わたしのブログをご覧いただき、有難うございます。

 

 一昨日は甲府のシアターセントラルBe館にいってきました。話題の映画「新聞記者」を観るためです。

 映画自体は28日に公開されました。それがちょうど先の参議院議員選挙の運動期間に重なったことから、大きな話題に。SNSでもたくさんの投稿があり、気になっていました。ところが、山梨県では参院選が終わるまで上映館はなく、8月になってようやくシアターセントラルBe館で上映され始めました。

 わたしは鑑賞したのは1530分からの回。観客はわたしを含めて10名くらいでした。

 映画は、官邸記者会見で鋭い質問を発し続けて有名になった東京新聞・望月衣塑子記者のベストセラー『新聞記者』を原案にして、近年の政府のメディアへの介入や利益誘導を材料にしながら、この国の民主主義のあり方、ひいてはわたしたち一人ひとりの生き方を問う内容でした。

 この映画を鑑賞して、印象に残った点は三つです。

 まず、権力による情報のコントロール。映画では内閣情報調査室(内調)を舞台に、政権を守るための情報操作やマスコミ工作の様子が描かれます。公安と連携して文科省元トップのスキャンダルを作り、マスコミやネットを通じて拡散させるなど、官邸に不都合な事実をもみ消すためには手段を選びません。

 そうやって、権力者の望まない方向に進んでいくことのないように、見る、知るという選択肢を国民から奪います。最近も愛知県で開かれている国際芸術祭に展示されていた慰安婦問題を象徴する少女像の展示が中止されるという事件がありましたので、いっそう生々しく感じられました

 その少女像の撤去と展示の中止を求める圧力のうちには、河村たかし名古屋市長や菅義偉内閣官房長官といった政治家による圧力がありました。展示以前の段階で、国家の規制による検閲、もしくは自粛規制要請とも受け取りかねない動きを政治家が行うことは、人びとの自由な議論を封殺するに等しい行為です。

万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広くオープンにされることによって初めて、多様な意見が生まれ、そこでそれぞれの考えをもとにした議論が生まれます。作品が多数の人によってさまざまな側面において見られ、したがって作品の周りに集まった人びとが、自分たちは同じものをまったく多様に見ているということを知っている場合にのみ、わたしたちはリアリティーに触れることができるからです。

 表現の自由・展示を守ることは、多様な見方・考えをぶつけ合う議論・対話の場です。したがってその場に蓋をすることは、民主主義の条件を奪うことであり、それ故いかなる情報統制も許されません。

 そしてその点に、歴史や統計資料、そして公文書の改竄と隠蔽といった、自らにとって都合の悪いものについては改竄し、隠蔽しようとしている現政権の問題性もあります。安倍政権は、事実への接近から国民を遠ざけることによって、わたしたちが自由な議論をする場を奪っています。それはわたしたちの民主主義の中身が抜かれているということです。

 先の山梨県議会議員選挙でわたしに推薦文を寄せた中島岳志(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)さんは、月の参院選を振り返って、次のように言っています。

  「安倍内閣は投票率を下げて勝とうとする。だから、争点を明示しない。選挙を盛り上げようとしない。多くの浮動票層に関心を持たせず、固定票で勝ちきるというのが戦略だからだ。

 投票率を下げるためには、メディアが積極的に報道しないほうがよい。安倍内閣になってからテレビメディアの自主規制や萎縮が、繰り返し話題になっているが、テレビ番組を調査・分析するエム・データ社(東京都港区)によると、民放報道は前回選挙から四割も減少しているという。有権者は、必要な情報を手にする機会を確実に失っている。」

 安倍政権が多様な見方・考えをぶつけ合う議論・対話の場を奪っているということ。「この国の民主主義は形だけあればいいんだ」という映画の登場人物の言葉は唱和して、この国で現在進行している危機を伝えています。

 わたしたちの民主主義に起こっている危機に対する接近、これが映画に対する印象の一点目です。

 次に、組織と個人の問題。映画のもう一方の主旋律は、内閣情報調査室に勤める同じ登場人物・杉原拓海の中で、上からの指示を遂行する公務員とその善悪に悩む人間とがせめぎ合っている様です。

 「わたしは国の側の人間です」と自らの立場に依って答えた彼に対して、「そんな理由で自分を納得させられるんですか?わたしたち、このままでいいんですか?」と東都新聞社会部の記者・吉岡エリカは問います。

 その問いはわたしたち全員に向けられているように聞こえました。なぜなら、この社会の中でわたしたちもまた、自分の立場にがんじがらめになって生きているからです。古くからの整理にもとづけば、彼の葛藤は義理と人情の板挟みということなのでしょうが、わたしにはそれ以上の迫真性がありました。

 それはこのシーンを見た時、とっさにアイヒマンが思い出されたからです。アイヒマンとは、ナチス・ドイツの国家保安本部第局B部第4課課長として、東欧地域の数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に輸送する責任者だった人物です。第二次世界大戦後裁判にかけられたアイヒマンは、ユダヤ人を絶滅収容所に送った自らの責任を否定し、自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張しました。

 この裁判を傍聴したアーレント(政治哲学者19061975)は、上からの命令に忠実に従うアイヒマンのような役人が、考えることを放棄し、官僚組織の歯車になってしまうことで、ホロコーストのような巨悪に加担してしまうことを描き出しました。そして、悪は狂信者や変質者によって生まれるものではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる平凡な一般人によって引き起こされてしまう事態を「悪の凡庸さ」と名づけました。

アイヒマンは、妻との結婚記念日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民でした。そして内閣情報調査室に勤める杉原も家族を愛する普通の市民です。その彼が置かれた情況はアイヒマンと同じでした。

 アーレントは、「何人も服従する権利を持たない」という言葉を残しました。彼女は、自分の知識と信念以外には何物にも断固として服従しないと宣言することで、アイヒマンとは決定的に異なる存在たりえました。これに対してアイヒマンは、上司の命令に服従すべしという誓いを果たすことが自分に課せられた義務だと、主張しました。

 登場人物の杉原はどちらを選ぶのか。これへのスリリングな展開が映画に対する印象の二点目です。

 最後に、「よい作品は観る者に葛藤を残す」という印象を鑑賞後覚えました。映画は答を示さないまま、横断歩道を挟んで杉原と吉岡という二人の登場人物が向かい合ったところで終わります。それは、「上からの指示を遂行する公務員とその善悪に悩む人間」という、同じ登場人物の中でせめぎ合った葛藤を表して終わったかのようでした。それが観る者の中に同様にあるものを揺さぶったのかもしれません。

 よい映画の条件として、観た者に考えさせるということがあります。「新聞記者」は問いを観客に投げて終わります。その意味で、「誰よりも自分を信じ疑え」という、吉岡記者の亡くなった父親が遺した言葉は、映画を観た者すべてに残された言葉なのかもしれません。

 

 映画「新聞記者」は、甲府シアターセントラルBe館にて、15日まで上映されています。(8日現在)