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昨日は、山梨県立男女共同参画センターぴゅあ総合で開かれた「やまなしの女性史を学ぶ『山梨の女性の政治参画 歴史と未来』」に出席してきました。

政治分野におけるジェンダー平等は、国際社会で日本は最下位グループ。その日本の中でも山梨県は最下位です。

この現状を打開するために、山梨県の女性たちの挑戦の歴史を振り返り、今後に向けて女性たちの政治参画を促進させるために何をなすべきか考えるという趣旨でした。

昨日の発表は、山梨市議の小野鈴枝さんと元富士川町議の永井寛子さん。とりわけ永井寛子さんのお話は思わず身を乗り出してしまったほどエキサイティングでした。

永井さんが町議会に飛び込むきっかけは28年前に町にゴルフ場建設の話が突如持ち上がったことでした。当時の町長のゴルフ場誘致に町議の多くが賛成する中、わずかな可能性に賭けて反対運動を展開。その中で「これは議会の内部から変えるしかない」と決心し、立候補。2位当選しました。議員になってから粘り強く町長と話し合い、ゴルフ場をめぐる世相の変化もあって、遂に町長から「ゴルフ場建設断念!」の宣言を勝ち取りました。

一方、議員として活動する中で、永井さんは議会改革の必要性を痛感します。議員になった彼女が目撃したのは、“慣例”がものを言う閉鎖的な世界の中で、しがらみに縛られ、おかしいことを「おかしい」と言えない多くの男性議員たちの姿でした。そこで彼女は、女性の視点が必要であると感じます。女性の視点とは、男性社会のしきたりから自由な視点ということです。

 そんな思いを強くしていった永井さんは突然の議員辞職をします。それは県議選に流れる封建的政治風土を変えたいと思ったからでした。1999年当時の県議選は現職の県議が無投票で当選しそうな情勢でした。

「県議選を無投票にしてはいけない。」そう思った彼女は立候補を呼びかけました。しかし現職県議の組織力を前にして、男性たちには諦め感が漂い、誰も出ようとしません。そこで「わたしが出る!」と永井さんが立候補したのでした。結果は落選。その後彼女はNPO法人を立ち上げ、市民と行政の協働のまちづくりを目指しました。

 そんな彼女が4年後再び町議会に復帰したのは、一向に進まない議会改革を前進させるためでした。

「今のままでは議会改革は進まない。」当選後、永井さんは議長選に立候補します。議長となった永井さんは“慣例”となっていた「議長への付け届け」を受け取りませんでした。このようにして地方自治の本旨に違うおかしな慣例を、自らの行動によって正していきました。

そんな永井さんが実現したのが、議会事務局長の任免を議長の手で行うことでした。

議会事務局とは、議会運営のすべてを取り仕切っている部局です。その議会事務局の任免権は議長にあるのですが、実際は町長が決めた出向職員で構成されていました。それを拒否し、議長自ら事務局長を任命したのです。それは、行政と議会相互の抑制と均衡を図る機関対立型システムという本来の行政と議会の関係を実現するということでした。この一件に窺うことのできるように、対立関係にあるはずの行政と議会が共同歩調を取っていたというのが、それまでの両者の関係だったのです。

その典型的な例の一つとして、裏金問題の発覚がありました。議会の行政監視権&統制権の重要なものとして、監査請求権があります。これは、議会は、監査委員に対し、当該団体の事務に対する監査を求め、監査結果に関する報告を請求することができるというものです。ところがこの問題の発覚によって、歴代議会選出監査委員の監視機能の欠如が明らかになったのです。監査委員と首長部局とが生ぬるい関係にあるということの証左でした。みずから監査委員に就いた永井さんは、常態化していた監査委員に対する首長部局の接待を取り止めました。

そして議会改革特別委員会を設置。有識者を招いて議会改革の連続研修会を開催しました。それは地方自治の本旨に基づいた、議会のあるべき姿の実現を目指してのことでした。

議員を退いた現在は、NPO法人スペースふうの理事長として活躍されています。

この話を聞いていてわたしが感銘を受けた訳は、わたしの訴えてきたことと永井さんの取組みが重なっていたからです。今年4月に行われた山梨県議会議員選挙に、わたしは「政治をひらく」という標語を掲げて出馬しました。そこでわたしは、最大会派による正副議長の役職配分の「たらい回し」の慣例の廃止を訴えました。地方自治法に従えば、議長及び副議長の任期は議員の任期によります(103条)。これは、議長の地位の安定を図ることによって、議長が安んじて公正中立に職務を遂行できるようにするためです。ところが現状は、最大会派の議員の内で、当選回数に応じて役職が短期間で非公式に次々と分配されるという事態が続いています。これに対してわたしは、議会内の正副議長や正副委員長などの役職配分、審議する案件の取り扱いや会派別の質問時間などについても、議会運営委員会といった公式の場で決める条文を議会基本条例に書き加えるよう、求めました。

さらには行政に対する議会の監視機能の充実及び強化を訴えました。その目玉としたのが、議会事務局職員の独自人事システムの確立でした。それは現在、首長部局の職員の異動先となっている議会事務局の職員に独自人事システムを導入し、議員の政策能力を向上させると同時に、首長部局の事務執行の監視及び評価を図るというものでした。

ところが、その訴えを同じ山梨県で実行に移していた議会があったのです。嬉しさがこみ上げました。そしてその改革を実行したのは、旧来のしがらみに囚われなかった永井さんだったのでした。

それに付け加えれば、永井さんの例は昨年に行った「飛矢﨑雅也さんと語るハンナ・アーレント」でわたしが語っていた通りのことでした。そこでわたしは、「旧いしきたりを打ち破る可能性を持つのは、社会的しがらみに男性ほど囚われていない女性たちであり、そういう女性たちが政治参画することによって日本の民主政治は発展していく。」と話しました。

 昨日わたしが目の前にしていたのは、そのまさに実例でした。

 日本では憲法は民主主義ですが、社会を動かしているのは、ムラのしきたりです。それでうまくいっているところもあると思います。しかしうまくいっていないところもあります。これまで永井さんの話を紹介しながら書いてきた議会の実態などは、その一例です。

ムラの政治は主に男性たちによって営まれてきました。男性たちは、自分たちの世界がうまくいっていたので、おかしいと思いませんでした。そうして、緊張感のない議会運営が全国各地で行われ続けてきました。そのつけが他ならぬ住民に回ってきているということに、現在少なからぬ市民は気づいています。

そうした市民を永井さんの実例はきっと勇気づけるものと思います。少なくともわたしは、大いに勇気をもらって帰ったのでした。