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 昨日は年に1度の「ひやざき雅也を応援する会」の総会でした。コロナ禍の緊急事態宣言の最中ということもあり、人数を絞っての開催となりました。

 そういう大変な状況だったにもかかわらず、臨席いただいた市長とは型通りの挨拶ではない対話の時間も設けるなど充実した中身となりました。

 これまでの北杜市においては、異なる意見を持つ者どうしが交わり、対話するという機会が余りありませんでした。そのようなところに、市長が相異なる意見を持つ者とも立場を超えて意見を交わし、対話し、考えることのできる場所が誕生したということは、意義あることであると思います。それぞれの間に認識のズレもありますが、北杜市のありたい姿について粘り強く対話し考えていこうということになりました。

 貴重な時間を割いていただいた市長を始め、関係者の皆様には深く御礼申し上げます。

 以下は、総会でしたわたしのスピーチの全文です。

 

 今日は日曜日の時間を割いて「ひやざき雅也を応援する会」の総会に出席いただき、深くお礼申し上げます。

 公務の合間を縫って出席され、対話の御時間までいただく上村市長。貴重な時間を割いて参加してくれた、この場の皆様。そして今日の総会の準備で本当に、連日頑張ってましたスタッフの方々。とりわけ一昨年に後援会が再出発してから今日まで、わたしの活動を支えてきてくださいました旧役員の皆様には本当に感謝申し上げます。皆様のお力があったからこその現在のわたしであり、後援会である、そのように思っています。今日始まる前に、皆様が設営に頑張ってる姿を見て、涙が出そうになったんです。嬉しくて、なんか。本当にそういう人たちに対して、すべての人に対して、この場をかりてお礼を言いたいと思います。有難うございます。

 わたしが政治家となったのは、44歳のときでした。県議会議員選挙に出まして、それも市民が主役の政治の実現を求めて、キャッチフレーズも、「動かそう! 市民の力で」という、本当に目指す政治理念にあったような文句を当時から付けていました。

 それから本当にいろいろありました。特に去年は市長選挙との絡みでいろいろなことがあって、わたしの判断についても理解されたり、されなかったりしました。そんな時にわたしが立ち還ったのは、「市民政治の実現」という政治理念でした。

 そこでこの大切な理念と今回の判断の関係について、ちょっとお話していきたいと思います。

 わたしが尊敬する政治家に勝海舟がいます。勝海舟と言うと、西郷隆盛との間で江戸城の無血開城を成し遂げたことで有名です。その後の彼は新政府の中で海軍卿とかを歴任するんですけれど。そんな海舟に噛み付いたのが福沢諭吉です。

 福沢に「痩せ我慢の説」という書があります。前と後の二つに分かれていて、前段は江戸城無血開城に対する厳しい叱責であり、後段は新政府に仕え爵位を得たことへの非難です。福沢の主張を一言で言えば、私情に殉じて、たとえ相手がいかなる多勢にして強敵であろうとも、国を立てるために痩せ我慢を張り通し、断固として抵抗し戦うところに、日本人の気風があるのに、一、二の雄藩に過ぎない敵に、一片の堪え性もなく幕府軍の総大将が、少々ばかりの利益を重んじて、和を講じ、哀れみを乞うとは何たることか、というものです。

 これに対して海舟は、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず吾に関せずと存じ候。」と返しました。そして、「徳川幕府あるを知って日本あるを知らざるの徒は、まさにその如くなるべし、唯百年の日本を憂うるの士は、まさにかくの如くならざるべからず」と話しています。「幕府のためだけを主として考えるべきか、それとも日本全体を主とすべきか」と言った訳です。

 僭越ながらこの話を紹介するのは、これが市長選の時の状況と似ていると思うからです。

 わたしが上村さんと協同することを発表した時、「非自民系であるひやざき雅也が自民系である上村候補と協同することは理解し難い裏切り行為だ。」という非難を受けました。しかし北杜市に大切なのは、自民・非自民、保守・革新、左・右、新(住民)・旧(住民)という軸ではなく、新しい北杜市の進路を根拠あるやり方で実現することです。それは北杜市のありたい姿、北杜市のアイデンティティーについて、相異なる意見を持つ者どうしが立場を超えて意見を交わし、対話し、考えることを始めるということです。

 不幸なことに、これまでの北杜市においては、異なる意見を持つ者どうしが交わり、対話するということがあまりありませんでした。そこに、北杜市で生まれ育ってわたしと異なる意見を持つ上村さんから、移住してきたわたしに対して協力のお願いがきたことは、一つの新しい可能性でした。それを、「かみむら候補は自民系だから。」とか、「かみむら候補は地元のかただから。」という理由で無視することは、貴重な可能性の芽を摘むことであると考えました。海舟に倣えば、「非自民あるを知って北杜あるを知らざるの徒は、まさにその如くなるべし、唯百年の北杜を憂うるの士は、まさにかくの如くならざるべからず」だと思ったのです。

 海舟は「薩長か幕府か」という狭い視野から離れて、「日本」というもっと広い視野に立って、一人の政治家として判断し、行動しました。そして「江戸城無血開城」という大仕事を成し遂げました。天下大動乱のとき、人びとが難を恐れ策に窮して誰もその衛に当たろうとしないとき、海舟は百難を恐れずに身を挺したのです。

 あの選挙で4人の候補者が立つ中、「投票したい候補者がいない。」「誰に投票したらいいか分からない。」といった声が聞かれるような状況のとき、上村さんとの協同を表明したときは誠に僭越ながら、百難を恐れずに身を挺した海舟と同様の心持がしました。海舟とともに江戸城無血開城を実現させた西郷隆盛を尊敬する上村英司と、海舟を尊敬する飛矢﨑雅也が、西郷と海舟が「薩長か幕府か」という枠を超えて協同したように、「保守か革新か」という枠を超えて、北杜市政刷新のために協同したのです。そして白倉市政とは異なる新しい流れを北杜市に誕生させました。

 冷静に考えてみましょう。非自民に固執することで大柴市政を誕生させてしまうことが正しかったのかどうか。地域の存亡の責任を負うものとして、そうした立場に殉ずることが政治家の責任ということなのか。華々しくて見栄えがしますが、政治家としては決してそういうものではあるまいと思います。

 そしてここが大切なところですが、市民政治においては政治家のその責任を市民一人ひとりが分け持っているということです。

 あの伸るか反るかのときに、選挙の結果は知らない、非自民の旗を高く掲げよということでは、責任は果たせなかったと思います。

 だからあの時、戦うことよりも、相異なる意見を持つ者どうしが立場を超えて意見を交わし、対話し、考えることのできる場所を得ることをわたしは選びました。専門的な言葉を使えば、公共圏の構築ということです。そして市民政治とは、公共圏を構築していく営みです。それで確信をもって上村さんと協同しました。

 政治において何事かを成し遂げるということが、どこかに突っつかれやすい損害を伴うということも、わたしは自覚しています。しかし、機はあそこをおいてありませんでした。それ故の協同でした。そのことに対して弁解はしません。それが政治家というものです。ここにわたしは「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」と返した海舟の真意を読み取ります。

 皆様は政治家の責任を少しずつでも分け持っていこうとしてこの後援会に集いました。その尊い志と行為に満腔の敬意を捧げます。市民政治の政治理念を日本政治の中に叶えるために、一緒に活動していきましょう。

 今日が私たちにとってよい日でありますように。

 有難うございました。