています。