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 202027、森のようちえんピッコロの見学をしてきました。ピッコロは2007年に北杜市須玉町上津金に開園して今年で14年目を迎えた森のようちえんです。自然保育というものに関心があったことと、以前から懇意にしていただいていた中島先生が代表を務めるピッコロの保育を実際に見てみたかったというのが、見学の理由でした。


 今季一番に冷え込んだ朝、受付を済ませて、中島先生とスタッフと一日園長による朝ミーティングに臨みました。「一日園長」とは耳慣れない言葉ですが、ピッコロの運営は保護者と保育者の共同運営で、保護者全員が各係に就いており、園長もその係の一つなのです。

 今日の視察者は8名ほどで、岩手、茨城、埼玉、東京、神奈川といった各地から参加していました。それに中島先生を始めとするスタッフ・保護者が加わって、子どもたちについての報告、視察者それぞれの自己紹介と参加理由が話されました。

 見学の理由はさまざまでしたが、「本音で生きていない。幼い頃から他人が求める自分だけで生きてしまう」という悩みが印象的でした。それは、今年度のわたしの授業に出た大学生の中にも似たような悩みを表白した者がいたからでした。

6歳の時に妹が生まれ、「お兄ちゃん」になることを余儀なくされたその学生は、親の求める「よき」兄に熱心になろうとしたそうです。そのため、それまで親から「よき」子であることを求められる存在だった彼は、妹に対して今度は自分が「よき」妹であることを求める存在となりました。そうしていわゆる面倒見の良い子になっていった彼ですが、高校3年生の頃から何となく不登校になり、卒業後はフラフラした後に自殺を試みたというのでした。

それは、彼が、「やりたい」ではなくて、「やらなければならない」を生きていたということであり、社会の中の自分を生きたのではなく、社会から求められる役割を生きていたということだったのだと思います。その結果、「役割ロボット」のようになった彼は自己を見失って、自殺しようとしたのではないでしょうか?そのようなことをわたしからは話しました。

朝ミーティングが終わると、朝の会です。皆で外の庭に丸くなって座ります。子どもは25人くらいで、男女比はだいたい12でした。

「今の気持を教えてください。」中島先生がそう言うと、子どもたちが順々に答えます。「鬼ごっこしたい。」「普通。」「家族ごっこしたい。」「~ちゃんと遊びたい。」「あまりない。」

あらかじめ決められた予定がないからこその始まり方でした。

次に「どこにいきたい?」と先生がまた尋ねると、子どもたちが次々とやりたいことを答えます。その中から多数決を取って、その日は川にいくことになりました。


印象的だったのは、道路を横断する時に年長の子どもが年下の子どもの手を取って、しっかりと確認してから道路を渡っていることでした。そこからは子ども達一人ひとりが場面に応じて自分以外の子を思いやりながら動いている様子が見て取られました。


そうして辿り着いた林の中の小川で、スタッフに見守られながら、指に擦り傷を負ったのも気にせずに、子どもたちは土だらけになって遊んでいました。冷たい川の中にもどんどん入っていき、長靴の中に水が入ってしまうのも御愛嬌。自然の中で異なる年齢の子どもたちが混ぜこぜになって支え合い、教え合い、遊び、その中には大人も混ざっていました。




そんな子どもたちを見ながら、「氷を食べようとした子どもに、『汚いから食べちゃダメ』って言えないんだよなぁ。」と中島先生はぽつりと言いました。それは大人が制止する前に、子どもの自主的な判断を尊重したほうがいいということではないか、と思いました。子どもが氷を食べることを制止するということは、子どもがそれを食べてお腹を壊す可能性を摘むということですが、それはその失敗を通じて子どもが成長する可能性を摘むことでもあります。いわば氷を食べるということはその子にとっては氷以上のものを食べている訳であり、手前で管理することは子どもがそのいずれかの可能性を選び取る機会を奪っていることでもある訳です。白黒つかないのが自然であり、教師としての自然のその力を中島先生は最大限に尊重して保育しようとしているようにも見えました。

さて、いっぱい遊んだ後はピッコロハウスに帰ってお昼ご飯。皆で一緒にお弁当を食べました。その中でも中島先生は、気になった子どもと対話をしたりしながら、御弁当を食べている子どもたちの様子を観察しているようでした。

昼食・自由遊びの後は午後の活動・帰りの会。丸くなって子どもたちが仲良く、静かに絵本の読み聞かせを聴いている光景が印象的でした。中島先生と子どもたちの間に確かな信頼関係が出来ていることが見て取られました。

読み聞かせの後は動物園に行くバスの席を決めました。その様子が凄いのです。「~ちゃんの気持、かわいそう。」「皆のせいで言いたくなくなった。」「どっちも悪くない。」「今、お話しの勝負していない。」子どもたちが集団の中のそれぞれのことを考えながら議論しているのです。それは答を出すというよりも、議論の過程を大切にしている風でした。異年齢の子ども同士が言い合えて、それぞれが自分の意見を言えるのは、その場の参加者全員に対する敬意があり、そういうを中島先生が創られているからでしょう。これが「信じて待つ保育」なんだと思いました。

帰りの会が終わると建物を換えて保護者から保護者への報告会が行われました。そこで出された参加者の感想を紹介します。

「保育の現場が大人の現場だった。」

「中島先生が誘導しないのが凄い。それでも収まるのが凄い。」

「保育者のスケジュールを敷いてその上に子どもを乗せていない。」

「安心する場があれば、意見の違いも怖くない。意見の違いを前提にして議論ができる。大人の社会でも必要なことだと思った。」

「存在に〇をつけないと、皆本音で話し合えない。」

「自分はどれだけ子どもたちの可能性を潰してきたか。」

「全てが他人事ではない。群れの世界ってすごいなあ。」

こうした参加者の感想を聞くだけでも、いかに濃い時間が流れていたか分かっていただけるのではないでしょうか?

最後に、全体を通してわたしが感じ考えたことを書きたいと思います。

まず、ピッコロの保育は「場」をつくるということを軸に据えている、ということを覚えました。ピッコロでは個人と集団の関係を整え続けます。それも集団の中で個々の役割が定まっているのではなくて、場面によって、状況によって、個々の子どもが違った役割を果たしています。皆のなかのわたし、わたしのなかの皆、皆とわたしの関係を常に意識しながら、自分のあり方・他との関係の仕方を考え続ける場を、機会あるごとに全員がつくり続けているのです。

それだから、ピッコロは話し合いに時間を丁寧にかけます。群れでなければ育たない保育だからこそ、その場づくりを大切にします。そこで育つのは、皆の事を自分の事として考えて自己を実現しようという市民の自覚です。ピッコロの光景は、さながら森の中の市民たちを見ているようでした。

 絵本の読み聞かせの時、子どもたちは誰に言われなくも、仲良く、丸くなって座って静かに読み聞かせを聴いていましたが、それについて中島先生は「どうしたら丸く座らせられるかを考える保育ではなく、みずから丸く座るようになるにはどうしたらよいかを考える保育をしてきた。」と話されていました。

また、「子どもたちの才能が出るような場をつくりたい」とも言われていました。子どもたちの才能は安心できる関係があって初めて出てきます。そういう居場所があると、自己肯定感が育ちます。自己肯定感とは、全地球の人間、自然との繋がりを感じ、その中で自己を肯定、尊重できること。全体における掛け替えのないわたしという感覚・意識です。

多様なものを尊重し、支援する。これが本当の平等ですが、多様性の中の統一としてのピッコロという場が成り立っている理由は、「自分の答を子どもに向けている時期もあったが、子どものほうがずっとすごい答を出していた。子どもに教えてもらっていればいい。」という中島先生の言葉の中にありました。

中島先生は場を誘導しません。それでも場が収まるのは、彼女がその場に居る子どもたち全員に対する敬意を抱いているからです。それが、「子どもを信じて待つ保育」ということなのだとわたしは確信しました。

そうすると、いかに自分が評価に曝され続けてきたかを思うと同時に、「わたしはわが子を子ども扱いしていないか?対等の存在として尊重しているか?」と自らに問わざるを得ませんでした。

子育てとは、子どもたちを通じて自分と他との関係の仕方を振り返り、調える、親の成長の場なのだということを改めて痛感しました。

見学の最後に行われた懇談会はまるで神々の集いのようで、車座に座った参加者一人ひとりがまるで神々のように見えました。それはピッコロ保育という場を共にして、参加者全員の中に参加者それぞれを尊敬する心が生まれたからでしょう。

そんな素敵な教育をしているピッコロですが、残念ながら、幼児教育無償化の対象園から外れています。聞くところによれば、ピッコロが自主保育型の運営体であることや、園舎などが行政の定めた基準に合っていないこと等が、理由のようです。基準に合わせなければならない事情はさまざまあるでしょうが、幼児無償化の対象園から外れていることは、ピッコロを運営する上において逆風となっています。

ピッコロへ通わせるに当たっては、初年度だけをざっと見ても、40万円を超えるお金がかかります。収入の厳しい若い世帯は少なくないでしょうから、これはかなりの負担であると思います。そこに幼児教育無償という選択肢を出されたら、多くが幼児教育無償化の対象園を選ぶのではないでしょうか?事実、そうなっていると中島先生は話されていました。

しかし、同じ森のようちえんについて、例えば鳥取県智頭町では、2016年という早い時期から鳥取県と智頭町による保育料減免措置が講じられ、201910月より始まる幼児教育無償化の対象園にもなっています。その効果もあって、森のようちえんまるたんぼうへの入園を目的に移住してくる家族が後を絶たず、町の少子化対策にも大きく貢献しています。

また、子ども一人ひとりが生きる目的に合った場所を選べるようなさまざまな選択肢として、多様な教育施設が制度的に保障されていることは、重要です。

ここ山梨県・北杜市でも、広い視野をもって多様な教育施設を支援していくことが必要ではないでしょうか?

森のようちえんピッコロが間違いなく、そうした教育施設の一つであるということを確認できた見学でした。