「安倍元首相が凶弾に倒れた事件は、日本だけでなく世界を震撼させた。動機はすでに明らかになっているものの、そもそも恐るべきこの事件が起きた背景にあったのは、日本社会に蔓延する『無関心』だと、独紙が分析する。」(引用)


https://courrier.jp/news/archives/294511/?fbclid=IwAR2p6-uI7H0G0zQ7lxyiFx6Jq1Be3tKQP4NJEWllTpBL2xUPRTJ5jrlhRek


 わたしは、『現代に甦る大杉栄 自由の覚醒から生の拡充へ』を出版してのち、「自分の幸福と公共との関係」をテーマにして、しばらく大学の授業をしてきました。その理由は、「私たちは現在、自分たちの幸福に対して関心を持てなくなっているのではないか。」という危惧を持ったためでした。


 二千数百年以上前に、古代ギリシャの政治家であるペリクレスは、「政治に何ら関心を示さない人は自分自身のことに気を配っている人ではなく、何もしていない人だ。」と言いました。

 またナチ宣伝相ゲッペルスの秘書ポムゼルは、「ナチズムに同調していったドイツの人々の最大の関心事は、仕事とお金を得ることだった。」「全てを可能にした原因は国民の無関心にあった。」と証言しました。


 記事は言います。

 「日本では事件直後、1930年代や60年代という、日本で政治家が暗殺された時代が引き合いに出されたものの、現代は『政治が感情を揺さぶるものではなくなっている』ため、当時とは状況が大きく異なる。現代の日本人は政治や社会に対する関心を失ってしまっているというのだ。

 このような痛ましい事件を起こさないように、『孤立した男性に新たな展望を与えるにはどうしたらいいか、大きな社会的議論が日本には必要だ』。しかし、そのような議論は起こりそうにもないことに、警鐘が鳴らされている。」


  「無関心と無関係」として表明したように、そもそもわたしが政治家として活動を始めた理由も、自分の幸福への関心は、みんなの幸福への関心と切り離せないことを表すためでした。

 しかし「そのような議論」を起こすことのできない自分の姿を見て、政治家として、政治学者として、慙愧に耐えません。