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 昨日は「やまなしの女性史を学ぶ」15周年記念講座として開かれた上野千鶴子さんの講演「女性史とフェミニズム:出会いそこねと再会」を聴きに甲府のぴゅあ総合までいってきました。

 コロナ禍で定員を50名のところを何とか参加させてもらいましたが、聴けたことは大正解でした。それまで未整理のままモヤモヤしていたものが上野さんの講演を聴くことによって、だいぶ整理できました。

 「日本女性史とフェミニズムの出会いは不幸なものであった。」という言葉から始められた女性史とフェミニズムの関係を、上野さんは「婦人問題論から女性学へ」とまとめられました。婦人問題論というのは一言でいうと問題婦人の研究です。売春女性の更生や労働婦人の出産障害等といった「問題婦人」の研究から、女の上がりであり、標準化されたライフコースであった「主婦」研究への転換を述べられたお話は刺激に満ちていて、久しぶりに知的興奮を覚えました。

 「問題婦人」の研究というのはどこかそこに自分がいないのに対し、「主婦」の研究というのはまさにそこに自分がいる。いわば女性研究における当事者性を問うたものと言ってもいいでしょう。

 これと関わって興味深かったのが、歴史学の記憶論的転回についてです。1990年代に関係者から直接話を聞き取り、記録としてまとめる口述歴史、オーラルヒストリーが盛んに行われました。しかし、記憶は事実とは違います。話し手はすべてを話す訳ではありません。或ることは話し、或ることは話さないのです。

 これを聴いた時、わたしはかつて水俣を訪ねた際に現地で聞いた「サバルタンは語れない。」という言葉を思い出しました。サバルタン(従属者)は語ることができない。そうだとしたら、わたしたちの目の前に残されているいわゆる歴史とは何だろう?水俣を訪ねた際に思った問いが、上野さんの講演を聴きながら再び甦ったのです。そして同時に閃光のごとく頭に走ったのが「歴史とは思い出である。」という文芸批評家・小林秀雄の言葉でした。

 歴史を書く者の心得として、小林は「ただ思い出すのでは駄目だろう。よく思い出さなければならない」と言いました。同じく、オーラルヒストリーにおいても、「ただ語るのでは駄目だろう。よく語らなければならない」のでしょう。それでは、サバルタンが語れるための条件は何なのでしょうか?それを上野さんは、よき聴き手が存在することだと言われました。話し手が先にいるのではなくて、聴き手が先にいるのだと。これが歴史学の記憶論的転回の意味だとわたしは思いました。

 そうであるとすると、女性史において聴き取りをする聴き手の存在が、決定的な意味を持つことになります。女性史の聴き手の当事者性が、まさにそこで問われる訳です。

 これを上野さんは、「歴史は物語である」とする立場と実証史学者の対比として語られましたが、換言すれば歴史家と歴史学者の違いということができるでしょう。

 彫刻家、画家、音楽家、作家、思想家、「家」がつく職業の人は、何らかの世界を創る人です。歴史家もまた世界を創る人でしょう。物語ることによって、彼・彼女は世界を創ります。そしてよく物語るためには、よき聴き手がいなければなりません。

 ハッとそこでしました。政治家も世界を創る人です。言葉によって、彼・彼女は世界を創ります。そしてよく対話するためには、よき市民(主権者)がいなければなりません。

 政治家として自分が歩んでいくための自覚をも喚起されました。コロナ禍の中で会場にいらした上野さんと山梨県立男女共同参画推進センターのスタッフの皆様に感謝したいと思います。